2012年1月21日(震災から317日目)の南相馬市小高区~浪江町~双葉町~大熊町
東日本大震災から1年がたとうとしていた、いまから1年ほど前の「警戒区域」。許可証を持って区域内に入った方から提供していただいた写真から、当時の状況を振り返ります。
南相馬市原町区大甕(おおみか)の立入禁止ゲートを過ぎてすぐの光景です。津波で流された自動車が田んぼの中に取り残されています。
南相馬市小高(おだか)区、国道沿いのガソリンスタンドです。まるで震災直後そのままに思える光景です。
道路沿いには流されてきた自動車。重たいエンジン部分を下にして、津波で流されたままの姿で残されています。
無人の駅前通り。歩道の敷石の間から伸びた雑草が立ち枯れています。
JR常磐線小高駅。駅の入り口は施錠されたままだということです。
持ち主が取りに戻れなかった自転車が放置された駐輪場。
駅でUターンして、駅前通りを西へ進みます。
津波は線路を越えたということですが、駅前通りの被害は地震の揺れによるもののように見えます。
丈夫そうな土蔵のような建物も、車道に倒れ込んでいます。まるで阪神•淡路大震災の被災状況のようです。
駅前から国道6号線に戻る途中の市道です。歩道の敷石の間から伸びた雑草。それすらも立ち枯れた光景が、時間の経過を無残に象徴しています。
ここは中古車販売店だったそうです。盗難から守るために一時帰宅の際に商品である車を撤去したらしいという話でした。
ゴミ捨て場に残されたゴミ。
提供して頂いた写真には生き物の姿がほとんど写っていません。しかし、綱を解かれた牛や犬、さらに牧場から逃げ出したダチョウなど、ほぼ無人化した警戒区域内を餌を求めて徘徊する動物はかなりの数に上るとのことでした。「これまでに何度も牛と衝突したという交通事故の話を聞いている。けが人も出ているらしい」と話してくれました。
国道6号に戻り、小高区から南下して浪江町に向かいます。2012年4月16日以降、警戒区域の解除や避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域の設定が段階的に実施されてきましたが、浪江町東部、双葉町、富岡町は現在も警戒区域に指定されたままです。福島第一原発の敷地の多くが立地する大熊町は、帰還困難区域・居住制限区域・避難指示解除準備区域の3つに分断されています。
そんな相双南部への国道沿いには津波で被災した建物が点在していました。
国道から海へ向かった河口付近。浪江町の「請戸川(うけどがわ)」は鮭が遡上する川として有名でした。秋のシーズンには河口近くに簗場(やなば:鮭を獲るために川の中につくられる仕掛け)が設けられ、出店も立ち並んでにぎわっていたそうです。
2本並んで掛けられていた橋の海側は流され、川には橋脚やがれきが残されたままです。
最終更新:
iRyota25
私の取材はたくさんの人たちに支えられています。
被災地と呼ばれる地域の外側(実は自分は内外を区分することには賛成ではないのですが)からやってきた私の取材を、内側の人たちが支えてくれる。このことをどう考えたらいいのでしょう?
私たちの「つながり」(絆と言ってもいいでしょう)は、外の人たちの想像以上に「強く、深く、濃い」のです。
iRyota25
3月11日から、もうすぐ2年になります。
警戒区域に指定されていた土地は、ほぼ1年立ち入りが制限され、その後もさまざまな規制があって「地域の復活」はおろか「復旧」すらトラック1周、いや10周、数10周遅れの状況です。
提供していただいた写真に写されていた場所は、すべて「誰が住んでいた場所」だということを思っていただければ幸いです。
habihabi64
わたしも、子供たちに、そしてその子供たちにも、この津波の被害や原発のこと。。伝えていける力を自分自身しっかり身につけて、後世に伝えていきます。