印象だけで物事を判断してはいかんのだが、彼のことは一度だけ拝見したことがある。
原子力規制委員会の新たな委員として、国会で正式承認された田中知(さとる)東京大学大学院教授のことだ。東京電力の原発事故の後、2012年にはじめて福島で行われた原子力学会のシンポジウムで、田中氏は会長として壇上にあった。
原子力学会といえば、原発を推進してきた学者や企業関係者が結集する団体だ。そのシンポジウムだから一体どんなことになるのかと思って参加したのだが、怒号が飛び交うといった場面は一度だけで、表面上は淡々とした雰囲気のなかシンポジウムは進んで行った。
発表者の中には、確率論的リスク評価や深層防護といった難しげな言葉を持ち出して、これからは大丈夫といったニュアンスを強調する研究者や、ひたすら技術的側面のみを解説する企業関係者、東京電力が会社として発表している事故の経緯を繰り返すだけの人もあって、今後も原発を進めたいというニュアンスはたしかに伝わってきた。
そんな中で、会長の田中知氏は中立の立場を保持しようとつとめているという感じだった。シンポジウムの質疑応答でもっともたくさん発言したのは田中知氏で、一部のパネラーの勇み足気味の発言をフォローする場面もあった。自分が出した質問書にも丁寧に答えてくれていた。森林の除染についてという会場からの質問に対しては、壇上にいない別の会員に説明を求め、「森林は面積として非常に広い上に、除染の方法も確立されておらず、たいへん心配している」といった発言を引き出しもした。
推進一本槍というわけではなく、バランスの人なのだろうなと感じた。もっとも印象的だったのは、壇上で着席している間の彼の足。会議室にあるような長テーブルの下、足を投げ出したり、足を組んだりしている人もいる中で、彼は膝を少し落とすような体勢で椅子に浅く腰掛けて、椅子の下、お尻の真下あたりでずっと足首を組んでいたこと。
後になって知ったことがある。原発事故が発生した後、田中氏は原発に反対し続けている原子力研究者である小出裕章氏に会ったということだ。小出氏の著書によると、田中氏は原発事故の原因解明をするために小出氏の意見を聞きたいということだった。ただし、証言者の名前を伏せて行うという「チャタムハウスルール」で。
田中氏は原子力学会の会長として初めて、事故原発の地元である福島県で原子力学会の公開シンポを開催した。田中氏は原発反対派(原子力学会に対するアンチと見られてもおかしくない)の代表格の1人である小出氏と会合を持ちたいと持ちかけた。ただしチャタムハウスルールで。
田中氏は過激な人などではなく、高い知見と科学者としての良心を併せ持つ人なのだろう。そしてきっと優れたバランス感覚も。(あくまでも印象だが)
壇上で足首を組んでいたのは、そこから何かを引き出せるような印象というほどのものではなく、彼の単なる癖だろう。それでも壇上のパネラーたちの姿を眺めるにつけ、何百人もの人を前にした壇上で、そんなふうに足を組むのかと、なにか訝しかったのは忘れられない。足を投げ出して座っているのとどちらがお行儀悪いかはわからないが。
そんな田中氏が原子力規制委員会の委員になる人事案が可決された。候補として名前が上がったとき、一度しか見たことがない人なのに「やっぱり」と感じた。「なるほど」とまで思ったかもしれない。
電力会社や経営者団体、与党からは「再稼働のハードルを上げている」と不評だったとされる島崎邦彦委員長代理らが退任した後釜として、選ばれて当然だろうなと思った。
福島の事故原発は綱渡りの状況が続いている。だが、原発再稼働を進めたい人たちの意思はどうやら固そうだ。とはいえ、再稼働反対の声は小さくはない。
バランスが求められていたのだろう。しかし、何と何のバランスなのかということを考えると気が滅入ってくる。さらに彼のバランス感覚を求めた人たちの思惑を想像してみると、この人事が底知れぬものを抱き込んでいることを感じない訳にはいかない。
ロイターは6月9日、田中氏が原子力事業者や関連団体から760万円超の寄付や報酬を受け取っていたことを伝えた。政府の人事案が衆院を通過したのは6月10日。参院で可決成立したのは6月11日のことである。
[東京 9日 ロイター] - 政府が原子力規制委員会の新委員に起用する方針の田中知・東京大学大学院教授が、2004年度から11年度までの8年間に、原子力事業者や関連の団体から760万円超の寄付や報酬を受け取っていたことがわかった。
東大本部がロイターの情報請求に対して回答した。
<政府、規制委員人選のガイドラインを破棄>
田中教授は、2010年から12年に原子力産業協会理事を務めたが、この点も民主党政権が定めたガイドラインに欠格要件に抵触するとの指摘が一部の国会議員から聞かれる。欠格要件として「直近3年間に原子力事業者等及びその団体の役員」が明記されており、原産協はガイドラインが委員への就任を禁じた「団体」に当たる。
だが、菅義偉官房長官は5月29日の記者会見で、田中氏が原産協理事としての報酬を受けていなかったとして、欠格要件に該当しないとの見解を示した。
また、原子力規制委員会・規制庁を所管する石原伸晃環境相は6日の衆議院環境委員会で、今回の人事案決定に当たり、民主党政権時代のガイドラインについて「考慮していない」と答弁。自民党政権としてのガイドラインは現在なく、今後も作る意向はないという。
人事案が可決承認されたからには、島崎氏以上の活躍を田中氏に期待するしかない。公開が原則の原子力規制委員会ではチャタムハウスルールは通用しないはずだから。
文●井上良太
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