「30年間、ジャングルの中でサバイバル」
現在の日本では信じられないような人生を送った方々がいた。元陸軍少尉・小野田寛郎さんもその一人。
「終戦を知らずにジャングルに30年間潜んでいた人物」という小野田さんの存在を
初めて知ったのは、たしか小学生のときだった。電気、水道などの恵まれたインフラに囲まれている生活があたりまえで、平和な時代を享受している自分にはあり得ないことであり、衝撃的な話だった。
そんな小野田さんが、今月16日、肺炎のため都内の病院で亡くなったということをニュースで知った。
小野田さんについて
小野田さんは、大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれる。第二次世界大戦末期の昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣されるが、その翌年に終戦。しかし、任務解除の命令を受けられなかったために、終戦後も30年間、フィリピン・ルバング島のジャングルにこもって戦闘を続け、昭和49年3月に任務解除命令を受けて帰国している。帰国後、「わがルバン島の30年戦争」などの本を出版している。
小野田さんが残した言葉
訃報に接し、改めて小野田さんのことを調べてみる。すると、小野田さんという人物について、様々な意見があった。
真偽は不明だが、小野田さんの著書「わがルバン島の30年戦争」のゴーストライターと言われる津田信氏の話など批判的なものもあれば、賞賛的な意見もある。ちなみに当のご本人は次のように述べている。
(世論では)私は「軍人精神の権化」か、「軍国主義の亡霊」かのどちらかに色分けされていた。私はそのどちらでもないと思っていた。私は平凡で、小さな男である。命じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である。
批判的な話については、また後日、詳細に調べてみたいとは思うが、故人について私が一番印象的だったのが、小野田さんが残した数々の言葉だった。
終戦後、密林の中で30年間、孤独に戦っていた人間だからこそなのか、その言葉は胸に突き刺さるものが多かった。以下、小野田さんの言葉を一部引用する。
■小野田さんが残した言葉
・道具は正しく使ってこそ道具。間違うと凶器になる。
・戦いは相手次第。生き様は自分次第。
・自制や自律は筋肉と同じ。
鍛練すれば強くなり放っておくと、
生まれた時の自我に戻ってしまう。
・貧しくたっていいじゃないか。
乏しくたっていいじゃないか。
卑しくなければ。
・豊かさは自分の心で感じるもの。
不便さは何とでもなる。
最後は自分の五体で何とかなる。
・過去は捨てることはできない。
現在は止めることができない。
しかし、未来は決めることができる。
・コンパスは方向は教えてくれるが、川や谷の避け方は教えてくれない。
コンパスばかり見ていると川や谷に落ちてしまう。
自分で考えて判断しなければ。
・強い人ほど優しい。
強い人は余力があり、弱い人を助けたくなる。
誰でも「他人のために働きたい」とは思っている。
それには強くならなければ。
その他にも、数々の名言を残しているが、いずれも小野田さんの人生が如実に現れている言葉で、耳が痛いものも多い。
そんな小野田さんが、ルパング島での一番の悲しみは 戦友を失ったことであり、人間は一人では生きられないという言葉とともに次のように述べている。
「魚は水の中でしか、人は人の中でしか生きられない」
魚は水 人は人の中―今だからこそ伝えたい師小野田寛郎のことば:著者・原充男
ジャングルで30年間生き延びてきた孤高の人とも思える人間が、一番求めていたのは「人と人とのつながり」ということなのだろうか。
今の日本に・・・
その後、小野田さんは帰国した翌年の昭和50年にブラジルに移住して牧場を開業する。
しかし、川崎市の予備校生が金属バットで両親を殴り殺した「金属バット事件」がきっかけとなり、59年に青少年育成のための「自然塾」を開き、平成元年に「財団法人小野田自然塾設立」を開設した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていたという。
フィリピンのジャングルからいきなり30年後の日本に戻った小野田さんは、今の日本に何を見ていたのだろうか。
戦後60年の終戦記念日の企画で対談した際に、今の行きすぎた利己主義を懸念し、次のように述べて、国の行く末を案じていたという。
「他人がまったく目に入っていないような感じがします。日本の今の人たちに信義があるのか、とも感じています」
戦争に翻弄された小野田さんのご冥福をお祈りいたします。
参考WEBサイト
ルパング島
Text:sKenji
最終更新: