【シリーズ・この人に聞く!第170回】ドキュメンタリー映画「インディペンデントリビング」監督 田中悠輝さん

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障害者の自立生活とはどういうものか?自分を、社会を、変えていこうと奮闘する人々を見つめ、生きづらさを抱えた人が自分らしさを取り戻す姿を丁寧にカメラで追ったドキュメンタリー映画「インディペンデントリビング」。自らも介助者として働く田中悠輝さんの幼少期のお話を始め、3年間撮影した渾身の作品について、じっくりお聞きしました。

田中 悠輝(たなか ゆうき)

ドキュメンタリー映画「インディペンデントリビング」監督
1991年東京都生まれ。明治学院大学国際学部卒業後、2013年から福岡県北九州市の認定NPO法人抱撲(ほうぼく)で野宿者支援にかかわる。2015年に東京に戻り、翌年4月自立生活センターSTEPえどがわで重度訪問介護従業養成研修を修了し、ヘルパーとして働く。同年6月鎌仲ひとみ率いる「ぶんぶんフィルムズ」のスタッフとなる。その後、映画「インディペンデントリビング」の撮影開始、2017年から認定NPO法人自立生活サポートセンターもやいでコーディネーターとして勤務。2018年から日本初の市民(NPO)バンク「未来バンク」理事。

支援と介助で「家族機能を社会化する」活動。

――マスコミ試写で拝見し想像以上にとてもおもしろくて。たくさんの方に観ていただきたいと思い今回ご登場願いました。今作「インディペンデントリビング」を企画制作されたきっかけは?

3兄弟の末っ子として、のびのびと育った。

3兄弟の末っ子として、のびのびと育った。

いろいろありますが、一番は僕の住む江戸川区に自立生活センターSTEPえどがわがありまして、そちらの代表をされている障害者当事者の今村登さんにとあるイベントで「私の介助者をやってみないか」と声を掛けられたんですね。今村さんは今作プロデューサーの鎌仲ひとみさんとも親交があり、僕がSTEPえどがわが主催する鎌仲さんの映画「小さき声のカノン」上映会を手伝っていた時に、以前から面識のあった鎌仲さんと再会しました。大学卒業後、北九州で生活困窮者の支援活動を2年ほどしていました。東京へ戻ってきてからは、アルバイトをしていましたが定職には就かず、フラフラしていた時期があり(笑)。その時に今村さんと鎌仲さんのどちらからも声を掛けてもらい、介助者と映像の事務局というWワークを始めたのが2016年のことです。

――Wワークで始めたのですね。カメラの勉強は特にそれまでされていなかったのですか?

最初は、自分が映像を撮る気はなく、単に事務局での仕事をしていましたが、今村さんから「ちょっと映像を撮ってみない?」とSTEPえどがわの記録として撮影してほしいと言われ、撮り始めました。最初は映画になるとは全然思っていなくて(笑)。今村さんたちと一緒に行動するうちに、大阪の自立生活センターの人たちとも関りができ、夢宙センターの代表でもある平下耕三さんに「悠輝ならできる。悠輝に撮ってほしいわ」と言われたことで、映画として完成させようと決心がつきました。
もともと九州にいた頃から生活困窮者の現場で出会う人たちの写真を撮影していたので、カメラに興味はありましたが、それほど勉強はしていませんでした。学生時代はいろんな方にインタビューをする企画もやっていました。学友に奥田愛基君がいて、彼が3.11後に発表した「生きる312」という映像作品に手伝いの一人として僕も参加し、いろいろな人に「生きるって何ですか?」と質問をしました。奥田君はスマホで撮影し、編集していましたね。

――撮影ツールも様変わりしているのがおもしろいですね。世代が一新している感じで!

今の感覚でそういうものを使うのはスゴイですよね。僕自身、2学年下の奥田君から教えてもらったのがまさにその点でした。素人に毛が生えたようなものでも、やってみさえすればできちゃうものなんだ!という驚きがありました。デザインでも映像でも彼は躊躇なく飛び込んでいって形にしていくので、これは見習わなくては!と思いましたね。今回の映画制作に向けてのクラウドファンディングのやり方なども2学年下の林田光弘君(ヒバクシャ国際署名キャンペーンリーダー)にノウハウを教えてもらったり。後輩からたくさん勉強させてもらいました。僕の撮影はスマホではありませんでしたが小型のカメラで、マイクだけはしっかりつけて撮りました。

――一方で介助者の仕事をされていたというのは、どんな方の介助を?

頸椎損傷された180センチ以上ある大柄な男性でした。寝ているところからどうやって車椅子に乗るのか、僕もまったく想像がつかないところから始めました。排泄や入浴など、大変そうなイメージがあるかもしれませんが、僕自身は大変だ!とは全然思わなくて。就寝時間にも体位変換などの介助があるので眠れなかったのはちょっと大変だったけど(笑)。介助の仕事をすることで不思議な経験値が溜まっていきました。北九州で生活困窮者の支援活動をしていた時のボスが「家族機能を社会化する」と言っていましたが、障害者支援の現場にも通じるように感じましたね。家族が嫌いな人も少なくないので、その機能を社会という外部に委ねていくことが、自立支援の方法論の一つとしてあるのかと。

漠然とした社会問題から「なぜ、彼らが排除されるのか?」へ。

――監督は29歳で年齢的にもお若い立場で、こうしたテーマを取り上げることはとても希少だと思います。なぜこのテーマを取り上げたのですか?

小さな頃から環境活動家の父に憧れていた。(一番左)

小さな頃から環境活動家の父に憧れていた。(一番左)

父が環境活動家(田中優さん)であることが一番大きかったと思います。子ども時代は父への憧れがあり、環境問題や原発問題を考える土台が家庭のなかにありました。そういうことにずっと関心を持ち続けていて、高校の頃は夏休みにピースボードに乗り、アジアの船でロシア行って韓国行って…という体験もできました。大学では国際学部に進んだのですが、ゼミの先生が一貫して問い続けていたのは「どんな世界で生きたいか?」ということでした。僕はいろんなことに関心はあれど、何をするかは固まっていない状態で。大学3年生のときに3.11が起こりました。被災地支援に関心はあれど被害の深刻さもわかっていたので自分が行くべきではないと判断して、勉強会などをしながら、何をしたらいいのだろう?と彷徨っているなかで奥田愛基君や、林田君と出会いました。彼らと被災地支援以外でできることを相談し、官邸前デモをまず見に行って、そのことを話し合う会をクラブでやろうという企画が始まりました。それを僕らはT.A.Zって呼んでいて、のちにSASPL、SEALDSの活動につながった。学びつつ段々と主体性をもってきたという感じです。

――自分は何をすべきなんだろう?という問いかけは常に必要ですね。考えながら、人との出会いも生まれて。

ある日、奥田愛基君からお父さんの知志さん(NPO法人抱撲理事長)を紹介されて、「きみは原発の何が問題だと思っているか?」と聞かれました。僕は放射能汚染を含めて環境問題だと答えていましたが、知志さんは「僕は、労働問題だと思う」と。生活困窮者の中には生活保護を受けたくない人や、今は生活保護を利用しているが、そこからなんとか抜け出したいという人もいます。そういう人たちがやむにやまれず原発労働に駆り出されている現実。社会から排除されて、過酷な労働に使われてしまう面を知りました。知志さんの話はとてもおもしろくて、「この人のところで働きたいな」と思うようになりました。それまでホームレス支援は視界に入っていませんでしたが、生活困窮の現場での出会いを通して「ホームレス」という言葉で括り切れないひとり一人のライフストーリーがあることが見えてきました。彼らは抗えない何らかの暴力によって、ここまできたのだとわかり、「なぜ彼らは排除されてきたのか?」という背景に意識が向くようになりました。

――それがベースになって今作のテーマにつながってきたのですね。「インディペンデントリビング」はお涙頂戴ではなく、登場人物が全員楽しくて。どんな人選を?

3年ほど撮影する中で、20人くらいの方にカメラを向けました。映画に出ていない方も何人かおられます。どの方も魅力的でしたが、編集の辻井さんが映像については素人の僕にレクチャーをしてくれながら「ワンシーンワンテーマ」というルールのもと、その方の言葉や映像で伝えられることは何か?を考え、重複するテーマは避け、障害種別が似ている方は取捨選択するなど、バランスをみて構成しました。最終的に登場人物は10名くらいになりましたね。

――撮影中のハプニング、エピソードは何かありますか?

明日香さんとお母さんとの喧嘩のシーンは思いがけず撮影できました。もともと自立生活センター夢宙でお母さんのインタビューをするつもりでカメラを回していたのですが、明日香さんが病院の予約を忘れてしまって、それに怒ったお母さんが感情的になり、明日香さんとぶつかってしまいました。お互いセンターから飛び出してしまったのですが、それぞれにスタッフがフォローに入り、話をして、関係を保つことができた。家族だけの関係だとどうしても対立したり、行き詰ったりしてしまうところを、親子の間に夢宙センターのスタッフが入ることによって、ギリギリのところで破綻せずにいられる。そうすることで親を悪者にせず、どの人との関係も守れる。そうした営みに価値がある。現場にいて、それを強く感じました。

やりたいことを自由にできる教育環境を選択。

――監督の幼少期の頃は、どんなことが好きな子どもでした?

0歳時代。大人になった今、子どもとも一個人として付き合いたい。

0歳時代。大人になった今、子どもとも一個人として付き合いたい。

僕は3人兄弟の末っ子で、5歳上の長男、4歳上の次男がいます。上の二人は法律家を目指せ!という父の教育方針もあって頑張って勉強して、次男は実際に弁護士をしています。末っ子の僕は自由に比較的のびのびと過ごしていました。学業は地元の中ではそこそこできましたし、学校は嫌いではなかったのですが、先生が嫌いで(笑)。テストは1番でも、成績になるとオール4になる…。学校が出す宿題は意味がないのでやりませんというような理屈を教師に言う生徒で(笑)。ある時、僕が先生に対して文句を言ったことで、親が学校から呼び出されました。母ならハイハイと受け流すものを、父は「謝りたくないと言っている子に無理強いすることはできない。素直に謝らないのは、あなたがたの教師としての能力が足りないからではないか」と逆に説教して帰ってきたことがあります。それ以来、僕もあまり先生たちからとやかく言われずに過ごせるようになりました(笑)。

――そういうカッコいいお父様の背中を見て育ったからこそ、今の田中監督があるのでしょう。お父さんしびれますね(笑)。当時、習い事は何を?高校からは何処ですごしました?

小さな頃から小学4,5年生まではピアノを習っていました。ピアノに行くと練習をせずに先生とずっとおしゃべりしていたので、あまり上達しませんでしたね(笑)。野球は仲のいい友達と低学年の頃から小6までやっていましたが、絵を描くのも好きでしたので、中学からは美術部へ入部しました。高校は自由そうな校風のところを選んで、明治学院に高校から入学しました。髪を染めてみたり、ピアスも平気だったり、あまり縛りのない学校で。友達とラーメン食べてカラオケ行って…楽しく過ごしていました。中学で先生と闘い過ぎて疲れ、先生に対する諦めもついたので、高校では諍いもなくなりましたね。大学は国際学部によい先生が多いから…と父に勧められ進学。イギリスに留学をしたり、『ビルマVJ』というミャンマーのドキュメンタリーを観て、学内のNPOに所属してミャンマーに行ったりと、興味があることをやらせてもらいました。

――環境を自分の意志でつかみ取られていますが、今後はどういう仕事をしたいという希望はありますか?

その時々で様々な問題が起きていますが、元を辿っていけば、それらはほとんど同じ問題のような気もします。2020年でいえばオリンピック・パラリンピックの陰で、ネットカフェや宿泊施設の使用料が高騰し、間接的に生活困窮者が排除されていくという現実があります。これでも内閣が変わらないの?ということも続いていますし。どこがテコになれば変わっていけるのか?という課題がたくさんある。障害者のことでいえば「れいわ新選組」から二人障害者が国会議員として選出されたのがとても大きかった。政治の場に当事者がいることの意味は大きいですよね。存在するだけで周りの意識を変えていくことができる。答弁にこれだけ時間がかかるんだとか。生活困窮のテーマに関して言えば、オリンピックで排除される人たちのこと【<もやい>でキャンペーンをやっています】や住宅確保困難者、日本におられる移民の問題に関心があります。

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