暖かい春を感じさせるような淡い色彩。松本春野さんの描く絵本の世界観は、懐かしく、優しく、ほっこりとします。絵本作家の草分け的存在の、いわさきちひろさんが祖母という家系。ご自身も育児中のお立場で今この時代に作品へ込める想い、人とのつながりで意識していることなど、たくさんお話を伺いました。
松本 春野(まつもと はるの)
絵本作家、イラストレーター1984年、東京都生まれ。多摩美術大学油画科卒業。主な絵本作品に、『Life(ライフ)』(くすのきしげのり 作/瑞雲社)、『モタさんの“言葉”』(斎藤茂太 文/ 講談社)、『ふくしまからきた子』『ふくしまからきた子 そつぎょう』(松本猛との共著/岩崎書店)、『まほうのおまめ だいずのたび』(辰巳芳子監修/文藝春秋)『はなちゃんとぴかりん ピカピカだいさくせん!』(井田典子作/婦人之友社)、『おやこでよもう!金子みすゞ そらの のはらの まんなかで』、同シリーズの『もしも わたしが おはななら』(金子みすゞ 詩/JULA出版局)。『ノノちゃんとママのおはなし』(清流出版)は初の自身の子育てを綴った物語。
いわさきちひろという女性の生き方を尊敬。
――いわさきちひろさんがおばあ様というご家系で、絵画や絵本が日常にあったのかなとイメージしていますが、いつ頃から絵本作家になろうと思われたのでしょう?
家が美術館(ちひろ美術館)でしたから、閉館後はそこが遊び場。毎日絵本と触れ合う環境でした。絵を観ることは好きでしたし、他の美術館にもたくさん行きました。子ども時代は字を読むのが苦手で、小学校高学年になっても読書感想文が不得意な私に、母は映画で名作を観ることを勧めました。結果、私は映画が大好きになって、特に自分と同じ子どもが出てくる物語に夢中でした。子どもが大切にされている世界を観ると、幸せな気持ちになります。ある編集者から、私の絵は映像的だと言われましたが、それは子ども時代から映像作品ばかり観ていたことが影響しているかもしれません。絵を描くのが好きなのは、自分が見たい世界をいくらでも作り上げられるから。子どもが自由にのびのび振舞う世界は私が一番見ていて幸せになる風景です。だから絵本の道に進んだのだと思います。
あと、さらに正直に言うと、私は競争が苦手で、正攻法で人生を切り開くのは大変そうだと思っていたのも大きい要因。一斉に同じテストを受けて点数で振り落とされる大学受験というシステムで勝ち残れる気が全くしなかったのです。一つだけがんばれるとしたら絵。それなら結果を残せそうな気がしたので、美大ならリアリティのある未来が描けた。それと物語が大好きで、ものを創る人への憧れがありました。学生時代から挿絵カットの仕事をもらうなど、イラストレーターの仕事をし始めて、卒業後も就職はせず、アルバイトと絵を描く仕事をし続けました。しばらくして、フリーランスでイラストレーターや絵本作家として稼ぐことがどれだけ大変なのか気がつき、なぜ就職しなかったのか!と、血の気が引いたのですが、もはや後戻りもできず、必死でこの道を進んできました(笑)。
――子どもがのびのびする世界と絵が好きというのがハッキリとしているからこその選択でしたね。ご家族の中では絵のお好きさは抜きんでていらした?
7つ上の姉と、3つ上の姉がいる三姉妹に加え、2つ下の弟のいる4人きょうだいで賑やかでした。4人ともみんなクリエイティブ。本来、子どもはみんなアーティスト。それを上手に褒める大人が身近にいるかが大切です。我が家はその点、絵を描くことを、大喜びしてくれる親でよかったのかもしれない。
両親はかなりフェアな夫婦で性別的な役割分担はなく、父が朝食やお弁当を作り、母は起きてこないこともしょっちゅう。親がとにかく忙しくて子どものことは基本放任。あまり真剣に「これをやらないとこうなるよ」と言葉では教えてくれませんでした。両親は学生結婚でちひろ美術館を起業し誰かの下で働いたことがなく、『就職しなければいけない』という発想もなかった。
それでも長女や次女や弟はそれぞれの学校卒業後就職をしていましたが、私は絵を描いていれば何とか職業になるのだと思っていました。体当たりでやってきて今必死です(笑)。
――着々と作品を手掛けられているなぁという印象がありますが、1月にも絵本を出されました。新作はどんな想いを込めた作品ですか?
依頼される作品はすでにテーマが決まっているものも多いです。私の名前で売れる絵本を作るには基本的にいわさきちひろのバックグラウンドを取り込んだマーケットを見据えてのこと。画風も合っている大人向けの作品を多く作ってきました。著作数を重ねるうちに、自由な制作を委ねられることも増えました。出産も経て、自分のニーズとして、子どもに読んであげられる絵本も提案できるのが嬉しい。最新作は、シンプルに「ああ、楽しかった」と、子どもが思える絵本を作ったつもりです。主人公はフィギュアスケーターのねずみ。雪山の水たまりをスケートリンクにして華やかなエキシビジョンを繰り広げます。私自身が子どもを通してもう一度のぞいてみたい世界を描きました。地下の街や、木のホラにお店があったりワクワクする風景は筆が進みました。幼い頃の私も、娘と同じようにキラキラした愉快で不思議な世界が大好きでした。子どもの憧れを詰め込んだつもりです。
ジャンルを決めず、作品ごとに違ったテーマや読者層に向けての絵本作りは、飽きません。
――ストライクゾーンの絵本もありつつ、多面性をいかした創作です。春野さんにとっておばあ様のいわさきちひろさんは、どんな存在ですか?
女性として職業人としてアーティストとして、とても尊敬しています。両親が結婚して2か月後に他界(享年55歳)したので、私は会ったことはありませんが、あの時代に彼女は一家の大黒柱だったということや、互いに応援し合える精神的にフェアなパートナーを見つけたこと、何より仕事を貫けた意思の強さに憧れます。二度の結婚をしていますが、最初の結婚は自分の意志ではなく、愛し合えないまま夫が自死。二度目は7歳年下の男性と。もう一度自分で人生を選び直して添い遂げた。辛い経験をしたからこそ、あんなにも柔らかくやさしい絵を描けたのかもしれません。
職業人としては、どんなに売れても、仕事を緩めず、納得がいかなければ徹夜で仕上げることもあったとか。社会的地位も収入もある夫がいても、絵描きとして気を緩めなかったのは大尊敬です。自分の人生は自分のものという強い思いがあったのでしょう。そして生涯、守りに入らず新たな画材や画風にチャレンジしてきた。定年がない職業なので私も求められつつ変化し続けながら仕事ができたらと思います。私は怠け者なので、少しギャラのいい仕事が入ると、すぐに仕事を緩めたがりますが、そんな時は祖母を思い出して踏ん張ります(笑)祖母は、いつも社会に目を開き、画家であり、プライベートでは娘、妻、母である自分の視点で、必要だと思うときにしっかり語ってきました。そんな姿勢からも学ぶことは多いです。彼女の残した随筆「大人になること」は多くの方に読んでいただきたい名文です。
SNSではなく実社会の人とつながりを。
――SNSから距離を置いたのは、どのような思いからですか?
3.11後は、原発被害にあった福島の絵本を作ったこともあり、社会についての思いなど、SNSで熱心に発信していました。発信するほど取材や講演依頼も増え、ちょっとしたSNS言論人のようでした。そうなると、スピーディーにオールラウンドでコメントを求められているような気持ちになり、焦りに駆られていました。毎日ニュースに食いつき、にわか知識で情報発信するわけですから、質は落ちます。けれども、フォロワーの「分かりやすい」の琴線に触れると「いいね!」が多くつくので、気づかぬうちに、発信の質より承認されることが目的となっていた気もします。
SNSは一度発信したものは取り消せないことも怖い。不確かな情報を拡散してしまったり、失言がずっと後についてくる。「間違い」が許されず、細かい意見の違いで、あちこちで分断が起きるSNSの世界。視野を広げるつもりで始めたはずなのに、逆に視野が狭くなっていた自分がいました。
子どもが生まれたことをきっかけに、トピックを自分の仕事に絞り、SNS発信回数をだいぶ減らしました。育児をしながら、本来の持ち場「紙媒体」での仕事を毎日ちゃんとやる姿勢に戻したところ、SNSで知らない人に承認されていた時より、自分を好きになりました。いろいろな人を挟んで成り立つ紙媒体での発信は、安心感があります。熟考した上で発信するし、「間違い」は何重にもチェックされる。読者がその情報を受け取っても、「既読」もつかないから、いつ読んでも何を思っても自由。健全です。
出産し地域とつながりをもてたことでは、イデオロギーなど関係なく人とつながれるので、SNSで感じていた「分断」の感覚がどんどん薄まりました。ちょっとの差異など基本的にはよそのご家庭のことで、まったく気にならない。今は、SNSより実社会でのコミュニケーションが楽しいです。
――育児中は特に地域のつながりは助かりますね。5歳児を子育てするお母さんでもありますが、日々感じられることはどんなことでしょうか?
自分も発展途上ですが母となり、子どもを産んでからずっとこの子をどう自立させるか?を考えています。依存先を増やすことも含めての自立。自分の手を離れることが寂しいのではなく、喜びと思って育てようと。私は妊娠中に離婚をして独りで出産したシングルマザーですが、今は新しいパートナーと一緒に暮らし子育てしています。子どもが大好きでかわいくて育ててきましたが、独りの時は、家庭内に一瞬一瞬の成長を喜び合える人がおらず寂しかった。だからこそ、日々娘の成長を楽しみにしてくれる保育士さんやご近所さんやママ友の関係には救われました。偶然にも周りにシングルマザーも多く、生活環境の違いはあれど、仲間として楽しくつながれて子どもを見守り合っています。
出産しても子どもが歩けない頃は、物理的には拘束されるけれど、精神的にはまだ自分の人生を謳歌している気持ちでした。母親になったという感覚が強まったのは子どもの自我が生まれてから。私も娘もしっかりそれぞれの道を進めることが幸せ。成人までは良き伴走者として親子で走り続けたいです。
――新しいパートナーと暮らせることも、子どもに伴走するという姿勢も素敵ですね。ご自身はどんな幼少期をお過ごしでしたか?
両親には愛してもらいましたが、丁寧に育てられた覚えがないんです(笑)。とにかく多忙な経営者の上、子どもは4人。経済的には恵まれていたので、あらゆる家事を外注していました。最初の方の子どもはそれなりにピアノも勉強もできるように仕上げていましたが、三番目の私や四番目の弟ともなると何も…(笑)。習い事はやりたいといえばやらせてもらえましたが、継続や習慣化する助言や介入は一切ありませんでした。遅刻常習犯で、学校の宿題も全然やらない大変な子どもでした。基本的な生活習慣、毎日やらなければいけないことを、しっかりやり続けることの大切さをもっと言葉で教えて欲しかった(泣)。そこを叩き込んでもらえていたら、もっと計画的に絵を描き、原稿をあげられる人に成長していたかもしれない… 贅沢者の戯言です(笑)。
よかったのはほとんど否定されなかったこと。父は最高の褒め上手でした。家の中は会話が溢れていたし、親は仕事と遊びのけじめがしっかりあったので夏休みや冬休みは家族みんなで自然の中でたくさん遊びまわりました。
――忙しかった親御さんは、きっと背中で教えていらしたのだと思います。
「ママみたいに手づくりのお菓子を作れるようになりたい」なんて思い出はありません。そんなお菓子はうちでは出てきませんでしたから。でも、母が夜中まで起きて「原稿が上がらない」と言って仕事をしていた姿は幼いながらカッコイイ!と思っていましたし、父が朝食を作るスタイルも好きでした。どんな親でも子どもは好きなんですね。自分の経験を踏まえて、娘にはKUMONをやらせて『毎日仕事をやらなくてはならない』ということを刷り込んでいます。過去の自分の教訓から(笑)。
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