【シリーズ・この人に聞く!第120回】落語家 三遊亭歌之介さん

kodonara

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太い眉は鹿児島県出身のトレードマーク。フランス語チックな鹿児島弁の新作落語は抱腹絶倒のおもしろさ。芸歴38年、大ベテランの歌之介師匠。幼少期の昭和30~40年代は、貧乏の極致を経験されたとか。底抜けに明るい噺ができるのはそんな苦労があったからこそ。不屈の精神で夢を叶えた師匠に、生きていく上で大切なことを語ってもらいました。

三遊亭 歌之介(さんゆうてい うたのすけ)

1959年鹿児島県生まれ。1978年大阪市立汎愛高校卒業後、三代目・三遊亭圓歌に入門。前座名、歌吾。1982年二つ目昇進し、三遊亭きん歌となる。1985年若手演芸大賞最優秀二つ目賞を受賞。NHK新人落語コンクール入賞。1987年5月真打昇進試験に新作「寿の春」で合格。同年10月、先輩18人抜きで真打昇進。初代・三遊亭歌之介となる。1990年、鹿児島県より「さつま大使」の任命を受ける。

 三遊亭歌之介公式ホームページ
utanosuke.net  

貧しくても母思いの少年時代。

――歌之介師匠は鹿児島県出身者には特に鹿児島の宝物!と絶賛されています。幼少期のお話も新作落語でお話しされているようですが、このインタビューで詳しくお聞かせ頂けますか?

兄、姉が上にいる3人きょうだいの末っ子として育った。(右端が歌之介師匠)

兄、姉が上にいる3人きょうだいの末っ子として育った。(右端が歌之介師匠)

私が住んでいたのは鹿児島市内から2時間位掛かる端っこで自然豊かな田舎。小学1年生の時、両親が離婚をしたのが人生の転換期でした。それまで京都で暮らしていたのですが、母と私、5つ上の兄、3つ上の姉は、母の実家がある鹿児島に戻りました。母は半年間ほどラーメン屋でアルバイトをしていて、小1の私が食べに行った時にラーメンを食べずに器を見てじっとしていたのです。「のびるから早くお食べ」と店主の女将さんに言われ、「このラーメン食べたら母ちゃんの給料から代金引くの?」と聞いたら「大丈夫。何杯食べても引かないよ」と答えられました。母ちゃんは小1の子にそんな気遣いをさせるなんて…と感じたようで、その後3人の子を食べさせるために単身大阪の紡績工場へ出稼ぎに行きました。

――そんな御苦労がおありでしたか。では祖母様とごきょうだいと暮らしていたのですね。

母は2年に一度くらい…兄や姉、私の卒業式にしか大阪から帰ってきませんでした。生活保護も受けていたのですが、その意味が小さな頃はわからなかった。学期末になると担任の先生がクラスの中で6名ほど名前を呼んで「呼ばれた人は残ってください」と言われまして、学校近くの文房具屋に連れて行かれて「2千円分何でも好きな物を買っていいよ」と言われたのがうれしくて…きっと先生は俺たちのこと特別に好きなんだな、と思っていました。3年生になってもそれが続いたので、ある日祖母に聞いてみたら「生活保護だから。うちは優秀だから国から補助が出るの」と言われました。他のメンバーの名前も挙げたら、皆片親の家庭環境でした。でも一人ではなく、同じ境遇の仲間が他にもいたから凹まないでこれたのかもしれません。

――今ではそんな境遇の子どもがいたら何らかの処置がされるのかもしれませんが、当時はそうだったのですね。

家計を助けるために小学1年生からヤクルトの配達もしていました。当時は瓶でしたから重かったですよ(笑)。兄ちゃんも姉ちゃんも、皆で手分けして配達を毎朝していました。貧しくて…お風呂も3日に1回。銭湯はありませんから五右衛門風呂。薪をくべて焚くのです。ですから大人になって自分の家を持った時、まっさきにお風呂場だけはこだわりの場として設計しました。

――貧しかった時代を糧にして素晴らしいです。というか皆が貧しかったから比べることなく支え合えたのかもしれません。

私は昭和34年生まれですが、田舎育ちなもので同世代には「そんなことが!?」とよく驚かれます。小6修学旅行の時はお米を一人一合家から持ってくるように担任に言われ皆のお米を集めました。そうすると宿のお米代がただになるから…と。今では考えられないエピソードです。大阪にいる母ちゃんのところへ中2から転校しました。兄は高卒で大阪に出て働いており、姉は中卒で東京で美容師見習いに、中学1年の1年間、婆ちゃんと2人暮らしになって、反抗期だった私は手を焼かせて婆ちゃんから「大阪へ行って暮らせ」と出されました。初恋の人もいて、鹿児島を離れたくなかったのですが…(笑)。

母との文通、毎日の日記、創作の詩…言葉を綴る習慣。

――大阪へ転校されて、やっとお母様と一緒に暮らせてうれしかったのではないですか?

1982年二つ目昇進し、三遊亭きん歌となる。

1982年二つ目昇進し、三遊亭きん歌となる。

転校早々、河内弁で捲し立てる不良に囲まれて怖かった。大阪嫌いで鹿児島に帰りたくて、前の中学校のテニス部顧問の先生に相談して「婆ちゃんの言うこともちゃんと聞くようにするから鹿児島へ戻ってきたい」と言うと、戻ってきなさいと。さっそく大阪の兄ちゃんに電話すると「薩摩隼人が一度決めたことを覆すとは何事だ!大阪戻ってこい!」と烈火のごとく叱られました。その5日後、兄は職場の先輩と喧嘩し辞表を出して鹿児島に戻ってきたのでアベコベでしたが…。母とは筆談が主で会話をしませんでした。

――ノンフィクションにしては本当おもしろすぎますが、お母様との筆談はどんな内容で?

「銭湯行くからお金」「トマトが食べたい」…とかそんなことですね。小1から離れて暮らしていたので文通はずっとしていたので、文字では気持ちを表現できたのです。反抗期でも日記や詩、感想文を綴ることは好きでした。高2の文化祭で寸劇の台本を書いたら、とっても笑ってもらえましてね。それが快感となってこういうことが仕事にできたらいいなぁ~と思うようになったのです。自分でシナリオを書いて、監督も主演も務めるチャップリンのようになることが第一志望でしたが、当時はそうしたことがなかなか叶わず、新作落語はシナリオを自分で書けると知って、それが第二志望でした。

――高校卒業後に落語家の世界へ…となったのは何がきっかけでしたか?

雑誌でたまたま師匠のインタビュー記事が載っていたのです。今の若いのは修行に耐えられないから、ずいぶん長い間、弟子を取っていないと語っていました。それを読んで「弟子がいないということは、先輩がいないということ。いじめられることもないから安心だ!」と思いましてね。高校卒業して、毛布2枚リュックに背負って麹町のお屋敷街にある師匠宅へ行って「弟子にしてください」と直談判しました。18歳で未成年ですから親の承諾書が無いと受け付けられないと言われ、大阪の母ちゃんに電話をして上京してもらい、「ダメなようならすぐ返しますが、しばらくお預かりします」と師匠が承諾してくださいました。

――すごい行動力ですね。その熱意が素晴らしい。そこから現在まで芸歴37年。振り返っていかがですか?

昭和62年に真打ちになって、30代くらいから時間が過ぎるのが、速すぎると感じています。ゴールを設定しないとだらけてしまいそうなので、マラソンランナーとして走ることも好きな私は42.195キロという距離を芸歴に置き換えて、42年目を節目とし、この先続けるか辞めるか考えようと思っています。今は37キロあたりを走っている感じですね。あと5年ですからやらねばならないことがいっぱいです。3000冊ある蔵書をもう一度読み返そうと思っています。

子どもにとって母は宇宙。

――師匠は健康を損なわれたことがあってから、体のことを人一倍気遣って過ごすようになったとか。

1987年10月、先輩18人抜きで真打昇進。

1987年10月、先輩18人抜きで真打昇進。

38歳の時、過労で倒れました。当時、飛行機に年間317回も乗車していたので肋膜炎という病気になってしまいました。そうしたことがあって体を労わる大切さを知りました。マラソンを始めたのも、健康維持のためです。家を建てる時にお風呂場には思い入れがあって古代ヒノキを使ったお風呂にしたり、家の敷地に炭を10トン敷いたり。師匠には「よく焼けそうだ」と言われました(笑)。

――95年阪神淡路大震災が起こって、被災された方へ寄付をされるために落語のCDを販売されて爆発的に売れたとお聞きしました。

鹿児島県民は阪神淡路の方面へ出て働く方が多いのです。私が鹿児島弁で新作落語を話した最初の落語家なもので同郷の方が懐かしがってくださったのもあり、売れたCDは6年間で45万本。鹿児島弁のイントネーションはフランス語に似ているようです。被災され絶望の淵におられた皆さんに、少しでも笑いを届けられたかと思います。

――小学生くらいまでの子どもを育てる親に、師匠の経験を通じて子育てアドバイスを送って頂けますか?

私だけではなく、子どもにとって母は宇宙です。母親を助けるために子どもって生まれてきたと思うんです。生まれたての赤ちゃんってお母さんの心臓の音を探して泣くのだそうです。

――キャリア37年の師匠は落語会の重鎮的存在になりつつありますが、これからはどんな活動をされたいですか?

唄も歌いたいですし、絵も描きたい。作詞もしたいし、蔵書も改めて読み返したい。やりたいことはたくさんあり過ぎます。言葉に対するアンテナを高くして活動に取り組みたいです。マラソンって42.195キロ走りますが、42年というのを自分の中で節目だと思っています。だからあと5年のうちにいろいろやらなくちゃと思っています。

編集後記

――ありがとうございました! まるで高座の続きを聴いているような立て板に水のごとく、どんな方向へ行くのかお話しの流れが楽しくて、あっという間の取材でした。極貧時代の幼少期は、今でこそ涙しそうな思い出ですが、そんな一つひとつのご経験すら笑いに変えて小噺にされてしまう師匠の懐の深さ。健康についてとても気を遣っていらっしゃるせいか実年齢よりもずっとお若く見える歌之介師匠。3月11日の横浜での独演会を楽しみにお待ちしております!

取材・文/マザール あべみちこ

活動インフォメーション

 【終了しました】3.11被災者応援企画 三遊亭歌之介独演会 | マザール
motheru.jp  

五感でダイアログ<その6・笑>被災者応援企画
世代を超えて、笑顔と元気を。笑いは万病の薬『落語会』三遊亭歌之介独演会

日程平成28年3月11日(金)
開演19:00(開場18:00)
入場料一般3,300円 全席自由
会場みどりアートパーク(横浜市緑区民文化センター)

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