【シリーズ・この人に聞く!第20回】気鋭のジャーナリスト 田原総一朗さん

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「朝まで生テレビ」で生討論番組をいうスタイルを構築。現在は「サンデープロジェクト」をはじめ数多くのメディアで一貫した姿勢で知りたいテーマを追求されています。高度経済成長期は働き盛りだった田原さんですが、実はお二人も立派なお嬢様がおられ、今やお孫さんもいらっしゃるお爺様。貧しかった時代を振り返って、今に生きる貴重なお話をお聞きしました。

田原 総一朗(たはら そういちろう)

滋賀県彦根市出身。滋賀県立彦根東高等学校卒業、早稲田大学第二文学部(夜間部)中退後、同大学第一文学部に再入学、卒業。
岩波映画製作所から東京12チャンネル(現:テレビ東京)を経て、フリーとなる。
早稲田大学大隈塾塾頭も務める。

草履作って学校へ通う4人きょうだいの一番上

――田原さんはテレビで拝見する限り鋭い突っ込みで色々なテーマに迫っていらっしゃいますが、幼児期はどんなお子さんでしたか?

戦争が始まったのが小学1年生の12月。僕のいた滋賀県彦根市は疎開先として、東京や大阪からたくさんの人が疎開してきました。田舎にいる僕なんかより彼らは勉強ができましてね。否応無く競争心を燃やさざるを得なかった。むこうは標準語ですし、着ているものも洒落ている。コンプレックスを感じましたね。終戦を迎えたのが5年生の8月です。4人きょうだいの一番上でしたから弟や妹の面倒をみていました。終戦後の小5、小6、中1時代は物がなくて、靴なんて無かったので農家のお百姓さんの所へ行って藁草履の作り方を習って自分で作って履いて学校へ通っていました。父は母の着物をもって、農家へ行って米に換えてもらったりね。見つかったら没収されてしまうのですが。持って帰ってきて、新聞紙の上に米を山のようにして、その米の山に両手を突っ込む。その触感がたまらなく幸せでした。

――もともとご実家は何のお仕事をされていらしたのですか?

商家でした。最初は生糸を集めた絹糸問屋を。それから紐の工場を。戦争中は落下傘の紐や、色々な種類の紐を作っていました。それで敗戦を迎えて燃料が一切不足して、闇ブローカーまがいのこともしていました。父は商売が下手で損ばかりしていましたし、家財道具がどんどんなくなって、ついには仏壇まで売ってしまった。

――それを手放さなくてはならないほど緊迫していたのですね。その時代何をするのが一番楽しかったですか?

義務教育を終えたら働くものだと思っていましたから、高校時代は家庭教師をして学費を稼いでいました。その頃は、皆そうだったと思いますが、高校へ通うなら自分で授業料など払うもの。家庭教師先で、勉強中にお饅頭の差し入れがありましてね。弟や妹が待っているから、それを食べずにそっと包んで持って帰ると、皆喜んで分け合って食べるわけです。何回かそんなことを繰り返していたら、そこのご家庭のお母さんが、「これは持って帰る分、これは食べる分です」といってお饅頭をくれました。

――ジンとする、やさしい心遣いですね。

小学校5年生の頃。この年の夏に終戦を迎えた

小学校5年生の頃。この年の夏に終戦を迎えた

貧しい時代でしたから、そういう人のやさしさがとてもうれしく感じました。なまじ豊かな時代ですと、なかなか人を思いやることが少ないでしょう。あの頃は人の心遣いがとても強く感じた時代です。

実家へ仕送りしながら大学へ通う

――大学で東京へ出てこられて、ご実家を離れられてからはやはりご家族の援助を?

レトロな眼鏡をかけてる、東京12チャンネルディレクター時代

レトロな眼鏡をかけてる、東京12チャンネルディレクター時代

親は実家から通える滋賀大や京都大に行って、バイトをして稼ぎを家に入れてほしいという希望でした。僕はその頃、作家になりたかったので、東京の私大を目指していたので親と喧嘩。東京の私大に行かせる代わりに、学費は自分で稼げ、そして実家に仕送りをしろという条件つきで許してもらえました。とりあえず上京して夏からJTBに入社して働き始めました。その翌春、早稲田大学に入学しました。

――勉強する意味合いが、今とは気合いからして違いますね。大学では主に何をされていましたか?

まぁ、皆がそうでしたから。僕の友人で6日間ずっとほうれん草だけの食事をして過ごしていたものもいました。大学では作家を目指して同人誌サークルに入っていました。早稲田という学校は卒業しないでいい大学だと思っていたのです。五木さんや野坂さん、一線で張っていた作家は皆、早稲田大学中退でしたから、卒業したらロクな作家になれないと(笑)。僕が書いたものは、全然ほめられないから色々な同人誌をハシゴしていました。そんな時、ある人から「作家は文才がないと書けない。文才がない人間が努力をしても徒労だ」と言われましてね。絶望的になった時、石原慎太郎の「太陽の季節」、大江健三郎の「飼育」を読んで非常に感銘を受けました。と同時に、あぁこれはダメだ。僕は作家になれないと思い挫折しました。

――作家を断念されてから、どのような学生生活を送られていましたか?

僕は当時の仕事(JTB)が全然自分に向いていないと思っていたので、新しく職探しを始めないといけませんでした。会社のある丸ビルに行きたくなくて、ビルの周りを2~3周回って「今日は体調が悪いので休みます」とか電話したり。仕事をするなら、作家じゃなければマスコミかなと考えて、大学はもう一度受け直して第一文学部に入学しました。相変わらず実家への仕送りは続けていました。学習塾を経営して、教育大の学生を先生で雇って、僕も教えていました。生徒も20名くらいいたかな。その時代は、結構学習塾を作る学生が多かったのです。そのまま会社勤めせずに塾経営する人もいました。僕も続けていたら、河合塾や代ゼミみたいになったかもしれませんね(笑)。

――当時は就職活動などされましたか?

しましたが、ほとんど惨敗でしたね。今、仕事をしている会社にはことごとく落とされました。朝日新聞、NHK、テレビ朝日、東京新聞、ラジオ日本、角川書店、筑摩、北海道放送……9つ目にやっと岩波映画に決まりました。皆が就職先を決めていく中で落ち込みましたね。でも、今から思えば論文の僕の字、読めなかったんではないかなぁと思います。あと、人相が悪かったんだと思うの(笑)。

――ジャーナリストになろうと思われたのは、その頃からでしたか?

岩波映画の次に行った、テレビ東京の時代ですかね。当時は、12チャンネルって番組番外地と言われていましてね。汚名返上でおもしろいドキュメンタリーを撮ろうと思いまして。企画をしてスポンサーに売り込みに回ったのです。NHK、日テレ、TBSなんかはおもしろいドキュメンタリーを放送していたので、生意気にもそれと張り合うつもりでね。だから、いかに他ではやらない危ない番組を作るかでした。ドキュメンタリーというのは、刑務所の塀の上を歩くようなものだと思います。警察に2度ほど捕まったこともありますが、その時の経験は後年とても役にたっています。落ちるかな~というスリルがおもしろい。今も塀の上を歩いていますよ。

『しなやかに したたかに』人のためになる人間に

――70年代は家庭にいられず仕事ばかりだったお父さんが多いと思います。田原さんはいかがでしたか?

昭和45年、千葉にて。2歳違いの娘さんは双子みたいに愛らしい

昭和45年、千葉にて。2歳違いの娘さんは双子みたいに愛らしい

そうですね。子どもの生活全般に一切口出しはしませんでした。下の娘が小学5年生の時に、フリーになりました。当時、女房も反対するかと思ったら「いいんじゃない?」と賛成してくれまして。それで、テレ東時代から外部の仕事で雑誌の連載なども抱えていて、ロッキード事件について中央公論で書いたら話題に。それを読んだ文芸春秋の花田から何か一緒に仕事をしようと連絡がありました。一時期は年間10冊くらい本を出していました。そのうち4冊は文春からなんてことも。

――そのお忙しい最中、お二人のお嬢さんはどんな方針で育てられましたか?

娘たちのことは過大評価でしたね。何といっても僕の娘ですから、自我に目覚めればいつかは自分で決めて道を切り拓くと思っていたのです。学校についても、勉強についても、まったく何も指示したことはなかったですね。上の娘はハングリー精神があるし(現在、テレビ朝日「徹子の部屋」「世界の車窓から」などを手がける名プロデューサー)、下の娘は人の世話をするのがとても好き(現在、田原事務所のマネージメントを担う)。僕は娘二人に恵まれて、とても幸せです。女房が亡くなる、ちょうど2ヵ月前に孫も誕生しました。孫たちにも、ずるい人間には育ってほしくない。人の役にたつ人間になりなさいと伝えています。

――今、注目されているトピックスとは?

いっぱいありますね。好奇心が強いものですから。常識を疑うという気持ちがとてもあるんです。それから、たぶん日本のジャーナリストで堀江(ライブドアの元社長・堀江貴文氏)を理解したのは僕くらいしかいなかったと思う。別に彼がしたことを擁護するつもりはありませんが、彼のキャラクターっておもしろい。大人だか子どもだかわからないしね。計算しているようで抜けている。ただ、彼は就職していないでしょう。社会経験のないうちにベンチャーやって儲かってしまったから、組織には何が必要かわかっていない。だから謙虚さに欠ける。でも、才能がある人だから再起するんじゃないでしょうか。裁判の行方も見守っています。

――最後に読者の方に何かメッセージを。

僕の今は、「失敗の結末」です。なろうとしたもの、すべてに失敗してきて今がありますから。ですから、失敗もそうそう捨てたものではありません。失敗はすべてキャリアになるのです。

編集後記

――ありがとうございました。若い頃から苦労されて故郷の家族を養ってこられた田原さん。なりたいものになれなかったと仰いますが、就職試験に落とされた各メディアとバリバリとお仕事をされているのはご存知の通りです。人生ってどうなるかわからないものです。信念をもってひたむきに努力することしかありませんね。田原事務所のマネージメントをされる下の娘さんによると「小学生時代はそろばんを習っていたくらいで他に何もしていませんでした。本当に父は何の教えも押し付けるようなことがなかったと同時に、家庭のことはノータッチでしたから。子育てには失敗しましたね」と振り返っておられました。家族ベッタリではなかったお父様だからこそ、できたことがあったと思います。父親思いの娘さんに支えられて、今後益々のご活躍をお祈りしております!

取材・文/マザール あべみちこ

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田原 総一朗 (著)
小学館 \1,575

国策捜査の原点、リクルート事件の闇に迫る1988年、朝日新聞の小さなスクープ記事が発端となり、100名を超える政官財要人を巻き込んだ“戦後最大の疑獄事件”に発展したリクルート事件。取材を重ねるうちに著者は、外務省背任事件、ライブドア事件へと引き継がれる「国策捜査」の原型を見る。

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