第3回福島視察ツアー(※1)に参加する。
今回で3回目を数える福島視察ツアーは、震災直後と変わらない福島の旧警戒区域を中心に見て回り、現状を共有することを目的としているとのことだった。
旧警戒区域とは、原発事故後に立ち入りが制限されていた区域のことで、福島第一原子力発電所から半径20㎞圏内の地域がそれにあたる。現在は、再編が行われ「帰還困難区域」、「居住制限区域」、「避難指示解除準備区域」に分けられている。
第3回目のツアーは、立ち入りが制限され、前2回では行くことができなかった一部の区域にも入る。
ツアーのスケジュールは以下のとおりである。
・8月23日夜、バスで静岡県浜松市を出発。
・8月24日早朝、福島県双葉郡到着。旧警戒区域を見て福島県いわき市に宿泊。
・8月25日に小名浜を見た後、浜松に戻る。
私は都合により、最終日に小名浜でツアーを離れた。
浪江町へ
8月23日(金)、夜中の22時に浜松駅に集合する。
今回のツアー参加者は28名。全員が集まると、バスは出発した。
途中、休憩を入れながら、目的地を目指すのだが、この休憩が2、3時間おきに入るので、どうしても眠りが浅くなってしまう。
翌日早朝、バスは福島県双葉郡広野町にあるJヴィレッジ近くのコンビニエンスストアに到着。ここで1時間半の朝食休憩となる。
夜行バス移動ということもあり、半分寝ぼけながらコンビニの店内で何を食べようかと考えていた。すると、復旧関係の作業員と思われる方たちの団体がどっと来て、あっという間に、店内は大勢の作業員の方で埋め尽くされた。
お店の中がにわかに騒然となる。作業員の方たちは手早く商品を選び、レジに並ぶ。あっという間に、店内を一周する長いレジ待ち行列ができる。コンビニでこれほどの行列は、生まれて初めてだった。
復旧作業の最前線であることを感じ、眠気が覚める。
コンビニを出発すると、国道6号線を北上して浪江町請戸地区を目指す。
居住が制限されている区域であるために、店や民家には、誰も住んでいないようだった。
楢葉町役場に行く手前には、除染で出た土を入れた大型土嚢が、広大な敷地に所狭しと置かれている場所がある。土嚢は2段、3段と積まれている。
第一原発手前の富岡町本岡新夜ノ森に検問所があり、ここから先は許可証がない車は通行できない。
ちなみに国道6号線上には、第一原発の南側と北側に計2ヶ所の検問所が存在する。南側の検問所が新夜ノ森にあり、北側は浪江町高瀬地内にある。
南側の検問所でチェックを受けて、立ち入りが制限されている区域に入る。
検問所を過ぎて少し行くと、放射線測定器の数値が上がってくる。
はままつ東北交流館(※2)のスタッフが持っている測定器は、放射線量に変化があると、「ビィ」という短い音を発して知らせてくれる。
福島第一原子力発電所が近づくにつれ、変化を知らせる音は、間隔が徐々に短くなり、そのうち断続的に鳴り始めた。
「2.62uSv/h、5.02uSv/h、8.23uSv/h・・・」
はままつ東北交流館のスタッフが、刻々と上がっていく放射線測定器の数値を読み上げる。
そして、ついにある一定のラインを超えたことを知らせる警告音がバスの中に鳴り響いた。車内には緊張感が走った。
私が身に着けていた測定器も、設定しておいた10uSv/hの値を超えたために光、振動とともに警告音を発した。
私の測定器は、11.24uSv/hという数値を示していた。これは、都内の100~200倍以上の線量になる。第一原発までは、直線距離でおよそ2.5㎞の位置だった。
放射線量が、最も高かった地点から5分ほど行った場所に北側の検問所がある。検問所に差し掛かると、バスは駐車場に誘導され、係員が車内に乗り込んできた。南側の検問所では、通行許可証のみの確認だったが、北側では、ひとりひとり身分証明書による身元チェックも行われた。
浪江町請戸地区
北側の検問所から10分ほどで、浪江町の請戸(うけど)地区に到着。
震災前、この地区にも住宅があったらしいのだが、今は、雑草が生い茂った緑の中に漁船や車などが点在している状態だった。
請戸地区から福島第一原子力発電所までは5㎞ほどの距離のため、原発施設のクレーンや鉄塔も肉眼で見ることができる。
2年半前、原発建屋が吹き飛んだときのことを思い出す。私はその模様をテレビで見ていた。最初、建屋でなく原子炉が爆発したかと勘違いをして、衝撃と絶望を感じた。日本の多くの場所で、人が住めなくなってしまうのではないかと思った。
完全にコントロールされているとは思えない核燃料が、今もあそこに当時の状態のままあるのかと思うと、恐ろしさを感じる。
道路脇には慰霊碑があり、たくさんの花束が供えられていた。
震災当時、ここで地元の消防団員の方が救助活動を行っていたとのことだった。しかし、原発が近かったために避難指示がでて消防団員も避難した。避難前、助けを求める声や、救助を求めて物をたたく音を団員の方が聞いており、生存者がいたと思われるという。
原発事故さえなければ、何人もの人の命が救われたのではないだろうかと、団員の方が無念に思われていたことや、原発近くの避難区域では、自力では逃げることができずに餓死した疑いの強い人が少なくとも5人はいるとの話をニュースが伝えていた。
鮮やかな緑一面のこの場所で、あった出来事を考えずにはいられない。
JR双葉駅付近
請戸地区を後にすると、再び来た道を戻り、JR双葉駅へ。
この辺りは帰還困難区域に指定されているために、住民の気配は感じられない。放射線測定器を見ると、常時、3uSv/h前後と高い数値を示していた。2013年9月現在では、除染作業計画は決まっていないとのこと。
駅周辺を歩いて見ると、倒壊した家屋が道路の一部を塞いでいたり、神社が傾くなど震災直後の状態で、復旧作業は手つかずのようだった。
富岡町夜の森地区
JR双葉駅を後にして、富岡町夜の森地区へ。
震災前に富岡町に住んでいた方の説明を聞きながら歩く。
放射線量は、1uSv/h強~3uSv/h強と高い数値を示していた。
町からは人の営みが消え、歩道に放置されたままの錆びついた自転車、道路脇に設置されたタマゴの自動販売機など、震災直後のような状態だった。
夜の森地区は、通り一本を境にして帰還困難区域と居住制限区域が分けられている。帰還困難区域につながる道路はバリケードが設けられて、通行止めとなっていた。道路一本で違いがあることに対して、補償問題など住民の間にも問題が生じているとの話を聞いた。
夜の森地区を歩いた後に、JR富岡駅へ移動して、駅周辺を見て回る。その後、「道の駅 よつくら港」で昼食をとり、いわき駅前のホテルに移動して、この日のツアーは終了する。
ツアーに参加して
ツアー最終日、ホテルチェックアウト後に小名浜に移動する。ここで、私はツアーを離脱して、仙台へ向かった。
実質1日という短いツアーではあったが、通常では立ち入ることができない区域を自分の目で見てきたからこそ、感じたこと、知ったことがあった。
原発の核燃料に対して手をつけることができずにいる今、もし、大きな余震が来たり、国内外で大きな地震が発生し、津波に襲われた時、果たして第一原発はどうなるのだろうか。最悪の事態を、人が誰も住んでいない街を歩きながら想像した。
10uSv/h以上の高い放射能が計測された原発近くを通った後に訪れたJR双葉駅。3uSv/h前後という、これまでだと高いと感じてしまう数値にも、以前ほどの抵抗を感じなくなっている自分がいた。
浪江町の請戸地区から、福島第一原子力発電所のクレーンや鉄塔が見えた時、原発建屋の爆発映像が、鮮やかに蘇った。
原発事故によって引き起こされること、慣れに伴う感覚のマヒの恐ろしさ、時間が立つと薄れてしまう人の記憶。
テレビや活字を通してではなく、自分の目で見て、体験することの意味を再認識したツアーだった。
福島第一原子力発電所
(※1)はままつ東北交流館、株式会社エマ観光(静岡県磐田市に本社を置く旅行業者。1965年8月設立。)の共同企画で、福島の被災地を中心に視察するツアー。現地を直接見ることにより、現状を共有することを目的としている。
(※2)「はままつ東北交流館」は福島の双葉町から浜松市に避難しているスタッフが
避難者支援・震災の風化防止啓発・東北物産販売を行っている団体で、福島県の被災地視察ツアーも企画している。館長は、震災前に福島県の双葉町に住んでいた佐藤大さん。
Text & Photo:sKenji
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