[空気の研究]悪魔島から信念のメッセージ

Rinoue125R

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ひとりの男がいわれなき嫌疑で有罪判決を下され、悪魔島と禍々しい名で呼ばれる孤島に送られていった。その後、真犯人が判明するが彼の嫌疑は晴らされない。やがて国を挙げての政治問題にまで発展し、12年の後にようやく彼は名誉を回復するが、最初に彼が有罪とされた根拠、それは彼がユダヤ人だったからだとされる。そんな事件が120年前、花の都と呼ばれたパリで起きたことをご存知だろうか。

120年前の冤罪・ドレフュス事件

ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=左側)

ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=左側)

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1894年10月15日、ユダヤ系フランス人の陸軍大尉アルフレド・ドレフュスが、ドイツに機密情報を伝えたとされ逮捕される。このことを反ユダヤ系の新聞がすっぱ抜き、売国奴であるユダヤ人を裁判にも掛けずに軍部が匿っていると書き立てた。軍部は慌ててドレフュスを軍法会議に掛け、物的証拠も状況証拠もない中、筆跡が似ているということで有罪判決を下す。

ドレフュスは、南米の仏領ギアナ沖のディアブル島(悪魔島)での終身禁固刑に処せられることとなった。

ところがこの後、新しく陸軍情報部長になったピカール中佐が、真犯人がエステラジー少佐であることを突き止める。しかし軍部は、あろうことかピカール中佐を左遷。軍法会議でもドレフュス裁判の正当性を主張し、真犯人エステラジー少佐を釈放。さらにピカール中佐を文書偽造で告発するのである。

軍部はもう後へは退けない。陸軍のメンツと反ユダヤ主義の風潮が、取り返しのつかない冤罪を造りだしてしまった。

友人であるエドゥアール・マネによる「エミール・ゾラの肖像」1866年

友人であるエドゥアール・マネによる「エミール・ゾラの肖像」1866年

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1898年、文豪エミール・ゾラが「われ弾劾す」という文章を発表。ドレフュス裁判が軍部によって捻じ曲げられた偽りの裁判だと糾弾した。このことで再審に向けての運動が盛り上がっていくのだが、事は簡単に進んだわけではない。国論は二分、ゾラまでもが告発され、1年間投獄の宣告を受ける。ゾラはイギリスへの亡命した。(翌年パリに戻った後、一酸化炭素中毒で死去。謀殺されたという説も根強い)

現代の感覚からすると差別や偏見でしかない反ユダヤ的な考え方だが、19世紀末のフランスでは国論の半分を支えるほどに強固で根深いものだったともいえる。フランス革命後も長くフランス国内にくすぶり続けてきた共和制派と王政派の対立にリンクしていたという指摘もある。自由や平等を重視する人々と、安定した強い国家を求める人々という対立の図式だ。

1899年8月、ようやくドレフュスの再審が始まる。最初の裁判で有罪の根拠となった証拠は否定されたが、それでもドレフュスは無罪とはならず、終身禁固が10年の刑に減刑されたのみだった。無罪ということになればメンツが丸つぶれになってしまう軍部の立場を汲んだ判決だったのだろう。

しかしドレフュスはこの判決に納得せず、あらためて再審請求を行う。フランス政府はドレフュスに大統領の特赦を与えることで幕引きを図るが、それでもドレフュスは完全無罪を主張し続けた。

ドレフュスが無罪判決を勝ち取り、名誉を回復したのは1906年7月になってからのことだった。

不当な逮捕と裁判で悪魔島に送られたドレフュスが名誉を回復するまでには、12年という長い時間がかかった。彼は不当な判決に抵抗し続けたのみならず、特赦という形での妥協的解決策にも首を縦に振らなかった。ドレフュスの不屈の姿勢は驚嘆に値する。しかし残念ながらドレフュスの人物像に迫る資料や研究は乏しいように思われる。

正義を歪める「空気」を育んだもの

トロカデロ広場から、夕暮れのエッフェル塔

トロカデロ広場から、夕暮れのエッフェル塔

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ドレフュス事件はドレフュスの屈することのない精神のみならず、冤罪というものが発生する一般的な構造とか、国論を二分した上に結果的に面目を失ったことに大陸軍国家フランスの凋落の始まりを見る歴史的視点など、さまざまな側面からの考察が可能だろう。しかし、押さえておきたいのは、この事件がたかだか100年とちょっと前の出来事だという点だ。

1894年から1906年のフランス、パリがどんな世界だったか思い起こしてほしい。それは暗黒の中世のパリではない。革命の嵐が吹き荒れた18世紀のパリでもない。19世紀の後半には印象派が近代芸術の扉を開きつつあった。印象派に代表される近代美術は、特権階級のためではない、一般の市民のための芸術だった。音楽の世界でもドビュッシーやラベルが音楽活動を始めていた。すでにレコードも発明されている。絶対王政から自由を勝ち取った人々が、産業革命によって豊かさを手にし始めた市民の時代だった。19世紀後半だけで5回も万国博覧会が開催され、ドレフュスが逮捕される5年前にはエッフェル塔が建設されていた。芸術の都、花の都と呼ばれたパリの人々は、ベル・エポック(よき時代)を謳歌していた。

人間に巣食う差別意識が引き起こした醜悪な事件は、そんな華やかなパリを舞台にして引き起こされたのだ。

この時代に育まれた芸術や社会思想は、100年後の現代に直接つながっている。そんな時代に起きたドレフュス事件は、いわば「お祖父ちゃんの時代」の出来事だと言える。

ドレフュスに対する最初の判決を支持した人々が、国論を二分するほど、つまり国民の半分ほどもいたということは驚くばかりだが、そのような空気を醸成する種子を、100年後の私たちが根絶できているかどうか、きわめて怪しくはないだろうか。ことあれば対立を煽るような動きがマスコミや権力側のみならず社会のあちこちから湧き上がるなど、仮に22世紀の人たちから見れば「19世紀末も21世紀初頭も同じ」と断ぜられるのではないかと思われる。

国家というものが必ずしも道徳や正義を完備するものでないことは、歴史を振り返れば明らかだ。これは現在のどこかの政権がどうだということではなく、一般論としてそう考えた上で対処すべきという意味だ。

ドレフュス事件から半世紀を経ないうちに、隣の国ではユダヤ人の大虐殺が行われた。その時代に正統アーリア人としてドイツに生きていたとしよう。あなたは果たしてユダヤ人差別に反対することができただろうか。その頃のヨーロッパに大日本帝国外務省の一員として派遣されていたとして、杉原千畝のように「命のビザ」を発給することができるだろうか。

同じころ日本では太宰治という作家が「右大臣実朝」という小説を書いている。作家は戦後次のように振り返っている。

「右大臣(ユダヤジン)実朝」というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な「忠臣」もあった。

太宰治「十五年間」昭和21年

鎌倉三代将軍の名を同盟国ドイツが敵視しているユダヤジンと読み替える。こんな荒唐無稽な批判がまかり通るとは信じられない。しかし、おそらくこれが空気というものなのだろう。しかし、「非国民」の誹りを受けることにピリピリしていたその時代、いわゆるカギカッコ付きの忠臣に対して「バカなことを言うんじゃありませんよ」と諌めることができたかどうか。

正しいことが曲げられることは往々にして起こり得る。またある時代に正しいとされていることが本当に正しいかどうかはわからない。大多数の人々がそう意識しておくことだけが、おかしな空気の醸成を阻む道ではないだろうか。

最も危険なことは、ドレフュス事件を博物館の埃を被った小箱の中に納められた遠い時代の事件と見なしてしまうことだと思う。

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