最近、震災の風化を懸念する声を、以前より頻繁に聞くようになりました。風化の問題点として、
・被災された方々は、まだ支援を必要としている。
・次にくる災害への備え。減災。
などが指摘されています。
そのような中、今月2日、26名の方が犠牲になり、660世帯が全半壊の被害を受けた宮城県東松島市の牛網地区では、津波の教訓を、後世に伝える石碑の除幕式が、行われています。
東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県東松島市牛網地区に、大きな地震が起きた際には一刻も早く高台に避難することを語り継ぐ石碑「津波の教え石」が建立され2日、現地で除幕式があった。
震災の教訓を後世に伝えようと、東北ミサワホーム(仙台市宮城野区)などが牛網町内会に建立を打診し、費用約300万円を負担した。
石碑は平岡地区センターの入り口に設置された。御影石製で高さ1メートル80センチ、幅2メートル30センチ。震災が起きた時間や町内会が住民から募集した碑文などが刻まれている。
碑文には「ここにも津波は来る。(中略)まずは逃げる…高台へ。高台へ。伝えてほしい未来に生きる人達へ」などと記されている。
宮古市姉吉地区の石碑
牛網地区からの記事を読んで、忘れかけていた岩手県宮古市・姉吉地区の話を思い出しました。
姉吉地区は、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた岩手県宮古市にあって、人命、家屋ともに被害が全くなかった地域です。以下は、震災後間もない、2011年3月30日付の読売新聞の記事です。
「此処ここより下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
(中略)
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。
姉吉地区同様、過去にあった津波の教訓を今に伝えることにより、助かった地域は、岩手県大船渡市三陸町の吉浜地区など、ほかにもあります。
一方、同じ岩手県宮古市でも、田老地区では「万里の長城」とも形容される巨大堤防を、莫大な費用と時間をかけて作ったにも関わらず、津波が堤防を乗りこえるなどして、多くの犠牲者をだしてしまったことは、よく知られている話です。
いま改めて思う、巨大堤防よりも必要なこと
津波からの被害を免れた地区に共通している「先人からの言い伝え」と「忘れない為のシンボル(石碑)の存在」。被害を受けた田老地区でも、それらはあったそうですが、巨大な堤防に安心をしてしまい、避難する意識が低かったことにより、被害が大きくなった可能性が指摘されています。
防災対策として、堤防を作ることも大切かもしれませんが、最も大切なことは、震災の被害を忘れずに伝えていくことだと、姉吉地区の事例が伝えている気がします。
引用した、2つの記事の終わりには、それぞれ次のようなことが書かれていました。
「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す
「何もなければ震災も風化してしまう。石を大切に守り、地域のシンボルとして後世に伝えたい」
震災の風化もささやかれる今、防災・減災には、何をすべきかを改めて思い起こさせられた牛網地区からのニュースでした。
宮城県東松島市牛網地区・津波の教え石
Text:sKenji
最終更新: