東北旅行で訪れた2つの防潮堤 ~前編~

sKenji

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現在、東北各地で建設が計画されている巨大防潮堤は、住民の間で賛否が別かれている。建設賛成派は命や財産を守るために大きな防潮堤が必要。反対派は景観を守るため不必要。

5月末に東北旅行に行った際に、訪れた2つの防潮施設を紹介したい。

普代村について

岩手県の三陸海岸沿いに普代村(ふだいむら)という村がある。東北旅行に行くと決まった際に訪れたいと思った場所のひとつである。

東日本大震災では巨大な防潮堤があったにも関わらず、甚大な被害を受けた市町村が多い。しかし、そのような中で普代村は東北有数の高さの防潮水門と防潮堤があったことにより、被害をほとんど受けなかった村である。

以下、津波から村を守った防潮堤について書かれた、岩手日報の記事である。

東北有数の高さ15・5メートルの普代水門(総延長205メートル)と太田名部防潮堤(総延長155メートル)が普代村の津波被害を最小限に食い止めた。過去2度の大津波で多数の死者を出したことを教訓に、当時の村長らの強い要請で整備された巨大な堤防が大津波から集落と村民の命を守った。

 「2度あることは3度あってはならない」。1947年から10期40年間村長を務めた和村幸得さん(故人)には1896(明治29)年、1933(昭和8)年の三陸大津波で多数の犠牲者を出した経験を繰り返すまいという強い信念があった。

 明治の大津波級の津波から村を守るため、当時一般的だった高さ10メートル前後ではなく、東北一とも言われる15メートル級の高さにこだわった。「そんなに高い堤防が必要なのか」という批判的な声も一部あったというが、和村村長らの切実な訴えが実り、普代水門は県営事業として12年間、総工費35億6千万円をかけ84年に完成した。

 村によると、今回の津波は高さ約20メートル。水門を越えたが、そこから上流約300メートルで止まり、付近にある普代小、普代中のほか村中心部も被害を免れた。

 村中心部から数キロ離れた太田名部地区の防潮堤は総工費約6千万円をかけ67年に完成。大津波から約100世帯の集落を守った。同地区に住む太田喜一郎さん(82)は「普代が守られたのは堤防と水門のおかげ」と話す。

 村によると、村内では明治三陸大津波で302人、昭和三陸大津波で137人の犠牲者を出した。今回、漁業施設は甚大な被害を受けたが、被災した民家はなく、死者ゼロ。海岸に出掛けたとみられる1人が行方不明になっている。

 和村村長は退任時のあいさつで村職員にこう呼び掛けたという。「村民のため確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる」

岩手日報・東日本大震災ニュース

村民に感謝されている防潮堤

普代村には岩手県久慈市の宇部地区や野田村を訪れた後に入った。先に訪れた2地区が津波により大きな被害を受けていたのとは対照的に、普代村では津波の影響が見受けられなかった。

村の中心部を車で走っていると、小さなスーパーのようなコンビニがあったので入ってみた。店内を少し見て回った後にガムなどの商品を選んでレジに並ぶ。
そして、お金を支払う際、店内を確認すると他にはお客さんがいなかったので、レジを打っていたお姉さんに

「普代村は防潮堤があったおかげで、津波の被害少なかったと聞いたのですが」
と聞いてみるとお姉さんは、津波による被害がほとんどなかったことを説明してくれ

「村のほとんどの人は防潮堤に感謝しているのではないでしょうか」と言った。そして、防潮堤の脇には記念碑までたてられていることを教えてくれた。

レジ前の立ち話は2、3分程度の短いものだったが、お姉さんの話では普代村では巨大防潮堤が好意的に受け止められているようだった。

最後に防潮堤の場所を聞き、お礼を言って店を後にした。

普代村の防潮水門

コンビニを出たあと、お姉さんが教えてくれた場所へと向かった。村の中心からおよそ1kmほど海の方へ走ると防潮水門が見えてきた。高さ15m以上というだけあり、かなり大きいなものだった。

普代村の主な防潮施設は2ヶ所あり、村の中心地を守っているのがこの防潮水門である。もう1つは、水門から1kmほど海岸沿いに南下した場所に防潮堤があり、漁港に隣接する集落を守っている。

普代村の防潮水門。約3分の2が水門となっている。水門下流の海側より撮影
普代村の防潮水門。約3分の2が水門となっている。水門下流の海側より撮影
水門上流側より防潮水門を撮影
水門上流側より防潮水門を撮影

防潮水門の上に登ってみる。すると、それまで水門に遮られて見えなかった海が見えた。海原が見えた瞬間、ほっとした安らぎ感と爽快感のようなものを感じて、心地よかった。

水門より下流側の河口付近では土地の造成工事が行われていた。

防潮水門に隠れて海はほとんど見えない
防潮水門に隠れて海はほとんど見えない
水門の上に登ると海が見えた
水門の上に登ると海が見えた

水門を挟んだ両側には3年以上たった今でも、津波の影響と思われる明らかな違いが残されていた。

防潮水門より下流の海側では一定以下の高さの場所には木が生えておらず、山際の木々が刈り取られたようになかった。一方、水門の内側である上流側を見ると、川の所々や山際に木が生えている。

防潮水門の上から下流の海側を撮影。写真右の道路脇の山際の木が無くなっている。
防潮水門の上から下流の海側を撮影。写真右の道路脇の山際の木が無くなっている。
水門下流側から水門の内側を撮影。道路脇の山際には木々が生えている
水門下流側から水門の内側を撮影。道路脇の山際には木々が生えている
防潮水門の上で撮影。右側が海側。左側が防潮堤の内側。川や山際の木の生え方に違いがある
防潮水門の上で撮影。右側が海側。左側が防潮堤の内側。川や山際の木の生え方に違いがある

海岸から500mほどの川岸には普代村の小学校があり、その隣には中学校があった。2つの学校は防潮水門の内側にある。もし、この水門がなければ2つの学校はどうなっていたのだろうか。そんなことをふと思った。

普代村の防潮水門を見た後、田老町へと向かった。

<東北旅行で訪れた2つの防潮堤 ~後編~>

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普代村・防潮水門

顕彰碑(左)と防災之碑(右)
顕彰碑(左)と防災之碑(右)
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Text & Photo:sKenji

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