【復興支援ツアー2017レポート】地震・津波・原発事故 … 東日本大震災から防災を学ぶ旅 by cha_chan

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ホテル観洋より 2

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雲の隙間から、かすかに日の出を見ることができました。観洋から今日訪れる予定の「荒島」が大きく見えました。息子は「あれはだっしゅうじま(DASH島のことらしい)だ!」と言っていました(笑)

朝食を食べた後は、語り部バスで出発です。

事前に予約しておいたホテル観洋の語り部バス。
事前に予約しておいたホテル観洋の語り部バス。
 震災を風化させないための語り部バス - 南三陸ホテル観洋
www.mkanyo.jp  

語り部バスは南三陸町の戸倉地区、志津川地区を回ります。

まず最初にバスが向かったところは高台の戸倉中学校があった場所。南三陸町は1960年にチリ地震で津波に襲われ41名の犠牲者を出しました。戸倉中学校は津波対策として高台に建てられた避難場所でした。

しかし東日本大震災では、22.6mある戸倉中学校の校舎の1階まで津波が押し寄せました。震災当時は雪が降っておりとても寒い日だったそうです。体育館に車が乗ってしまうほどの津波でした。高台のすぐ下には140件以上住宅がありました。

校舎の壁には震災の時刻で時間が止まったままの時計が残されています。校舎は立派ですが、学校としては再開はされませんでした。なぜなら通う生徒がいなくなってしまったからです。

震災が何をもたらしたか。

それは過疎化と高齢化です。震災が起きたことで信じられないほどの人が出て行ったそうです。それは生きていくために出ていかざるを得ないからです。故郷に戻りたくても戻れない、震災は人口流出を生み出しました。南三陸町は震災前の人口17,666人が現在13,000人ちょっと、犠牲者の832名以上減少しています。

震災はもうひとつ格差を生みました。もともと日本は資本主義社会で格差はありましたが、震災は格差を生むだけでなく、格差を広げたそうです。復興は早い人には早く届き、取り残される人はとことん取り残される。復興は不幸であると語り部さんはおっしゃいました。

高台にある、この校舎の1階まで津波が押し寄せました。
高台にある、この校舎の1階まで津波が押し寄せました。
津波が押し寄せた戸倉中学校
津波が押し寄せた戸倉中学校
南三陸町を襲った津波
南三陸町を襲った津波

ホームレスという言葉をテレビなどで耳にしても他人ごとのようにしか思えません。語り部さんも、まさか自分がホームレスになるなんて、震災のその日まで思いもよらなかったそうです。震災で助かったけれど、自宅も何もかも綺麗さっぱり無くなってしまったとのことです。

こうなるとは誰も思わないことですが、誰もに起こりうることだと思うと語り部さんはおっしゃっていました。災害は形を変えて、場所を変えて、規模を変えて起きます。そして繰り返されます。しかしゼロにはできなくても減らすことはできるのではないかともおっしゃっていました。

そして次に向かった先は戸倉小学校です。

かさ上げした高い山の位置に戸倉小学校がありました。
かさ上げした高い山の位置に戸倉小学校がありました。

戸倉小学校は津波で完全に水没したため解体されました。新しい体育館が3月1日に完成した直後のことでした。子供たちは新しい体育館での卒業式を楽しみにしていましたが、1度も卒業式が行われることなく体育館は解体されてしまいました。

今では言葉にしないと、ここに学校があったことは分かりません。間違いなくこのように風化は止められません。でも、もっと恐いのは、初めから無かったことにされることだと語り部さんはおっしゃっていました。悲しい出来事を言葉にするのは辛いけれど、人々の記憶から消えてしまわないよう語り部バスは走り続けています。

戸倉小学校は先生方の判断で、屋上でなく高台に避難しています。この学校では震災前に屋上に避難するか高台に避難するか話し合いがなされていたそうです。校長は3分で津波が到達するという予測から避難時間が短い屋上に避難すべきと言っていたそうです。最終的な判断は校長がすることになっていました。

ところが震災直前に大きな地震があり、1人の先生が、やはり高台に逃げるべきだと校長を問いただしたようです。校長の心も少しは動いたのかもしれません。実は当日は校長が高台に逃げると判断しているそうです。しかもマニュアルでなく現場で1秒でも早く高台に逃げるられるように判断して全員が助かったとのことです。

大川小学校ではマニュアルは分かりやすいという理由だけで山に囲まれた山梨県のマニュアルを参考に作られたようです。そして50分も校庭に児童を待機させています。戸倉小学校の話と比べると、あまりに対応が違いすぎると感じます。

次にバスが訪れたのが高野会館です。

壁の青いプレートが津波到達点
壁の青いプレートが津波到達点

高野会館はこの町の結婚式場でした。この建物は天井の鉄骨はすべて落ち破壊されたままの状態で保存されています。

この建物では震災当日、327人が屋上で助かりました。この日は芸能パーティーで高齢者がたくさんいらっしゃったようです。震災時、従業員の1人が引き波を見たそうです。この従業員はチリ沖地震の津波体験者でした。この後大きな津波がすぐ来ると判断し、高台への移動は不可能と判断し屋上に避難させ全員の命が助かったそうです。

この建物が保存されている理由はホテル観洋の所有物だからだそうです。人の命は人が救うものだと、この先ずっと伝えていきたいから残しているのだそうです。

最後に訪れた場所は防災対策庁舎です。

防災対策庁舎の献花台。その先に防災対策庁舎が見える。屋上まで12m。津波は屋上を超えアンテナ部分まで到達した。現在はこれより先へは入れないようです。
防災対策庁舎の献花台。その先に防災対策庁舎が見える。屋上まで12m。津波は屋上を超えアンテナ部分まで到達した。現在はこれより先へは入れないようです。
震災前の南三陸町の街並み。
震災前の南三陸町の街並み。
50名以上の方が屋上に避難したが、43名が津波に流された。人が集まっているところがアンテナ部分。
50名以上の方が屋上に避難したが、43名が津波に流された。人が集まっているところがアンテナ部分。

お互い流されないように支えあって最後の最後まで諦めていなかった人たちがいます。ここには来てほしくないという方がたくさんいらっしゃるようです。しかしガイドさんは、ここは来ていただくと一番大事なことが感じられる場所だと思っている、とおっしゃっていました。命の大切さ、尊さが分かる場所です。

防災対策庁舎では津波に飲まれる最後の最後まで防災無線で避難を呼びかけた方がいます。そのおかげで高台に避難できて助かった方もたくさんいます。しかし人の気持ちは恐いもので、防災無線があれだけ続いても「大丈夫だ」と避難しなかった人もいるし、高台から戻ってしまった人もいるようです。

語り部さんは、献花台に手を合わせたとき人の手は暖かいことが分かったと思います、とおっしゃいました。でも死んだ人の手は冷たかった。そこで気づいても遅かった。そうなる前に気づくべきだった。当たり前すぎて気づけなかった。語り部さんの言葉がとても印象に残っています。

自分の命が守れなければ愛する人も守れません。自分の命を大切にしてください。

語り部バスが終わり、すぐに次の目的地である南三陸ポータルセンターに向かいます。

 まちあるき語り部 南三陸町観光協会
www.m-kankou.jp  
こちらで「まちあるき語り部」をお願いしました。
こちらで「まちあるき語り部」をお願いしました。

震災写真展を見学し元福祉の里まで歩き、高台から町を俯瞰するというルートです。

今回語り部をしてくださる方は、父と義理の兄を津波で失ったご遺族でした。震災の悲しい出来事を知ってもらい、命の大切さを分かってもらえればと語り部をされているとのことでした。

まずは震災写真展を見学しました。以下は南三陸町を襲った津波の時系列写真です。

15:31
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15:32
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15:33
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最終更新:

コメント(2

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  • C

    cha_chan

    jinaさんコメントありがとうございます!

    息子は植物(食べられるもの)が大好きで、テレビ番組は「鉄腕DASH」の他に「趣味の園芸」「やまと尼寺 精進日記」なども大好きです(笑)

    2人ともずっと今のままでいてくれたらいいな、と思ってしまいます。

    子供の寝顔ほど可愛いものはありませんよね!自分も子供達の寝顔にいつも癒されています。

  • J

    jina

    息子さんが「ダッシュウ島だ」と連呼するYOUTUBEが最高におもしろい!!!!!
    何度も笑いました。

    娘さんの寝顔のお写真も最高にかわいくて幸せな気持ちになりました。

    幸せなファミリーから幸せをいっぱいいただき、幸せな気分を満喫できました(^^)