消えゆく震災遺構 ~南三陸町防災対策庁舎~

sKenji

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11月3日付河北新報社が、「宮城県南三陸町の防災対策庁舎での慰霊祭」について報じています。

東日本大震災で43人が犠牲となった宮城県南三陸町の町防災対策庁舎で2日、慰霊祭があった。祭壇を前に泣き崩れる人、骨組みとなった建物を見つめ続ける人。尊い命と街並みを一瞬で奪い去った大津波の記憶がよみがえったのか、参列者約500人は一様に沈痛な面持ちだった。

河北新報 東北のニュース/沈痛、よみがえる記憶 南三陸町防災庁舎慰霊祭

防災対策庁舎は、震度7の地震にも耐えるように作られた南三陸町の防災対策の拠点となる建物でした。

しかし、震災当日、海岸から約500m離れた防災対策庁舎の屋上に約30名の職員らが避難したものの、津波は3階建て庁舎屋上の2m上まで到達しました。屋上のアンテナや手すりなどにつかまり、約10名は助かりましたが、多くの方が亡くなっています。

当時の新聞で、防災対策庁舎に勤務している24歳の女性職員が、防災無線で町民に津波からの避難を呼びかけ続けて犠牲になった記事を読んだことを覚えています。迫りくる津波を前に、命の危険をかえりみなかった彼女の行動が印象的でした。NHKのWEBサイトにも、防災無線で避難を呼びかけた職員についての記事が書かれています。

南三陸町の危機管理課に勤めていた遠藤未希さん。おととし3月11日の巨大地震のあと、津波が押し寄せるなか、防災庁舎2階の放送室で、ぎりぎりまで避難を呼びかけました。
「津波が襲来しています。高台に避難してください」と叫び続けた回数は実に44回。多くの命が救われましたが、未希さんは逃げる間もなく津波に流され、その後、遺体で見つかりました。
今でも、多くの人が、「あの放送で命を助けられた」と振り返り、骨組みだけが残った庁舎には、未希さんをはじめ犠牲者の死を悼む大勢の人が訪れています。

NHK NEWS WEB 南三陸町 亡き娘に語り続けて

防災対策庁舎は、震災の記憶を風化させない震災遺構として、保存することも検討されましたが、解体することが今年9月に決まっています。

南三陸町の防災対策庁舎以外にも、震災遺構と呼ばれるものがあります。宮城県気仙沼市に打ち上げられた大型漁船、「第十八共徳丸」もその一つでしたが、先日10月24日に解体されています。

震災遺構の解体については、賛否が分かれています。遺族や被災者の方で、津波を連想させるものを目にしてしまうことがつらいという意見がある一方、津波の悲劇を残していくために必要だという意見もあります。

ちなみに第十八共徳丸のついては、住民にアンケートを取った結果7割の方が解体を望んだそうです。

第十八共徳丸
第十八共徳丸
道路脇の住宅地に打ち上げられた第十八共徳丸
道路脇の住宅地に打ち上げられた第十八共徳丸
330トン、全長60メートルの大型漁船が、港から約750メートルの場所まで津波で流される。
330トン、全長60メートルの大型漁船が、港から約750メートルの場所まで津波で流される。

南三陸町の防災対策庁舎も、予定では今月から解体が始まります。

震災遺構の保存の是非はないかと思いますが、震災遺構が次々と無くなっていく今、震災のことをこれまで以上に風化させない必要があるのではないかと、ニュースを見て感じています。

南三陸町防災対策庁舎

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参照WEBサイト

 防災庁舎の悲劇・南三陸町
memory.ever.jp  
 河北新報ニュース
www.kahoku.co.jp  

Text & Photo:sKenji

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