【シリーズ・この人に聞く!第47回】世界を股に駆ける写真家 織作峰子さん

kodonara

公開:

0 なるほど
2,631 VIEW
0 コメント

20代前半で、ミスユニバース日本代表に選ばれその美貌を世界に認められてから、写真家を志し今度は作品を通じて世界へ羽ばたくことになった織作峰子さん。そのユニークな経歴からも、強いエネルギーを感じます。そして、作品からはぶれのない、迷いのない一瞬を捉えられています。幼少期の織作さんのエピソードをはじめ、今21歳になる娘さんの子育て時代のお話もお聞きしました。

織作 峰子(おりさく みねこ)

1960年12月16日生れ。石川県出身。学生時代に陸上選手として活躍。やり投げ北信越大会入賞。1600mリレーでは全日本ジュニアオリンピック出場、北信越の記録を樹立。大学時代に友人が送った写真がきっかけとなり、1981年度ミスユニバース日本代表に選ばれ、ニューヨーク大会に出場。
ミスユニバース任期中に写真家・大竹省二と出会い、82年に大竹スタジオに入門。87年独立。写真家として活動開始。87年から2年間、米国ボストンに在住。その経験から作品集「BOSTON in the time」が生まれた。 作風は、北陸の風土に育まれた感性と、女性としての視点を生かした風景への優しいまなざしを感じさせる。陸上競技で鍛えられたバイタリティとスタミナで世界中を精力的に飛び回っている。
現在大阪芸術大学写真学科教授。

 【公式】織作峰子 フォトギャラリー Mineko Orisaku Photo Gallery
www.orisaku.com  

スポーツ万能、華奢なのに力持ち

――織作さんは石川県で誕生されて高校まで青春時代をお過ごしで、陸上部でやり投げ選手としてご活躍されたそうですね。

高校時代陸上部では、やり投げ選手として活躍した

高校時代陸上部では、やり投げ選手として活躍した

中学時代はバドミントンを。出身は小松市ですが、団体、ダブルスと市で4つのメダルを取りました。小さな頃から足は速かったので、選抜でいつも大会に出場。陸上部で最初は、ハイジャンプ、ハードル、高跳び、包含、200メートルという五種競技もやっていまして、それから短距離を。あるとき「槍を投げてみなさい」と先生に言われ、投げてみたらビックリするほどビューンと飛んだ。やる人が誰もいなくて、種目になっちゃったんですね。槍は短距離が速くないと飛ばない種目で、力が決め手ではない。投げる時に30メートルくらいダッシュが必要なんです。

――スポーツ万能。お見受けする限りでは華奢なイメージですが、違うんですね(笑)。

バーベルを、ジャークで60キロ持ち上げ、ベンチプレスは50キロ。高校生のとき、筋質がいいとよく褒められていました。筋肉ムキムキにならないけれど力がある。スリムだけど持たせたら強い。握力も50を下ったことはない。さすがに今は45くらいですが、私持ち上げますよ、男の人の一人や二人(笑)。でなきゃ、この仕事はできないです。

――写真家は重い機材を持ちながら撮影もしないとなりませんよね。その基礎体力を既に培っておられたということで。さかのぼって、小学生くらいのときはどんなことが得意のお子さんでしたか。

図画工作と体育は得意な子で、学校生活をエンジョイしていました。小学校5、6年生で、自我が芽生え早熟でした。たとえば、学校が終わって帰宅すると、まず3時から始まるアフタヌーンショーを見るのが日課。「ふむふむ、大人ってこういうことを考えてるのか~」なんて大人の世界を冷静に眺めていた。その番組が終わる4時頃に友達と合流して遊んでいた(笑)。縄跳びとか、ゴムとびとか、普通に。

――すっごくわかります!私もお茶飲みながら3時から奥様向けの番組を見るのが好きな小学生でしたから。織作さんのご家庭は、厳しくなかったですか。

どちらかというと放任です。私は、祖母に育てられたので、教えられることはたくさんありました。祖母は戦前、戦中と料亭を切り盛りしていた人で、戦中は一等兵だけが泊まれる旅館を経営していました。うなぎの養殖場もあって、サラブレッドの馬もいたし、なかなかアクティブなおばあちゃんでした。私は、毎日仏壇のお花の水変えやお手伝いをして日常的に作法を教えてもらっていました。「女性は歩くとき、必ずゴミを拾いながら下を向いて歩きなさい」と、よく言われましたね。

――うちの祖母は明治生まれで既に他界していますが、家にいてもホコリや糸くずを拾ってくれていました(笑)。身づくろいをキレイにすることと生活する場を整えることは同等なんでしょうね。

逃げない、負けない、迷いがない

――ところで写真家になろうと思われたのは何がきっかけで。

マジャール写真集の中から。子どもの何気ない瞬間を捉える。

マジャール写真集の中から。子どもの何気ない瞬間を捉える。

幼少の頃からアートの世界に興味を持っていて、近所にいた絵の先生のうちに遊びにいく感じで幼稚園時代から絵を習っていました。その先生が描く絵は抽象画でしたので、すごく想像力の勉強になった。一面まっ黒の絵を描いて、黄色の点と赤い点を描いてあるだけの絵を見せられて、「先生、これなあに?」と聞くと、「クマだよ」と。でも子どもって頭が柔らかいから「そうか、クマなのか」と受けとめる。そういう訓練や経験はすごくよかった。あと、うちの父は大工の棟梁だったので、家に常に木材がありました。それを削って遊んだり。華やかな世界になんて、まったく憧れがなかった。

保育園に娘を預けたことも忘れてしまう多忙な日々だったが、子どもの前では母の顔に

保育園に娘を預けたことも忘れてしまう多忙な日々だったが、子どもの前では母の顔に

写真を始めたきっかけは、師匠の大竹省三先生との出会いです。それまでは芸術家になりたかった。先生に、「写真も芸術だよ」と言われたときは、「えっ?」て(笑)。焼き増しが何枚もできるのに? 絵は一枚なのに?って(笑)。だから最初は半分興味本位で写真の世界に入った。でもすごく面白くて奥深くて。

――よき師匠との出会いって人生を左右しますよね。でも写真の世界は師弟関係が大変厳しいと思いますけれど、お仕事を始めてやめたいと思われたことは?今までどうやって乗り越えてこられましたか。

ものすごーい厳しかったですね。やめたいと思ったことも3回ほどありました。フリーになってからはないですけど、修行時代は辛かった。でも、たぶん忍耐力は人一倍ある。陸上で鍛えたというのもありますが、体力は誰にも負けなかった。私の基準は、生きるか死ぬか。陸上をやっていたときから、練習して疲れて倒れたら、死ぬまで何秒くらいあるかと考える。1分くらいはありそうだ。じゃ、1分間休んで立って走れ、というふうに自分に言い聞かせて。

スタジオでも、辞める人はすぐ辞めていました。私はなんか悔しかったのね、負けることが。逃げることって自分の辞書の中に一切ない。そういう性格からすると、やるしかない、前に進むしかない。でも、死ぬほどつらいかっていうと、死ぬほどじゃない。だったら何でもできる。だから、少々のことでは、負けない。

――5年で師匠から独立をされました。織作さんの撮る作品を拝見していると、迷いがないという印象があります。

修行は5年間でしたが、1年目から仕事はさせてもらっていました。最初は、作品を見てもらっていたんですけど、「不思議な感覚があるから実践で覚えていけ」と言われて。私は、仕事がすごくはやい。撮る枚数も少ないですし、カメラを向けると、ここしかないってわかる。アシスタントは使わないし、一人で全部やれちゃう。自分が前へ出て、撮るほうと撮られるほうの両方やることもあります。シャッターだけ押させて、私が前へ立って、チェックして。お化粧直したり(笑)。忙しいですけど、そうやって一人何役もできるから、重宝がられ。でも、いま娘が仕事をお手伝いしてくれていて。今度展覧会をやるハンガリーも一緒に行きます。

――親子で、うらやましいですねぇ! 写真家としてご活躍されながら、子育てもされて。大変さはありましたか。

母乳で育てましたが、産んで3週間して仕事で海外へ行かなくてはならなかった。搾乳機を持って、母乳は冷凍パック。授乳部屋がないときは、カーテンのなかにくるまってあげて。私は仕事に入ったら、子どもがいることすら忘れてしまう。保育園に預けて仕事をしていましたが、ある日ハイテンションで今日も仕事終わったーっ!て帰宅して、なんか忘れ物したな?スタジオに何か置いてきたかな?って、よーく考えたら「そうだ!子どもをピックアップするの忘れていた!」って(笑)。

親主体の生き方が、子どもの自立に

――ものすごい集中力で仕事をされていたんですね。私も産後2ヵ月ですぐ職場に戻って走り続けてきたのでワークライフ・バランスもへったくれもない生活でした。

富士フィルムフォトサロンでの展示作品

富士フィルムフォトサロンでの展示作品

「ジュニアパイロット」という、子どもが一人で乗れる飛行機の搭乗サービスをよく使っていました。仕事のときは羽田まで送って、飛行機で実家のある小松まで飛ばす。母にはよく「子どもは荷物じゃないんだから!」と叱られました(笑)。ある時、親子一緒に実家帰ることになって飛行機に乗ると、娘が「すみません、絵本ください」「ジュースください」と全部自分で(笑)。やっぱり手をかけちゃいけないんだと思いました。
ちっちゃいときから、転んでも起こさなかったですし。「はい、起きなさい」で、起きたら「偉いねー」「さすが!」と思い切りほめる。とにかく手がかからないように、自分の手を煩わせないように、自分中心に考えてきたわけですが、それはイコール彼女の自立にもなった。

――うちにも息子がおりますが、どうも織作さんの娘さんとは成長の仕方が違うようです(涙)。仕事と子育ての両立は大変な時期もおありだったと思います。娘さんとなかなか会えずに、寂しくありませんでしたか。

忙しくて、それどころじゃなかった・・・というとかわいそうだけれど。娘が小学生になると、しょっちゅう東京に来ていた母も一人だけを見られなくなって。じゃあ、いとこたちがいる小松に行く?と娘に聞いたら、飛んで行っちゃった(笑)。そこから、私の「週末通い母」が始まりました。娘が小学校2年生から高校卒業まで続きました。ウィークデーはガーッと仕事して週末は実家に帰る。そうはいっても子どもだから寂しかったでしょうし、いろいろ考えたときもありましたが、しょうがないです。もうそれしかなかったのだから。娘に普通のお母さんがよかったと言われるのは一番つらい。だから今は仕事を手伝ってもらって、親子生活をエンジョイしてます。一緒にいると本当に楽しい。

――織作さんの意外な一面を垣間見たような気がします。ところで、ハンガリーで作品を撮ることも多いようですが、ハンガリーの子たちから今の日本の子どもたちに感じることはありますか。

ハンガリーの子は自然と共に、自然を使って遊んでいます。娘が小さな頃、東京と石川の両方の幼稚園を契約していたことありました。私が海外出張のときは、実家のある小松の幼稚園に預けて。すると二つの幼稚園はカリキュラムが全然違っていました。当時は、東京だと池袋水族館へ遠足。小松では芋ほり、いちご狩りなどアウトドア。
東京で虫みたいなものを見つけたりすると、ギャーと逃げられたとよく言っていましたね。娘にとっては両方の土地を行ったり来たりできてよかったと思いますが。

――都会にいると魚どころか虫すら見たことも触ったこともなく大人になってしまう。なんだかちょっと怖いですね。ハンガリーの良さはどんなところですか。古い日本や故郷と少し似ている点がありますか。

ハンガリーには今年7月にも行ってきました。故郷に似ているということではないですが、古いものが残っているせいか哀愁漂って、しっとりとして撮りやすい。写真のテーマは、都会が好きな人と田舎が好きな人がいますが、私はどちらかというと田舎が好き。ハンガリーは、人もすごく知的でIQも高い。ノーベル賞の受賞者が対国面積比で世界一ですよ。ルービックキューブが考案されたのも、ナビの3次元が生まれたのもハンガリー。マジャール人は、理数系で頭脳が違うのでしょうね。ハンガリーに行くようになったのは15年ほど前、外務省や大使館から仕事の依頼を受けてから。今年は、日本とハンガリーの友好140周年。その記念事業で私の個展がハンガリー政府の招待で行われ、ブタペストの中心地にある写真博物館であります。

――まだハンガリーに行ったことのない私でも、行ってみたくなる何かが織作さんの作品から感じます。これからは、どんなテーマをお考えですか。

私の作品の大きなテーマは「時」。時のなかの1章、2章、3章のような感じで撮り続けています。「時」のほか、ハンガリーで展示するものは日本的なものを意識して、5年ほどまえから「桜」を撮っていますが、そうした花シリーズは20年前から取り組んでいます。また、海外の風景、それから何気ないものなどと併せて、私の作品は大きな3つの部屋を持っていています。これからも、「時」という瞬間を切り取る芸術として写真の面白さを追及していきたい。今年は展覧会が多く重なったので、少しゆっくりしたら何か新しいテーマも考えてみたいですね。

編集後記

――ありがとうございました!お会いするまで織作さんにお子さんがいることを存じ上げませんでした。とても印象的だったのは「子どもの存在を忘れるくらい仕事に没頭できないなら、子どもを育てながら仕事はしないほうがいい」と、きっぱり潔くおっしゃられたこと。その姿勢がファインダー越しにさまざまな対象物をいきいきと捉えているのでしょう。私も仕事歴の半分以上は子どもと共に歩んでいますが、失敗は数知れず(笑)。ごめん!と心で言っても、顔見れば叱り飛ばすことばかりで、なんというダメな母親……。織作さんの涼しげでエレガントな身のこなし、しっかり盗みとってゆきたいです。成人されたお嬢さんとのこれからが、さらに充実した時間となりますように。

取材・文/マザール あべみちこ

最終更新:

コメント(0

あなたもコメントしてみませんか?

すでにアカウントをお持ちの方はログイン