「奇跡の集落」吉浜に建てられたいくつもの記念碑

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岩手県気仙郡吉浜村。現在の大船渡市三陸町吉浜は「奇跡の集落」と呼ばれている。奇跡と称される理由は2つある。ひとつは東日本大震災の巨大津波の被害を受けながら、地域の人的被害は行方不明者1人にとどまったこと(隣の越喜来集落の老人ホームに入居していた11名が亡くなっている)。

明治30年に建てられた正寿院の津波供養碑
明治30年に建てられた正寿院の津波供養碑

そして理由のもうひとつは、明治の三陸地震津波以来、高台移転の声が毎回上げられる中、多くの集落ではいつしか漁業など生計の利便から低地に居住する人が増えていったところを、次の大津波によって被害を繰り返すという悲劇を免れたことによる。

吉浜村を歩くとすぐに気がつくことは、三陸鉄道や国道周辺の急傾斜の土地に、民家がひしめくように建てられていることだ。見下ろせば、紺青の吉浜湾の沿岸には広い平地が広がっているのだが、そこには民家はない。この時期ならば、田植えから1カ月ほどの青々としたイネが海風にゆれる田んぼが広がっているばかりだ。

石川啄木も目にした明治三陸津波の「惨」

急傾斜地の旧街道沿いにある正寿院は、寛文10年(1671年)に創建されたと伝えられる古刹だが、道路に面して明治29年の大津波の犠牲者を供養する石碑が建てられている。

碑文は「嗚呼、惨かな 海嘯」。明治の大津波の翌年明治30年に建てられた慰霊碑だ。碑には津波の犠牲になった人々の名が刻まれているが、風化もあって判読は難しい。しかし、「嗚呼 惨哉 海嘯」の六文字が、120年前にこの地で起きた惨劇を今に伝える。

岩手県出身の詩人・石川啄木は盛岡中学の修学旅行でこの地を訪れている。級友だった船越金五郎氏の日記には、

道路頗る悪し。北東に行進して吉浜に至る。「嗚呼 惨哉 海嘯」と題したる供養碑あり。もって如何に海嘯の凄惨なりしかを忍ぶに足る

石川啄木の歌碑の説明パネルより

とある。吉浜の地で死亡・行方不明約190人を数えた明治の三陸大津波から4年、碑が建てられて3年後のことだった。

この頃吉浜では、初代村長新沼武右ェ門の指導で全村の高台移転が進められていた。三陸沿岸部ではどの集落でも、海辺の漁村の被害は悽愴を極め、高台に移転するより他にその地で生きていく方法はないと考えられていた。しかし、時間の経過とともに、漁業や商売の便のいい平地に暮らす人が増えてく。津波を経験していない他所からの移住者にも、平地に居住人が急増していく。

そして明治の大津波の37年後、昭和の三陸大津波によって、三陸地方の広い範囲で悲劇は繰り返されることになった。

昭和の三陸津波の傷跡

高台移転を推進した吉浜村でも、背後に急峻な山を控えていたため、十分に対場所に移転することができずに17人の死者・行方不明者を出してしまう。しかし、その多くは他所からの移住者で、元々の吉浜村民の死者は4人だったと伝えられている。

昭和の三陸大津波では、住宅地が立ち並ぶ高台のすぐ足下まで津波は到達し、新山神社の鳥居は無惨に破壊されている。河口から沖合200メートルにあった重さ30トンもの大岩が津波石として陸地に流されて来たのも、この大津波の際のことだった。

津波の追憶
津波の追憶
津波の追憶の碑の横に置かれた新山神社の鳥居の基部。どうしてこのように割れてしまうのか
津波の追憶の碑の横に置かれた新山神社の鳥居の基部。どうしてこのように割れてしまうのか
昭和の津波で破壊された鳥居の基部があった場所から、現在の鳥居は高所に移転している
昭和の津波で破壊された鳥居の基部があった場所から、現在の鳥居は高所に移転している
【遺構と記憶】東日本大震災で再び姿を現した吉浜の津波石
 【遺構と記憶】東日本大震災で再び姿を現した吉浜の津波石
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吉浜の津波石は、明治の三陸大津波で集落のほとんどが高台移転した後、田んぼにされた平地からさらに海よりの砂浜、護岸工事の現場にある

被害は小さくなかったものの、隣接する他の地域に比べると人的被害を抑えることができた吉浜村だったが、昭和の震災の後、当時の八代村長柏崎丑太郎は高台移転が欠くべからざることを力説し、さらに高台移転を推進する。その結果がこんにちの吉浜の町の姿にむすびついているのだという。

奇跡の集落の意味

そして78年後の東日本大震災で、吉浜地区は「奇跡の集落」と呼ばれるようになる。

吉浜津波記憶石「奇跡の集落」
吉浜津波記憶石「奇跡の集落」

しかしながら、この吉浜地区内の被害は他所と比較して極めて軽微であったことから、内外の報道機関に「奇跡の集落」と呼ばれ、最も被害の少ない地域として注目されました。

(中略:初代村長新沼武右ェ門と八代村長柏崎丑太郎の偉業を紹介)

ここに、亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、二人の村長とその教えを守り、徹してきた戦陣の偉業を顕彰し、いっそう防災意識を「高め」「広め」「伝え」地元はもとより他地域の災害による被害軽減にも役立つことを願ってこの碑を建立します。

平成26年3月11日
吉浜地区津波記憶石建立実行委員会

吉浜津波記憶石「奇跡の集落」建立に当たって

さりながら、である。人命の被害が少なくて済んだことが何よりなのは言うまでもない。「命さえあれば」とは震災後、多くを失った人たちが語った言葉だ。しかし、こんな言葉もあった。

「生きることができただけでもありがたいのだけれど、今苦しい思いをしているのは生き残った人だけなんだよね。申し訳ないけど、あのとき、死んでいればよかったと思うことがまったくないとは言えません」

地元紙に吉浜村への支援が届いたとの記事が載せられたのは、大震災から1月以上経ってからのことだった。それまでには支援物資が集落にキャベツ1個だけということもあったという話も聞いた。

人的被害が少なかったからといって、被災による被害がなかったということではない。

私たちは、津波や地震はもとより、台風や洪水、火山噴火などの自然災害で、「農業関係の被害額は総計○億円」などといった報道に接することがあるが、農業関係者以外の人にとっては、被害の状況を想像することすら難しい。どうしても「人的」被害の方がイメージしやすいのは致し方ないことかもしれない。

しかし、死者が出なかった、少なかったということと、被災の実情は必ずしも一致しない。災害の後にも長く続く困難に苦しむのは、生きている人たちなのだということを、もう一度、いや何度でも噛みしめる必要がある。

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