[1月31日という日]スターリングラードのドイツ軍が降伏した日

Rinoue125R

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1943年1月31日、スターリングラード包囲戦を行っていたドイツ軍が逆に包囲され降伏

スターリングラードの戦いで捕えられたドイツ兵(あるいは、ファシスト・ドイツの降伏後、生き残った91,000人が捕虜になった。若い兵士と熱狂的ナチス兵士は戦いの終結を現実化していない)
スターリングラードの戦いで捕えられたドイツ兵(あるいは、ファシスト・ドイツの降伏後、生き残った91,000人が捕虜になった。若い兵士と熱狂的ナチス兵士は戦いの終結を現実化していない)

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モスクワの南東約900キロに位置するボルガ川沿岸の都市スターリングラード(現:ヴォルゴグラード)で戦われた市街戦で、ドイツ軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥がソ連軍に降伏。この戦いは中央アジアのバクー油田を狙う戦略の副次的作戦だったが「スターリンの町」という都市名にこだわったヒトラーにより、町の支配が厳命され、作戦中に冬を迎える。身動きが取れず補給も途絶えた状態でソ連軍の総攻撃を受けたドイツ軍は、スターリングラードを逆包囲されてしまう。包囲されたドイツ第6軍には、ヒトラーから「降伏の禁止」「徹底抗戦」が厳命されていたが、ドイツ軍は降伏した。

ベルリンから直線距離で2,230キロも離れ、補給が伸び切ったところでドイツ軍は敗北した。この敗戦を境に、ドイツの戦線は縮小に転じ、最終的にはベルリンまで至る長い撤退戦を戦うことになる。日本軍のガダルカナル島からの「転進」(撤退)との時期の合致は偶然とは思えないほどだ。

スターリングラードの戦い全体では、両軍合わせて200万人が死傷し、スターリングラードの人口は60分の1に減少したといわれる。

歴史の中の1月31日

▼1703年 吉良邸に討ち入った赤穂浪士が、吉良上野介を討ち取る
前夜出陣し、この日未明に吉良邸に討ち入った大石良雄(内蔵助)率いる赤穂浪士四十七士は、吉良家家臣と死闘を繰り広げた末、炭小屋に隠れていた吉良義央(よしひさ:上野介:こうずけのすけ)を見つけ出し討ち取った。

大石らは主君の墓がある高輪泉岳寺に向かい、墓前に報告をした。

その後、四十七士は4家の大名家に分けてお預けとなり、およそ2か月後、切腹した。
大石内蔵助が預けられ、切腹したのは肥後熊本藩主細川綱利の屋敷だった。

※日付の西暦表記はWikipediaの表記による

▼1912年 日本初の婦人専用電車
東京の中央線で通勤通学のラッシュ時間に設定されたが、長くは続かなかったという。その後も各地で散発的に女性専用車は設定されることはあったが長くは続かず、現在定着している女性専用車両は、2000年頃から私鉄を中心に全国に普及していった。

▼1917年 ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を対米通達
対戦国に限らず中立国の船舶に対しても潜水艦による攻撃を行うことを、ドイツがアメリカに対して通告。翌2月1日より作戦を開始した。(第一次世界大戦)

▼1942年 日本軍がジョホール・バルに到達
日本陸軍はマレー半島コタバルへの上陸から54日で1100キロを進軍し、半島最南端のジョホール・バルを占領した。守備していたイギリス軍は対岸のシンガポールに移動。太平洋戦争初期のマレー半島の戦いが終結した。

▼1943年 スターリングラードを攻撃するドイツ軍が降伏

▼1947年 マッカーサーが「2.1ゼネスト」に中止命令
第二次世界大戦後日本に進駐した連合軍最高司令部(GHQ)は、日本の民主化のため労働組合活動を容認・推奨してきた。これを受けて鉄道、工場、炭鉱、官公庁などさまざまな業種に労働組合が組織され、賃上げ闘争が繰り広げられる状況になった。デモだけでは要求を達成できないとして、ストライキの必要性が重視される中、吉田茂首相の「労働組合不逞の輩」発言が飛び出し、反発するかたちでゼネラル・ストライキ(全国的な規模でのストライキ:罷業)やるべしとの機運が一気に盛り上がった。ゼネストの期日は2月1日とされていたが、その前日、最高司令官マッカーサーはゼネスト中止を命令。ゼネストは中止された。
民主化は支持するが、共産化は断固阻止するというGHQのスタンスが明らかに示された事件だった。

▼1950年 米トルーマン大統領が水爆開発計画を表明
前年8月29日にソ連が核実験に成功したことで、核兵器保有による軍事的優位を失い、逆にソ連からの先制攻撃を受ける懸念が大きくなる中、日本への原爆投下にサインした大統領であるハリー・S・トルーマンが、より破壊力の大きな水爆を開発すると表明した。

▼1957年 石橋湛山首相が入浴中に倒れ、岸信介が総理臨時代理になる
1956年12月23日に首相に就任した石橋湛山(たんざん)が倒れ、副首相格だった岸信介が総理臨時代理に就任した。湛山には脳梗塞の疑いがあり2カ月の静養が必要との診断に、「私の政治的良心に従う」として退陣した。

臨時代理だった岸信介は2月25日、題6代内閣総理大臣に就任する。ハト派の重鎮だった湛山から、共産化の防波堤として米国から期待されていたタカ派の岸へという首相交代劇だった。

▼1979年 「空白の一日」江川卓・小林繁の電撃トレード
空白の一日での江川入団を果たせなかった巨人は、江川への交渉権を獲得していた阪神が1月31日に入団契約を交わした後、ただちに小林とのトレードで江川を獲得した。

この日が誕生日

◆1797年 シューベルト
オーストリアの作曲家フランツ・シューベルト。「歌曲の王」

◆1881年 アンナ・パヴロワ
20世紀初頭のロシアのバレリーナ。ペトログラード(現:サンクトペテルブルク)の貧しい家庭に生まれるも、帝室バレエ学校で学び才能を見出される。20世紀初頭には盛んに世界各地で公演を行い、来日も。日本でのバレエ普及のきっかけになったとされる。

◆1905年 万城目正(まんじょうめただし)
北海道出身の作曲家。松竹に入社し多くの映画音楽を手掛ける。代表作「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー)は終戦直後の大ヒットとなった。

◆1930年 小此木啓吾(おこのぎけいご)
東京生まれの医師。慶應義塾大学医学部助教授のころ出版した「モラトリアム人間の時代」は大ヒットとなる。精神分析の理論を解りやすく一般に紹介した。

◆1935年 大江健三郎
愛媛県生まれの文学者。ノーベル文学賞受賞。「死者の奢り」「遅れてきた青年」「万延元年のフットボール」「ヒロシマ・ノート」など。

◆1948年 鈴木宗男
北海道足寄町出身の政治家。

◆1961年 石野真子
兵庫県出身の歌手、女優。「狼なんか怖くない」でデビューしたアイドル時代のキャッチフレーズは「100万ドルの微笑」。ドラマ、映画でも活躍を続けるが、2004年には「特捜戦隊デカレンジャー」にも出演。

この日亡くなった人たち

・1897年 西周(にしあまね)
津和野藩(現島根県津和野町)出身の幕臣、官僚、教育者。「哲学」「芸術」「科学」「技術」「理性」などの訳語は彼によるものといわれる。

・1956年 A・A・ミルン
イギリスのスコットランド人作家、アラン・アレクサンダー・ミルン。「クマのプーさん」の作者。

・1985年 石川達三
秋田県出身の小説家「蒼氓」「生きてゐる兵隊」など。

・1999年 ジャイアント馬場(本名:馬場正平)
新潟県生まれのプロ野球選手、プロレスラー。全日本プロレス社長。

・2005年 中尊寺ゆつこ
横浜出身の漫画家。「スイートスポット」でオヤジギャルを描く。漫画・著書多数。

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