宮城県名取市にある閖上地区は、名取川の河口にあり、江戸時代から閖上漁港を有して、赤貝、ヒラメ、カレイ、シャコエビ、シジミ、小女子(こおなご)などの魚介類を獲ってきたそうです。
震災前には、多くの住宅が建ち並んでいたそうなのですが、私が訪れた時は、日和山と貞山運河が目に留まりました。
日和山は、船の出入り、気象、海上の様子などを見るために、大正時代に作られたそうです。ほとんどが平坦な土地である閖上地区で、唯一の高台と言ってもいいのが、高さ約6.3mの日和山です。
震災当日、この日和山に避難された方もいたとのことです。しかし、津波は日和山の頂上よりも、さらに2m以上の高い位置まで襲ってきて、ここで亡くなられた方々もいたという話を聞きました。
貞山運河は、閖上地区を横切るように流れている日本一長い運河です。
貞山とは、運河を作り始めた戦国武将、伊達正宗の追号であり、明治時代、運河の改修工事が行われた際に、それまで、木曳堀・御舟入堀・新堀などと呼ばれていた運河をまとめて貞山運河と呼ぶようになったと言われています。
江戸時代、波が高い外洋を航行する危険を避けるために、阿武隈川と名取川を結ぶ木曳堀(全長13.4km)が作られた後、御舟入堀、新堀、東名運河、北上運河と
明治時代まで作られてきたとのことです。
地元では「津波は、貞山運河を超えない」と言われていたようですが、地震発生からおよそ1時間10分後に名取川を遡るようして津波が襲ってきたとのことです。
名取市が公表している被害状況を見ると、平成25年3月31日現在、閖上地区に住んでいた方のうち、752名の方が亡くなっているそうです。特に、貞山運河付近の被害が大きかったようです。
名取市の統計情報によると、震災前の閖上地区の人口は、2011年2月末で、2,551世帯、7103人でした。しかし、震災直後の2011年3月末に、2,292世帯、6,082人、2013年9月末は、1,067 世帯、2,640人にまで減っているとのことです。
前回、閖上地区を訪れた際に地元の方が「閖上地区は、ガレキの処理が一番早くて、復興が一番遅い」と言っていました。
復興が遅れている理由として、行政が地元住民の意向を反映させた復興計画を立てようとしないのが原因だとも言っていました。
都心部では、空地ができたかと思えば、すぐに建物が建てられ始める。その勢いで復興も進んでくれればいいのに。そんなことを宵の口の日和山に登った時に思いました。
閖上地区
Text & Photo:sKenji
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