【シリーズ・この人に聞く!第28回】2008北京パラリンピック陸上競技走り幅跳び日本代表 義足のアスリート 佐藤真海さん

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19歳という若さで骨肉腫という小児がんを患い、義足の生活を余儀なくされた佐藤真海さん。しかし、持ち前の明るさとバイタリティーをもってスポーツに熱中。絶望の淵から見事に這い上がり、2008年9月に開催される北京パラリンピック陸上競技走り幅跳び日本代表に内定!サントリー(株)で一社会人として仕事をする傍ら、アスリートとして世界に挑戦する日々。失った片足をバネに、二足の草鞋を大切にこなす佐藤真海さんの生き方に迫ってみました。

佐藤 真海(さとう まみ)

1982年3月12日生まれ、宮城県気仙沼市出身。
陸上競技 走り幅跳び。仙台育英学園高校から早稲田大学を経て、2004年サントリー(株)に入社。
早稲田大学応援部チアリーダーズで活躍していた2002年に、骨肉腫のため右足膝下を切断、義足の生活に。
現在、サントリー株式会社キッズプログラム推進室で次世代育成プログラムの企画・運営の仕事をこなす傍ら、北京パラリンピックを目指して日々トレーニングに励む。
2004年アテネパラリンピック9位(3m95cm)、2005年パラリンピックワールドカップ4位(4m14cm)、2006年パラリンピックワールドカップ3位(4m11cm)。2008年3月九州チャレンジ陸上大会(4m46cm)
北京パラリンピック代表内定。

 佐藤 真海 Mami Sato(@mami_sato)さん | Twitter
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突然の病気、義足との出会い

――真海さんが骨肉腫という病気になられたのは、大学2年生の時だったそうですね。入院、手術、治療、リハビリと長い試練があったと思います。なにがきっかけで陸上競技走り幅跳びをやってみようと?

2001年の冬に、以前から足首が痛いなと思っていたのですが、骨肉腫という小児癌の一種である病気と診断されました。それで、抗がん剤治療に3ヵ月、手術後にまた半年抗がん剤治療と続いて、副作用で吐き気もありました。この病気は100万人に1~2人の割合だそうで、なぜ私が…という辛い思いはありました。病院のベッドでは、友達のいる大学へ早く戻りたいと思っていましたが、いざ復帰すると落ち込みがひどくなって。これまで培ってきたものが崩れて、独り取り残されてしまったように感じていました。明るい未来なんて描けない。心の底から笑顔になれなかったのです。ここから抜け出すには、何かに熱中しなければ!と。これまで私はスポーツをしてきたのだから、障害があってもできるスポーツは何だろう?とインターネットで調べてみたら、パラリンピックがあることを知りました。

――義足をつけて走る姿が、とても自然に見えました。いきなりスポーツを始める、ということではなくて小さな頃から何かスポーツをするのがお好きだったのでは?

小学1年生頃から6年生まで、公文に通ったり水泳や習字、日本舞踊も習っていました。日舞は祖母と母がお師匠さんだったので。中でも水泳は4年生から選手育成コースで鍛えられて、放課後友達と遊ぶ時間もなくて、スイミングスクールに通っていました。自分でやっているよりもやらされている感が強かった。もちろん、努力しないと結果には結びつきませんから一生懸命でした。でも、辛かったです(笑)。中学入学後は水泳を卒業して、陸上の長距離選手に転向しました。

――やっぱり。とはいえ、真海さんのスポーツの取り組み方は凡人からは計り知れない、ものすごいファイティングスピリッツですよね。

落ち込んでいる時に、母から「神様は乗り越えられない試練は与えないものだ」と。手術の後、まだ歩くことも精一杯な状態で、まず水泳を再開して、そして競技用義足と出会ってから、走ることの喜びを改めて感じました。かつては辛いだけで楽しめなかったスポーツを通して、チャレンジしてみよう!という気持ちが湧いてきたんですね。

――義足でも走れるんだ!という気づきと勇気を与えてくださった功績は大きなものです。

私も義足であることについて前向きに考えられるようになったのは、ここ1~2年のことです。義足でなかった時は、「ここまでしかできない」と自分で限界をつくってしまうほうでした。でも、少しでも前に進めるように努力すれば、次々に色んな展開が起こる。孤独だと思っても決して一人ではない。何かをやろうと頑張る気持ちを持ち続けていると、支えてくれる人が現れるものです。義足を作ってくれる臼井さんをはじめ、たくさんの方に感謝しています。

自然の中で体を使って遊んだ幼児期

――小さな頃はどんなことをするのが好きでしたか?

おままごとや人形遊びという女の子らしい遊びを全然しなかった男の子みたいな子でした。2つ上に兄がいまして、兄にくっついて野山を駆け回って過ごしていました。転んだり、つまずいたり、怪我をすることもしょっちゅうでしたが、そういう経験をしているうちに本当に危ないものは何かが分かってくる。今、子どもたちの遊び場で事故が起こったりと安全性が問われていますね。本当は危険の中で体の使い方を覚えるものですよね。私、田舎で育ってよかったなぁって思います。

――ご家庭は、どんな教育方針でいらしたのでしょう?

母は躾には厳しくて、でもいつも私の意思を尊重してくれましたね。近すぎず遠すぎず、今考えてみると、とてもいい距離感だったと思います。勉強しなさいとか言われたこともないです。でも兄がとても勉強がよくできたので、私もやらなければならないなと思っていました。普通にきょうだい喧嘩もしましたよ。私のほうが強くて、いつも怒られるのは私ばかりでしたけれど(笑)。。

――中学で陸上の長距離選手に転向されて、高校でも陸上を?

実は、高校では大学進学のために勉強だけしようと思っていたのですが、学校のマラソン大会で1位になって、陸上部からお声が掛かって…結局、陸上部に入部しました。高校は気仙沼の実家から離れて寮生活の仙台育英高校を選びましたが、実は兄も東京の高校へ進学して独り暮らしをしていたんですね。親にとっては、とても心配なこともあったと思いますが、反対はされませんでした。

――子どものことを信じていらしたんですね。15歳くらいで家から巣立たせるのは、すごく勇気がいることだったと思います。そして早稲田大学に合格されて。大学でチアリーディング部へ入部されたのはどんな理由で?

小学生の時、テレビでチアリーディングの大会を見て、すごくキラキラしたものを感じたんです。ですから早稲田に入ったら、ここに入部しよう!と。これまで私がやってきたスポーツは楽しかったかというと、辛いことのほうが多かった。もちろんチアは規律もあって厳しい上下関係もありましたが、それまで個人種目でスポーツをしてきたので、グループで力を合わせてひとつのものを創り上げる楽しさっていいな~と思いました。

北京パラリンピックで世界に挑戦

――目標とされていた北京パラリンピック日本代表に選ばれ、おめでとうございます。初志貫徹ですね。

ありがとうございます。やはりパラリンピックで世界に挑戦することが今の私にとっては一番大きな夢でもあるので、その実現に大きく近づいたことは、とてもうれしいです。私は、19歳で骨肉腫という小児がんを患いましたが、パラリンピックには様々な病気と闘い、事故を乗り越えてきた世界中の選手たちが集まってきます。私も含めて、そうしたハンディキャップを乗り越えて全力で戦うアスリートたちの存在を一人でも多くの方に知っていただきたいです。

――今、引きこもりや自殺、いじめ…と子どもたちが輝きを失って大人化しています。

生命と向き合う経験をしたことによって、毎日ただ生きているだけではダメだと思うようになりました。何か困難に直面しても、必ず糸口があるはずです。スポーツもそうですが、苦労しながら一つひとつ乗り越えてゆくからこそ楽しいんです。頑張った分だけ次がある。辛いことがあっても、それだけで終わらない。必ず、その先に新しい光が見えてくる。だから何でも一生懸命に取り組んでほしいなと思います。

――真海さんのパラリンピック出場が多くの方に気づきを与えてくれるといいですね!社会人としてもサントリーでお仕事をされていらして大忙しですが、サントリーはいつの時代も学生に人気の企業。真海さんは普通に就活をされて採用されたとか?

はい。実は、入院生活が大学2年の冬から大学3年の秋まで及んで。キャンパスに戻ったら、ほとんどの友達は就職活動を始めている時期でした。自分らしさを活かせる仕事をしたいなと色々探している中に、サントリーを見つけました。ここなら楽しく仕事ができそうだなって。

――志望されたイメージ通りのお仕事を現在されていらっしゃるようで、こちらでも初志貫徹ですね。お仕事を通して、子どもたちに感じられることを親たちへのメッセージとしてお願いします。

会社ではCSR活動の一環であるキッズプログラム推進室で次世代育成プログラムの企画・運営を担当しています。また、子どもたちへ向けて競技に関する講演やイベントにも力を入れて取り組んでいます。夢をもつ大切さを小学生のうちから伝えていくことは大切です。社会を変えていくためには、教育から変わっていくことなんですね。子どもたちの純真さに触れるのはとても楽しいし、やりがいがあります。それから、完璧に何でもできなくてもいいので、心の底から湧き出る対象をもってほしい。何があってもあきらめないで続けられるものを。たとえそれが大きな夢でなくても、小さくてもそこで頑張り続けていくことが、その子の力になっていくと思います。私も、小さな頃、勉強やスポーツを頑張ってきたことで今に活きてることがたくさんあります。努力した分、結果は裏切りません。頑張りましょう!

編集後記

――ありがとうございました。今回のインタビューは、まるで一冊のいい本に出会ったように、素晴らしい音楽を聴いたように、真海さんの発する一言一言が、心にしみました。そして何だかポカポカとあたたかくなって、力をもらうことができました。やさしい人は強い人、と言います。きっとパラリンピックでみせてくれる記録も、その日まで頑張り続ける姿も、本当の強さを教えてくれる気がします。春の日差しみたいな笑顔の真海さんを応援しています!

取材・文/マザール あべみちこ

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