今夏も胸熱のドラマを魅せてくれた甲子園。球児たちを支える親側にスポットを当てた本「甲子園、連れていきます!」は、名門 横浜高校野球部の寮母を22年務めた渡辺元美さんが執筆された初の著書。おいしいごはんが成長期にもたらす効果。パワーの秘訣は食+何でしょう?勝つための舞台裏を伺いました。
渡辺 元美(わたなべ もとみ)
1970年、神奈川県生まれ。父・渡辺元智が横浜高校野球部の監督を務めていたため(2015年に勇退)、幼少期から野球部員とともに育つ。26歳で出産後まもなく寮母の仕事をサポートし始め、30歳を迎えるあたりから母・紀子(みちこ)が務めていた横浜高校野球部合宿所の寮母を引き継ぐ。2006年、横浜栄養専門学校卒業。2017年、管理栄養士免許を取得する。
言霊を伝え続けた監督。
――今春、横浜高校の寮母を卒業されて迎える初めての夏でしたね。この書籍を執筆なさったキッカケは?
今年は野球に関わらない人生初の夏、甲子園も暇さえあればチラチラ気になりました。父が横浜高校野球部の監督を務めて節目の50年となった2015年夏に引退した後、私自身も引退を考えていた数年間でしたが、たまたまお手伝いに来てくれていたママ友がこの本を刊行してくださった徳間書店とおつながりがあって、横浜高校の寮母の視点から野球部の歴史を語る本にしたいとお声掛け頂きました。編集担当の方もたまたま横浜高校出身の方で、後から思えばすべてがご縁だったな、と思います。
――著書にありますが1日に30キロのご飯を炊くとか、8時間立ちっぱなしの肉体労働とか、体力必要で大変でしたね。
時間がない、荷物が重い、という大変さはありましたが、毎日お金を掛けずに筋トレしていたようなもので二十歳の頃と比べると握力は2倍、腹筋も1.5倍に。もともと母が寮母をしていたのですが22年前に私が引き継ぎました。昔は今のように家電設備が整っている寮ではなく、冷凍ものやレトルトも大してなかったですし、寮生の人数も多い時代でしたから母はもっと大変だったことでしょう。寮生の定員は現在20名。母の時代は一部屋4名でしたから40名定員でした。
――ご飯の力もあると思いますが、横浜高校野球部はなぜそんなに強いのでしょう?
1年生で入寮して3年生の引退試合までの2年半でほとんど皆がオーラを作って卒寮します。志があって目標がぶれない。決意をもって横浜高校に来ています。もちろんレギュラーになれる子が入寮しますが、実はそれ以外の子のほうが多い。全学年合わせると80名から100名の部員数で、20名の寮生より通ってくる部員のほうが多いのに、意外と辞める確率が低い。メンバーになれなくても、ベンチに入れなくても、ユニフォームを着られなくても、背番号をもらえなくても、なぜそこまで野球を続けたいのだろう?と思ったことがあります。監督は、そういう生徒にも「野球を続ける意味がある」を毎日のように選手に伝えていました。それはメンバー云々関係なく、栄光より挫折、成功より失敗から学ぶことが多い。それを糧に「やがて人生の勝利者になれ」と…毎日に同じ言葉を繰り返されて正直うんざりすることもあったと思いますが、いつのまにか九九のように覚えてしまう。言葉を身に沁み込まされて、皆だんだん顔が変わってくるのです。
――言霊ってありますよね。息子さんも横浜高校野球部メンバー出身、現在は明治大学4年生で活躍されています。反抗期はありましたか?
まだ歩けない頃から寮の仕事に連れて行って食卓のテーブルに寝かせて、遊び場所もグラウンド。遊び相手も野球部のお兄ちゃん、という環境でしたから、おのずと野球を選んだのかもしれません。大きな反抗期はありませんでしたが、監督である祖父との関係はナイーブでした。周りからも「監督の孫」として見られていたプレッシャーがありましたし、本人は葛藤していたのではないかと。一緒に遊んでいた松坂大輔選手をはじめ、多くの選手がプロ野球に進んで頑張っている姿をみて感化されたことなどもあると思います。
食は、人を良くするもの。
――野球の練習だけしていたわけではないのがよくわかります。寮母としてうれしかったことは?
うれしかったことは山のようにあってどれか一つ選べないくらいですが、強いて言えば寮母を引退する時に、現役選手が書いてくれた「色紙」です。“ありがとうございました”という言葉に名前を添えているくらいなものだと思っていましたが、この時もらったのは文章となっているメッセージ。その一つひとつが彼らそれぞれの言葉で綴られていました。彼らが選んでくれたプレゼントもありましたが、色紙が何よりも感激しました。やっていてよかったと思えた瞬間でした。寮母引退は私にとって人生の一つの区切りでしたから。
――今は新たな場でお仕事なさっていますが、どのような環境ですか?
桜美林大学でアメフトや陸上などアスリート選手の寮で管理栄養士として務めています。高校生とは違って少し大人の集団で45名。朝と夜の食事を作る栄養担当です。今は複数の管理栄養士がいて交代制勤務。私は横浜高校の寮母時代に病欠したことがありません。インフルエンザになった選手を看病しても移らなかったですし、ノロウイルスが流行った時も感染しませんでした。強靭な肉体です(笑)。
――気合が違うのでしょうね。著書を通じて、今後どんな活動をされたいですか?
食は「人を良くする」と書きます。食事をきちんと食べることで体はつくられ、フィジカルだけでなくメンタルも鍛えられる。毎日食べるもので体がつくられていく。作ってもらっていることに感謝して食べることをスポーツする子に伝えていきたいです。夏の強化合宿でご飯をつくるお母さんたちに献立アドバイスなどもしています。これまで自分が培ってきたことで少しでも貢献できればと思っています。
――ご飯を作ってもらうことで感謝の心が自然にうまれるものですね。家庭だと当たり前のようになって、親子だとぶつかることも多いです。
家庭ですと嫌いなものなら作らないという発想になりがちですが、寮生活ですと皆が同じものを食べますから嫌いなものでも残してはいけない。寮で過ごしているうちに食べられるありがたさに感謝するようになりますし、食べかたも変わります。
継続は力なり、習い事を日常の一部に。
――お父様が渡辺監督というご家庭で、子ども時代はどんな風にすごされてきました?
父は整理整頓ができていないと捨ててしまうので、姉と私はいつもなくなったモノを泣きながら探しにゴミ箱を漁っていました(笑)。姉は長女なので割と何でも厳しく言われていましたが、私は比較的やりたいように過ごさせてもらいました。とはいえ私の高校時代は何も考えていませんでしたね。軟式テニス部に所属して、好きな男子の話でキャーキャー同級生と話をして。目標のある横浜高校野球部の子と比べると…気楽に過ごしていました。
――問答無用で捨てる!スパルタはいいですね(笑)。幼少期は何か習い事を?
母が習わせたくて通い始めたのですが、幼稚園の年長さんから三味線とお琴を習いました。実はこの2つの教師免許を持っています。習うのが日常で、やめたいと思ったことは多少なりともありましたが35歳になるまで続けてきました。そういう力が、いろいろなことにつながっていると今は思います。人前で何かすることがどちらかというと苦手でしたが、発表会などの経験を踏むうちに恥ずかしい思いも払拭されました。
――すごい!継続は力なりですね。野球部精神が元美さんにも宿っていたのでは?
私は勉強もスポーツもそれほど得意ではなく目立たないタイプでした。引っ越しが多かったことも影響しているかもしれません。選手と共に日常生活を送れたことはよかったと思います。挨拶や習慣。当たり前のことですが、靴はきちんと揃えて脱ぐとか、部屋の掃除をするとか。息子も小中学校の時は、家で私が口うるさく伝えてきましたが、高校で寮生となってからガラリと変わりました。
――技術面だけでなく生活面を律する心があってこそ、勝つ力がつくのですね。では、野球をはじめ習い事を始める親にメッセージをお願いします。
何か始める時の入り口は、親が習わせたいこと、子どもが習いたいことの2つあると思います。私はお琴や三味線を自分で習いたいと思って習ったわけではありませんでしたが、こんなに続けられると思っていませんでした。入口は根拠があるならどちらでもいいと思います。意味があって習わせていることなら習慣づけにもなります。息子は野球が大好きで、勉強はあまり好きではありませんでしたが、勉強をしてこその野球という私の方針で塾に週3回通いました。渋々だったこともありますが、それでも今はよかったと思っています。甲子園は、いろんな人の想いを背負って選手は出場しています。野球のプレイだけでなく、選手一人ひとりの背景に想いを馳せて、これからも応援したいです。
編集後記
――ありがとうございました!平成最後の夏は、観測史上一番暑かったといいます。毎日酷暑の中で繰り広げられた甲子園での熱戦の数々。マウンドに立つ球児たちには支える家族や先生、寮母さんの存在があります。控えめでありながら筋の通った元美さん。息子さんもお母さんそっくりでクールで涼し気なのに目力強く容姿端麗。22年間一度も倒れずに寮母として選手を支えてきたパワー。野球の神様が付いているのかも!次は取材ではなく、続編をもっとお聞きしたいです!
2018年8月取材・文/マザール あべみちこ
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