息子へ。被災地からのメール(2012年10月26日)

iRyota25

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2012年10月26日◆浄土ヶ浜・田老(岩手県宮古市)~普代(岩手県)

8日間の日程があっという間に感じた今回の東北出張だった。たくさん走って、たくさんの人に話を聞いたように思う反面、やり残したこと、できなかったことばかりが気になっている。

でも、写真や映像では理解できない町の雰囲気や、その場所の空気を感じ取ることができた経験を、今後につなげていきたいと思う。

今日は岩手県宮古市から青森県八戸までの長丁場。しかも帰りの新幹線の時間も気になるから、時間をかけて立ち寄ったのは宮古市を代表する観光地である浄土ヶ浜と津波被害が甚大だった田老(たろう)、巨大な堤防と水門で被害を軽減することができた普代(ふだい)の三カ所だった。

7月にレストハウスが再オープンし、徐々に観光客が戻ってきつつある浄土ヶ浜だが、訪れる大半が被災地ツアーとのこと。観光バスで埼玉から来たという男性は、「実際に被災地の状況を目にすると、国や行政の対応の遅さに腹が立つ」と憤慨していた。「こっちに来る前には、だいぶ片付いてきているんだろうと思っていたんだが、まだまだ何も始まっていないことがよくわかった」とも。

時間をかけてその場に来て、その場所の空気を吸って、その土地の人と話をすれば、人はいろいろなことを思うもの。政府や行政、マスコミが言う復興が「絵空事」でしかないことは、きっと誰もが同じように感じることなのかもしれない。

田老と譜代

田老の防潮堤は、高く長く「X字」に町を海から守り、「万里の長城」とまで言われた巨大建造物。しかし津波はすべての防潮堤を乗り越え、さらに最も新しい防潮堤は決壊、押し波と引き波で破壊しつくされた。

それでも、防潮堤の外側には仮設の浜小屋(漁業の作業場)が建てられて、コンブやシロザケの出荷作業が行われていた。作業場は海の近くにないと仕事にならない。でも、同じ場所に住むことはできないから、田老の町の人たちの多くは、山の上のグリーンピアのテニスコートなどに建設された仮設住宅で暮らしているという。

浜と山の上の二重生活。

ガソリン代だってバカにならない。海とともに生きて来た漁業関係者にとっては、家から海の状況が見えないというだけでも大変なストレスだ。わざわざ車に乗って見に行って、帰りにエンジンをふかして坂道を登っていれば、いやでも高いガソリン代のことが頭に浮かぶだろう。「クソッ」と悪態のひとつもつきたくなるだろう。

それでも漁は続けている。海底の瓦礫撤去も進んで、この秋からは昆布の良い漁場へ入れるようにもなったという。仮設商店街の食堂の味噌汁にもふんだんに使われている、香りと味わいが豊かな美味しい昆布だ。美味しい海の幸が、昔のように田老の港にたくさん水揚げされるようになればいいと、どこかおばあちゃんの味付けにも似た味噌汁をすすりながら思ったよ。

高い堤防や水門が築かれたという点では普代の漁港も田老に似ている。普代でも市場やクレーン、製氷プラントなど海近くにあった施設は大きな被害を受けたが、住宅地は高い防潮堤によって守られた。

「こっちは住宅がやられなかったのが大きかったんだな。海中瓦礫の撤去も進んだし、去年の夏前から漁も一部は再開していたよ」

田老と普代ではもちろん地形がまったく違う。防潮堤の長さも違う。しかし、漁業再開のスタートがこれだけ違った理由を、街づくりの視点から調べてほしいと思った。

生活の場と仕事の場。そしてその距離。生活の基盤が海にある地域は、これからどんな将来を目指すのだろう。

◆ 息子へ

長かった出張も今日で終わり。この8日間、きっといろんなことがあっただろう。

父さんもいろんな人と会い、いろんなことを知り、いろんなことを考えたよ。頭の中がうまく整理できなくて、帰ってもしばらくぼーっとしているかもしれないが、東北で見てきたことを少しずつ話し合っていきたいと思う。

留守中、ご苦労さまでした。それじゃ、4時間後に会いましょう!

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