1793年10月16日 マリー・アントワネットが断頭台へ
ちょっと世間知らずで我が儘なところはあったかもしれない。しかし、彼女は多くの人に愛されもした。国王である夫とはそりが合わなかったかもしれない。しかし、彼女には多くの友人がいた。彼女が愛した薔薇やスミレの香水や、顔より高い盛り髪スタイルはヨーロッパ中の貴族社会に広まった。8歳の時に6歳のモーツァルトからプロポーズされたのも彼女だし、三角や長方形などまちまちだったハンカチの形を正方形に定めたのも彼女だった。
たしかに民草からは遠く離れた世界の住人だっただろう。しかし王妃であったということが死に値するほどの大罪だろうか。
200年とちょっと昔、ひとりの女性が死刑になった。たくさんいた友達のほとんどが去っていた。長かった髪も刈り取られた。そうして大きな刃物が重力によって滑り落ちた時、見物にやってきた民衆は狂気に取りつかれたかのように喜びの声を上げたという。
「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という彼女が残した言葉は、いまもきっと地球上の空気をかすかに振動させ続けている。
2013年10月16日、伊豆大島で大規模な土石流災害
昨年の10月16日、伊豆大島で40人の方が犠牲となる大きな土石流災害が発生しました。台風26号の接近で局地的に発生した前線により、真夜中の0時頃から降雨量が急激に上昇。大島北部の元町地区では122.5ミリという驚異的な時間雨量を記録しました。
不安定な火山地形に短時間で降り注いだ大量の雨がもたらした土石流災害。台風の中、避難することもままならず、また深夜に発生した集中豪雨だったために避難勧告や避難指示が出されることもなく、被害に遭われた方の全員が、屋内に居ながらにして土石流の犠牲になられたといいます。
多くの種類の災害に見舞われる日本列島ですが、もっとも頻繁に襲ってくるのは台風や集中豪雨による土砂災害です。命を落とされた方々の冥福を祈るとともに、災害列島で生活する上での準備を怠らないようにしたいものです。
伊豆大島で土石流災害が発生した後、数多くのボランティアが島を訪れ、島の復旧・復興のために汗を流してきました。阪神淡路大震災や東日本大震災でボランティア活動を行った「経験者」たちが全国各地から集まってきたのはもちろん、津波被害を受けた東北からもたくさんのボランティが伊豆大島に集結しました。
「助けてもらったお返しに」「お互い様だから」とたくさんの人たちが言います。「自分たちは身をもって経験しているから」と、進んで過酷な復旧現場に入って行く人もいます。
災害はつらくて、悲しくて、不安で、そして悔しい出来事ですが、たくさんの手が、人々の思いが被災地に寄せられていくのは感動的でもあります。
もちろん、現地に入って活動するだけがボランティアではありません。過酷な現場で活動する仲間たちを後方から支える、そんな支援も不可欠です。
私たちにできること――。ほんの少しの行動で、できることはきっと想像以上に多くあるものです。
10月16日は世界食糧デー
飢餓なんて関係ないと思われるかもしれませんが、世界の人口の8人に1人、数にすると8億4200万もの人々が慢性的な飢餓に苦しんでいます。今日食べるものがない。明日も食べられるかどうか分からない。明後日もその次の日も。そんな境遇に置かれたら一体どんな気持ちになるか。大勢の子供をかかえて、戦中戦後を生き抜いた祖母の言葉が思い出されます。飢餓は、遠い見知らぬ国のできごとではありません。
しかも、現在世界で広がり続けている飢餓は、飢えに苦しんでいるその国の人たちの自業自得なんかではなく、私たちが暮らす日本のような先進国のライフスタイルに起因するものだと言われています。
歴史の中の10月16日
▼1793年 マリー・アントワネットが処刑される
▼1813年 ナポレオン戦争で最大規模のライプツィヒの戦い
ロシアとイベリア半島で敗北を喫したナポレオンのフランス軍が、第六次対仏大同盟の連合軍とドイツ支配を巡って対戦。プロイセン・ロシア同盟がフランスに宣戦布告したのに合わせ中小のドイツ国家が加わり、さらにオーストリア・スウェーデンが参加して構成された連合軍は36万人規模。20万人に満たないナポレオン軍は3日間の戦いで敗走する。
両軍合わせて10万人以上が戦死したとされるこの戦争は、第一次世界大戦まではヨーロッパで最も過酷な戦争とされてきた。この一戦がナポレオンのヨーロッパ覇権の終焉を決定的にした。またドイツにとっては独立のための戦争でもあり、「諸国民戦争」と呼ばれる。
ライプツィヒの古戦場の中央には、戦争から100年を記念して「諸国民戦争記念碑」が建立されている。高さは91メートルと記念碑建造物としてヨーロッパ最大。記念碑前の池の水は、この戦争で流された涙の象徴しているという。
諸国民戦争記念碑
Straße des 18. Oktober 10004299 Leipzig, Deutschland+49 341 2416870
▼1886年 釜石製鉄所で製鉄に成功
はじめ官営製鉄所としてスタートするも操業に失敗、民間に払い下げられた後も度重なる失敗でついに操業を断念。操業主任・高橋亦助は従業員に解雇を申し出る。家族に食べさせる食料さえあれば賃金はいらないと操業を求める従業員たちの声に押された通算49回目の火入れで、ついに銑鉄の製造に成功した。
日本初の洋式製鉄の火は三陸・釜石の地に灯された。
▼1943年 最後の早慶戦
学徒出陣によって、ペンを剣に持ちかえ戦地に赴く学徒たちへのはなむけとして、早稲田大学の戸塚球場で「出陣学徒壮行早慶戦」が開催される。戦前最後のアマチュア野球の試合と言われる。
▼1945年 国際連合食糧農業機関が設置される
機関の目的として次の三項目が掲げられている。
以下の施策を通じた世界経済の発展及び人類の飢餓からの解放
(ア)世界各国国民の栄養水準及び生活水準の向上
(イ)食糧及び農産物の生産及び流通の改善
(ウ)農村住民の生活条件の改善
1979年の総会では万国共通の「世界食糧デー」を制定。1981年以来、10月16日は世界の一人一人が協力しあい、最も重要な基本的人権である「すべての人に食料を」を現実のものにし、世界に広がる栄養不良、飢餓、極度の貧困を解決していく日として活動が続けられている。
▼1946年 ナチスドイツの外相、リッペントロップが処刑される
ヒトラーに次ぐ権力者だったゲーリングが前日に自殺したため、ニュルンベルク裁判の戦争犯罪人として、ナチスドイツの外相だったヨアヒム・フォン・リッベントロップが絞首刑に処される。
▼1964年 中華人民共和国が原爆実験
タクラマカン砂漠の「さまよえる湖」として有名なロプノール湖の近傍で、中華人民共和国が核実験を行う。米ソ英仏に次ぎ世界で5番目の核保有国となる。国連安保理常任理事国5カ国すべてが核を持つことになった。
中国初の原爆のレプリカとして知られる画像は、プルトニウムを使うファットマンタイプに類似しているが、米国は「中国初の原爆はウラン235を使用」と指摘した。ウラン型原爆はプルトニウム型に比べて、ウラン濃縮に高い技術を要するとされる。
▼1981年 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故
斜陽化する石炭産業の中にあって、最新鋭の設備を投入して1975年に出炭開始した北炭夕張炭鉱は業界の希望の星だった。しかし、その新鋭の炭鉱の海面下810メートルの深さでガスが噴出。死者は40名を超えた。さらに発生した火災により救助隊も巻き込む二次災害が発生する。消火のため坑口を塞ぐなどの処置が採られたが鎮火に至らず、会社側は安否不明者が残る鉱山に夕張川の水を流し込んで消火する案を提案する。
最終的に93名の命が失われる、あまりに悲劇的な炭鉱事故だった。
▼2013年 台風26号の豪雨により伊豆大島で大規模な土砂災害
36名が死亡、3名が行方不明という大きな被害が発生した。不安定な火山地形、範囲が極めて限定的で、しかも夜間に襲った局地的な豪雨、避難勧告・避難指示・特別警報の遅れ、行政トップの不在など数多くの要因が指摘される。
この日が誕生日
◆1799年 田中久重(からくり儀右衛門)
筑後国久留米に生まれた江戸~明治期の発明家、実業家。若い頃からからくり時計やからくり人形を作ることで有名になる。後に佐賀藩に仕え、蒸気機関車の模型製造、大砲や銃器を製造するための製鉄施設である反射炉の製造、国産初の蒸気船製造などに手腕を発揮した。
明治維新後は東京に移り田中製造所を設立。この会社が後に芝浦製作所となり、さらに東京電気と合併、現在の東芝の礎となっている。
◆1841年 伊藤博文
長州藩士、政治家。吉田松陰の松下村塾に学ぶ。初代内閣総理大臣、初代韓国総監。
◆1854年 オスカー・ワイルド
アイルランド出身の作家、詩人。「幸福な王子」「サロメ」など。
◆1936年 大山のぶ代
日本の声優。「ぼく、ドラえもん」
この日亡くなった人たち
・1553年 ルーカス・クラナッハ
ルネサンス期のドイツの画家。デューラーと同時代の画家として、多くの祭壇画を残している。
・1973年 マリー・アントワネット
・1943年 柳原愛子
大正天皇の生母。歌人・白蓮の叔母。
・2007年 デボラ・カー
イギリス出身の女優。「地上より永遠に」「情事の終り」「王様と私」「悲しみよこんにちは」など多数
最終更新: