歴史の中の10月15日
▼1793年 マリー・アントワネットに死刑判決
1989年7月14日のバスティーユ襲撃に始まったフランス革命の最中、1993年1月21日に夫であるルイ16世が処刑された後、マリー・アントワネットの処遇については革命裁判所で裁判が続けられてきた。マリー・アントワネットはすべての罪状について無実を主張してきたが、この日、ギロチン処刑が宣告された。
翌日の処刑を前にマリー・アントワネットが妹宛に書き残したという「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という言葉は有名。
マリー・アントワネットは10月16日正午過ぎ、コンコルド広場に設置されたギロチンで処刑され、37年の生涯を終えた。
▼1894年 ドレフュス事件
ドレフュス事件は19世紀末のフランスで起きたスパイ冤罪事件。国を二分する大論争に発展した。ベル・エポックと呼ばれる華やかな時代の陰の部分の象徴でもあり、差別という人間の負の性質が国民国家が発展していく時代の空気の中で露呈した出来事でもあった。
ユダヤ系フランス人の陸軍士官アルフレド・ドレフュスは1894年の10月15日、突然逮捕される。ドイツへの機密情報漏えいの嫌疑だった。その後彼はでっち上げられた証拠のみで有罪判決を受け、南米フランス領ギアナの大西洋に浮かぶイル・デュ・ディアブル「悪魔島」に流される。
終身禁固刑を受けたドレフュスだったが、彼は完全無罪を主張し続ける。フランス国内では新たな証拠の発見や、論争が国論を二分する大きな政治運動となったこともあり、12年後にようやくアルフレド・ドレフュスは名誉を回復する。
1904年 バルチック艦隊が出航
日露戦争で旅順軍港に封鎖されたロシア艦隊を救援、日本海軍を撃破すべく、バルト海に面したリエパーヤの軍港から、急遽編成された第二太平洋艦隊(日本側の通称バルチック艦隊の一部)が出航。地球を半周する航海の末に日本を目指すが、途中イギリス漁船を誤って攻撃したことでイギリスの世論が反ロシアに傾き、大英帝国領への寄港を拒否される。ロシアの艦隊は満足な寄港地を得られぬまま航海を続け、およそ7カ月をかけて日本近海にたどり着くも、5月27日に勃発した日本海海戦で壊滅してしまう。
▼1917年 ダンサー「マタ・ハリ」がスパイとして銃殺される
マレー系オランダ人でパリを中心に活躍したダンサーのマタ・ハリ(本名:マルガレーテ・ゲルトルード・ツェレ)が、スパイ容疑でフランスに捕えられ、有罪判決の後銃殺された。
マタ・ハリはマレー語で「暁の瞳」を意味する。家庭生活を捨てパリでダンサーとして成功したマタ・ハリは、フランス・ドイツ・ロシアの数多くの軍人と関係を持ったとされる。スパイとしてはまずドイツ人将校の勧めでドイツ側のスパイとして登録。そんな彼女にフランスは二重スパイになるように誘いを掛ける。
マタ・ハリが本当にスパイだったのかどうかについては長く議論されてきたが、1970年代に西ドイツが発表した文書によって、彼女が「H21」という登録名を持っていたことが明らかになる。スパイだったことは間違いないとされた。しかし、その後発表されたイギリスの諜報機関MI-5の文書によると、彼女がスパイであると自白していないのみならず、共犯者についても語っていないという。さらに彼女がスパイとしての適性を欠いていたのではないかと疑われる、こんな記述もある。「彼女は関係を持ったすべての将校を愛していたというが、どちらかというと貧しい将校をより深く愛する傾向にあった」。有能なハニー・トラップというイメージからはほど遠い。
マタ・ハリが捕えられた嫌疑は、三重スパイとしてフランスの情報を敵国に送り、多くのフランス兵を死に至らしめたということだったが、裁判では具体的な証拠は示されていないという。裁判はわずか40分で終了し、死刑判決が下された。
10月15日の早朝、パリ郊外ヴァンセンヌの古城で銃殺された。処刑されるにあたり、彼女は目隠しを拒否し、投げキスををしたとMI-5の文書は伝えているという。
死後、引き取り手のなかった彼女の遺体は医学研究のために解剖された。彼女の遺体の一部は保存処置を施されパリにある解剖博物館に保管されていたが、いつの間にか失われたという。
▼1945年 治安維持法が廃止される。GHQによる強い指示による
▼1952年 陸上自衛隊の前身となる保安隊が発足
1950年に発足した警察予備隊(National Police Reserve)を改組して、国内保安のための武装組織「保安隊」(National Safety Forces)が発足。
将官(将軍)に「保安監(旧陸軍では中将に相当)」、大佐に「1等保安正」、さらには戦車には「特車」という名称を宛てるように、旧軍の復活を印象づけることを排除した組織ではあったが、ライフルから戦車まで、米軍に供与された装備を用いていた。
この日が誕生日
◆1608年 エヴァンジェリスタ・トリチェリー
フィレンツェ生まれの物理学者。大気圧の発見、水銀気圧計の発明者。トリチェリーの定理を発表した。圧力の単位「Torr」は彼の名による。ガリレオ・ガリレイの弟子としても知られる。
◆1763年 谷文晁
江戸時代の画家。狩野派、大和絵、西洋画など多彩な絵画伝統に学び、独特の画風をなした。多くの弟子を育て、渡辺華山も彼の弟子の一人。徳川御三卿の田安家に仕官し、松平定信にも仕えた。
(旧暦誕生日の換算はwikipediaによる)
◆1881年 早川徳次(のりつぐ)
東京地下鉄道(後の帝都高速度交通営団、東京地下鉄:東京メトロ)の創始者。1927年12月30日に日本初の地下鉄路線、上野・浅草間を開業した。
◆1885年 柳原白蓮
大正から昭和にかけて活躍した歌人。本名は燁子(あきこ)。出自は大正天皇の従妹に当たる。九州の炭坑王と離婚スキャンダル、白蓮事件はNHKの朝ドラにも取り上げられた。大正三美人に数えられる。
「殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記」
「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」
「誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥」
「年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木のかげに」
「ひるの夢あかつきの夢夜の夢さめての夢に命細りぬ」
「そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ」
歌よりもスキャンダルの人との印象が強いのは彼女にとっての不幸だろう。百蓮の歌の美しさは透徹している。
◆1935年 蜷川幸雄
日本の演出家、映画監督
◆1942年 江波杏子
日本の女優
◆1982年 真木よう子
日本の女優
この日亡くなった人たち
・1564年 ヴェサリウス
ベルギー出身の医師、解剖学者。人体解剖図譜「ファブリカ」を著す。アリストテレス以来の観念的な人体の構造への理解を改める一歩を刻んだ。
・1917年 マタ・ハリ
マレー系オランダ人でダンサー。二重スパイ、三重スパイの嫌疑をかけられフランスで銃殺された。
・1933年 新渡戸稲造
日本の農学者、教育者。盛岡藩士の子。国際連盟事務次長を務めた国際派で、彼が著した「武士道」は日本文化を知るテキストとして、現在も読み継がれている。
・1946年 ヘルマン・ゲーリング
ナチスドイツの空軍元帥、政治家。第一次大戦で航空士官として活躍、戦後ナチス党入党後は突撃隊の指揮官としてヒトラーに認められる。第二次世界大戦勃発直後には、戦車部隊など陸上の機械化部隊と航空機の連携による電撃戦を確立するが、イギリス本土上空の航空戦バトル・オブ・ブリテンで大敗を喫した後は、次第に冷遇されるようになる。
戦後のニュルンベルク裁判では、ゲーリングが戦中を通してヒトラーに次ぐ権力者であったことが指摘され、情状酌量の余地はないと絞首刑が言い渡された。
ゲーリングは死刑執行の直前、密かに隠し持っていた青酸カリのカプセルを服用して10月15日に自殺した。
10月15日は「たすけあいの日」
ボランティアという言葉すら一般的ではなかった1965年、全国社会福祉協議会が制定した。全国社会福祉協議会は、災害被災地でボランティアの差配を行うボランティアセンターなどを運営する「社協」の全国組織。たすけあいの日は身近なたすけあい活動、奉仕活動を推奨するために制定された。
改めて「たすけあい」と言うと大げさな印象もあるかもしれないが、たとえば電車やバスで席を譲る人を見た時に感じる「いいな」という気持ちを大切にしていけば、世の中の空気はきっと良くなっていくだろう。
10月15日は、たすけあいの一歩を踏み出すギャップを減らすための日、ということなのかもしれない。
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