小学4年生3学期から5年間、部屋に引きこもった。当時は登校拒否といわれたその体験を詩画集「あかね色の空を見たよ」にまとめたのが24年前。映画化もされ話題となりました。時を重ねてコロナ禍の今、瀬戸内海の離島で不登校の子が通うフリースクール育海を開校。自らの体験を大きな価値に変えた堂野さんの教育への想いと体験談をうかがいました。
堂野 博之(どうの ひろゆき)
1970年8月、尼崎市生まれ。小4で岡山県に転居。1986年4月岡山県立烏城高等学校入学、90年3月同行卒業。同年4月岡山県立岡山養護学校に校務技術員として就職。94年4月より岡山県立西大寺高等学校に校務技術員として勤務。その後、2校を経て2018年に独立。一般社団法人飛島学園代表理事、一般社団法人かさおか教育dmo代表理事、著書に詩画集「あかね色の空を見たよ」など。岡山県内に妻と娘たちを残し、大飛島に単身赴任中。
登校拒否を5年間経て、15歳で家を出る。
――堂野さんは小学4年生から5年間部屋に引きこもったということですが、まだ幼い頃に何がきっかけで不登校になったのでしょうか?
小学4年生の時、父の仕事の都合と家庭の事情で、滋賀県から母の実家がある岡山県美咲町へ引っ越しをして、千人以上の学校規模から、1学年10数名の小規模校へ転校しました。不登校は40年前当時、登校拒否という呼び名でした。きっかけは転校、いじめ、性格的な要素などいろいろあったと思います。それは心のコップの水がいっぱいで、溢れてしまった最後の一滴が何だったか?というのと同じで、特に何があったからというのではなく、いつか必ずそうなっていただろうと感じています。僕は繊細過ぎて学校生活でストレスを感じてしまう子でした。失敗を避けたくて、いい評価を大人からもらわないと気が済まない完璧主義。自分ではなく誰かが怒られていても居たたまれなくなってしまったり。生活上でストレスを感じやすい敏感さがあって、積もり積もって小4のある時、爆発して壊れてしまったんです。
――ひきこもっていた5年間はどんな生活を?ご家族とは会話をされていましたか?
3つ上の兄と4つ下の弟がいて、僕は男3兄弟の真ん中でした。僕が学校へ行けなくなってから家庭が壊れてしまい、毎日喧嘩。家族全員がどん底に落ちてイライラしてふつうの交流がなくなってしまった。当時は学校へ絶対に行かなくてはいけないという風潮で、学校の先生には力づくで学校へ連れて行かれたり、両親も学校へ行かせるのが親の務めだと思っていました。学校!学校!学校!で、休んでいいよという考えは1ミリもなかったですね。
――それは苦しかったですよね。何がきっかけで再び学校へ行こうという気持ちに?
最初の3年間は学校へ行かせるために両親も、学校と向き合ってきました。僕は猛反発してものすごい対立感情が生まれ、心を開かなくなってしまった。大人は敵だ!と。ただ5年目になって、親は『できることはやり尽くしたけれど、家族がこんなおかしな状況でいいんだろうか?』と。学校に行かなくても家族の一員として認めて、できることをやってもらったほうがいいんじゃないかと、親も変わり始めた。家の手伝いを段々始めてから、僕自身も落ち着いてきました。中学3年といえばもう義務教育終了で、進学先の高校をどうするか?となった。
――高校進学が変化のきっかけとなったのですね。どうされたんですか?
担任の先生は、今の堂野君だと全日制高校は厳しいかもしれない。高校は他に、定時制と通信制というのもある…と教えてくれて。僕は定時制に何か光を感じたんです。そこは家を出ないと通えない学校でした。長い間、心を閉ざしていたのと反抗期も重なって両親の前で正直に振舞えなくなっていて、だったらそこを飛び出してゼロから自分の力でやってみたいという気持ちが強くなった。ただ、その気持ちもずっと伝えられなくて…。
――15歳で家を出る決意は自立が早かったですね。すんなりと運びましたか?
自分の気持ちを伝えられずに、とうとう中学の卒業式を迎えて。式も行かなかったのですが、夕方仕事場から帰宅した母は満面の笑みで、今まで5年間見たことのないようなスッキリした顔でした。闘い続けた義務教育がこれで終わったと、肩の荷がおりたんでしょうね。母が僕に向かって「ひろちゃん、あんたようがんばったね。辛かったろう。でも、おかあさんも頑張った。おかあさんも辛かったんじゃ」と言われて。それまでバリアを張って拒絶してた親の言葉が妙に胸に刺さって、何年かぶりでまともに会話したような、あったかい気持ちになった。
それでその夜、両親にやっと進路について話したら驚かれて「え!そんなこと考えていたの?」と。大応援します、と受け止めてくれました。それが転機になりました。
――多感な時期に5年間一人でいろいろ考えて、成長されたわけですね。
当時は今のようにインターネットもなく、スマホもなく、何もすることがなく、外を出歩くこともテレビを観ることすら憚られて、学校に行ってないのに何をしているんだ!と。そういう感覚でしたから本当に居場所がなかった。布団の上でただ時が過ぎるのを待っているような。僕なんかどうなってもいいや、と自殺願望もあった。それを何とか両親も耐え忍んで乗り越えてくれて、「信じて待つ」と言葉としては一人歩きしますけれど、そこへ至るまでの5年間は闘いの日々でした。両親に感謝しています。
人との出会いと、憧れの変化と転機。
――定時制高校では、どんな生活でしたか?
もう、これが大変で大変で(笑)。人間関係、コミュニケーションスキルが全然育っておらず小学校2,3年生で止まっていたので、わからないことを素直に人に聞けず、失敗を恐れて周りの観察ばかり。買い物に行っても自分にどんな服が似合うのかすらわからない。店員が近づいてきただけで全身から汗が噴き出ました。いろいろ失敗を繰り返しました。生活費を稼ぐためのアルバイトも、1日休むとズルズルと無断欠勤をして辞めてしまったり。
――自意識過剰のお年頃ですから尚更ですね。何が心の拠り所になりましたか?
定時制の仲間は不登校やヤンキーでみんな心根が優しかった。ひとり暮らしが珍しかったから僕のアパートがたまり場。様子を見に来てくれたりしてずいぶん救われました。学校ではバレー部に入部。先輩や先生に認めてもらえるのがうれしくて、誰よりも早く練習場に行って熱心に準備したり。定時制高校の4年間、バイトと学校でいろんな経験ができました。
――岡山の定時制高校を卒業後、市内の高校で28年間職員として勤務されたとか。
校務技術員、いわゆる用務員さんとして最初は肢体不自由児の生徒たちが通う養護学校で4年間。その後、転勤して全日制高校へ。2つ目の学校では、まだ先生になろうという気持ちがあって通信制大学を目指して勉強していました。でも全日制の教員は、自分が理想としない先生ばかりでした。不登校ややんちゃをする子にも、僕がされてきた対応に終始する教師がそこらじゅうにいた。果たして僕が学校の先生になって、そんな指導ができるだろうか?と、職員室は僕がいる場所ではないと感じて、勉強が手につかなくなり大学進学はあきらめました。
――憧れていた職業の捉え方が変わったのですね。
オレは一生用務員の仕事をしていくのだろうかと思い始めた時、僕をよく理解してくれる教育相談の先生から、こう言われました。「堂野さんが学校の先生になりたいと思ったのは、何か肩書がほしいと思ったんじゃないか。学校の先生というのは、ただの印に過ぎない。今の堂野さんにできないことは、先生になったからといってできるわけがない」と。その言葉にハッとして、学校の先生としてでなくひとりの人間として、できることがあるかもしれないと前向きに捉えることができた。用務員という立場でも、生徒とは出会えるし、僕がなりたかった先生、つまり人として憧れの大人をここで実践すればいいんだとわかった。それから学校に馴染めない子の話を聞く機会がどんどん増えていきました。
――3年前に独立されて、岡山県の離島・大飛島に移住。不登校の子どものために「育海」を開かれました。何がきっかけでしたか?
遡ること用務員時代の97年に、自分の不登校経験を書いた詩画集「あかね色の空を見たよ」を出版し、それが話題になって映画化されました。それをきっかけに全国各地から依頼され400回以上講演をしたり。本職は用務員でも、ライフワークがそちらに引き寄せられました。その後、岡山にある私立高校から、専属の教育相談員としてきてほしいと声が掛かり、私立校職員に転職しました。教育相談員と兼任で生徒会、入試広報、学校法人の経営にも関わるようになり、山間部の学校で減少気味の生徒募集の意味もあり、通信制課程も立ち上げました。生徒が集まりやり取りしているうちに、通信制の単位はレポートとスクーリングで取れてしまうのですが、それは教育としてどうか?と。課外活動の拠点がほしいと思ったのが始まりです。
――なぜ離島を選ばれたのでしょう?
たまたま瀬戸内海の島に廃校があると聞いて、行ってみたら築25年の小学校はなかなか素敵でした。この島で、この校舎があれば、ぜったいいい教育ができると確信しました。島の管轄は笠岡市で、当時の笠岡市長へなんとか校舎を使わせてほしい、と島のビジョンをプレゼンにいったら、無償で使っていいと。それから最低月一のペースで通信制の生徒を連れて通い続けました。3年間通ってくれた子どもたちが卒業するタイミングで、僕が私立校を辞めることに。これからどうしようかなと思っている矢先、笠岡市で「地域おこし協力隊」募集を知った。なんとかして島であの教育を続けたくて、協力隊に応募して島で活動するという流れになりました。
環境と場所を整えて共に楽しむ。
――いろんなステップでいいチャンスが点在していらしたのは幸運でしたね。
ターニングポイントではいつも人と出会ったり、何か与えてもらったり。自然な形でたどり着きました。今、大飛島島民は27名で高齢化率8割。毎年島民がいなくなるので、このままでは島が失くなってしまう。離島は、ほとんどの場合、観光に力を入れます。観光はお金は落としてくれるけれど、地域を支える人材がいなくなったら、それもできない。次の世代の人材を育てることがこの島の大きなミッションです。僕は通信制の生徒をこの島に連れて教育活動を行っていましたが、活動を通じて島を好きになってくれる子が生まれます。それを継続することによって自分事として、島を考えてくれる子が出てくる。
――たくさん人を集める観光の前に、たった一人の若者への教育が大切なんですね。
はい。通信制の生徒は、本来なら卒業してお別れですが、自分たちで任意団体を作って今もずっと島に関わってくれています。そういう姿をみているので、この活動は間違いなく島の未来をつなぐことになると確信しています。この島出身ではなくても、多感な年ごろに島で過ごすことでここが第二の故郷になる。島の爺ちゃん婆ちゃんにとっても、ここで若い子が育つのはうれしい。昔ながらのコミュニティで人間関係を取り戻していく。人の暖かさを知って成長するのが教育の本質だと思っています。
――とても熱い志を感じます。島へのアクセス方法は?
笠岡市から船で40分、ちょうど瀬戸内海のど真ん中です。高齢者しか住んでいないのでコロナ禍で今はかなり敏感に生活しています。スーパーも病院も島にはないので、笠岡市まで船で行きます。育海は、フリースクール事業として週末に近隣の都市部から子どもたちが通ってきて、自然豊かな離島で思いきり体験活動をしてもらうというスタンス。今ボランティア登録が20名、メインで3,4名若者が来てくれます。ゆったりとした島時間で、のんびりとした心持ちで、まずその若い大人といい関係を築いて、好きなことをしてもらう。今、準備しているのが長期滞在のコースで、離島留学という位置づけで島に住むというプランを作っています。フリースクール事業は反響が大きく、笠岡市から一緒に何かできないかと話し合っているところです。市と協同で離島留学を推進する準備をしています。
――離島留学なんて素敵な響きです。堂野さんが育海を通して伝えていきたいことを一言お願いします。
実際に住民票を移してもらい、隣島にある学校まで船で通って、夜と休日は育海で過ごしてもらいます。これは全国から募集します。育海にきている子どもたちも皆やりたいことはバラバラですが、何も考えずにその時その時間を一緒に楽しむ。それだけですね。こちらが何か教えるというより、子どもが元々持っている生命力、エネルギーが発揮できる時間や環境があると、勝手に成長すると僕は思っています。そこに尽きます。僕は地域と環境を整えて子どもたちがのびのびと安心して過ごせる場所を作ってあげることです。皆の中で揉まれて育っていけばいい。
――枠にハメたがる大人を反面教師にした堂野さんだからこその視座がありますね。
余談ですが小学5年生時の先生はほとんど僕にアプローチしてこなかった。ある時、家庭訪問にきて縁側の将棋台を見つけて、将棋ができるなら一番やろうじゃないかと。で、2時間くらいかけて対面勝負して僕は負けた。何も言わずにそのまま帰って、あとから聞いた話では、将棋を指すやつに悪いのはいない。堂野は大丈夫だ!と周りの先生に言っていたらしい。現状を評価したり、こうしないとこうなるぞという脅しでなく、その子と自分で今ある時間を向き合う。なんでもいいと思うけど、純粋に時を過ごせたのが僕にとってものすごいうれしかった出来事でした。そういうことができる大人になりたいな、と。
――では最後に、教育を考える親へのアドバイスを。
やりたいことが見つからないという子どもが増えていますが、やりたい情報を探すだけでは見つからないもの。目的を見つけてからゴールを設定して歩むのではなく、旅するように偶然出会って花咲くこともある。目の前にあることを見つけて歩き始めるのも大切。だって、やりたいことにはやりたくないことが漏れなくついてくる。人間関係もすべてうまくいくわけではないですから。「過去に囚われず、未来を求めず」です。子どもは過去と未来に心を病む必要はありません、今をしっかりと生きることに成功も失敗もないんです。目的を選ばずに与えられたご縁で旅するように生きる人生も楽しいと思います。子どもに教えること、子どもが育つこと。これは同じではないかもしれませんね。
編集後記
――ありがとうございました!心を閉ざした子どもに必要なのは机上の学習ではなく、瞳の輝きを取り戻せる環境で得難い体験をすること。堂野さんは黒板を使わない先生として、大飛島で心の洗濯をサポートしてくれるはず。育海(HUG・K・UMI)というネーミングは公募で決定したのだとか。漢字だけでなく英字の意味も素敵!ここで育つ子どもたちのその後も楽しみに、これからの活動を応援しています。
2021年9月リモートによる取材・文/マザール あべみちこ
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