祖父の戦争 〈前編〉

baikinman

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大正3年生まれの祖父は、第二次世界大戦で日本兵として戦地に赴いたそうです。

93歳で亡くなっているため、今は戦争の話を直接聞くことは出来ません。

しかし、父は小さなころから祖父の出征の話を聞いてました。

今回は父から聞いた、祖父の戦争体験を書き留めます。

祖父から父へ、父から私へ伝え聞いた話なので、多少の時代のずれや思い違いもあるかもしれません。

しかし、戦争を風化させないために、祖父が父へ語った話をそのままを書いていきます。

祖父
祖父

祖父が召集されるまで

おそらく佐世保海軍工廠ではないか。右下が祖父・23歳(昭和12年4月撮影)
おそらく佐世保海軍工廠ではないか。右下が祖父・23歳(昭和12年4月撮影)

山口県下関市で育った祖父は、18歳で東京へ上京し電気の専門学校を卒業したそうです。

その後、佐世保海軍工廠(させぼかいぐんこうしょう)に行き、軍艦や潜水艦の電気検査技師として働きました。

休みがほとんどなく、たまに休みがあっても、憲兵が本当に休んでいるかチェックをしに来ていたそうです。

 佐世保海軍工廠 - Wikipedia
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おそらく三菱重工業下関造船所ではないか。右下が祖父・25歳(昭和14年5月撮影)
おそらく三菱重工業下関造船所ではないか。右下が祖父・25歳(昭和14年5月撮影)

忙しく大変だったため佐世保海軍工廠をやめて、祖父は三菱重工業下関造船所へ転職をし、招集されるまでこちらで電気配線の設計として働きました。

 三菱重工業下関造船所 - Wikipedia
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内地へ招集

昭和16年ころ(詳細不明)、祖父は補充兵として内地に召集されます。

内地(広島か岡山ではないかと思われる)では、上官が厳しく、すぐに殴られるような環境だったそうです。

そんな中でも、祖父は殴られることが少なかったと話していました。

というのも、祖父は殴った腹いせに、その班のモーターをなかなか直さなかっためだったようです。

手に職がある人たちは、祖父も含めギリギリまで内地にいました。

しかし、戦争が激化してくると、祖父は外地への出兵を言い渡されます。

内地で撮影されたと思われる。左の眼鏡の人物が祖父・28歳(昭和17年9月撮影)
内地で撮影されたと思われる。左の眼鏡の人物が祖父・28歳(昭和17年9月撮影)

外地へ出兵

どこへ行くかも伝えられず、およそ1,700名ほどが輸送船に乗り出港したそうです。

おそらくフィリピン行きだったと祖父は言っていたようですが、今となっては本当にフィリピンへ行く船だったのかも定かではありません。

その祖父の乗った輸送船に、ある夜魚雷が当たって火事になります。

輸送船には学徒出陣の兵隊も多く乗船しており、怖くなった学徒兵たちが次々と海へ飛び込んだそうです。

すると船から漏れた油が海に流れだし、多くの学徒兵が焼け死んでいきました。

その時、「多くの学徒兵が『お母さん』と叫んびながら死んでいったのが忘れられない」と、祖父が言っていたそうです。

 学徒出陣 - Wikipedia
ja.wikipedia.org  

祖父は「どうせ死ぬから、最後はタバコを吸おう」と戦友と2人でぎりぎりまで甲板に残っていたと言っていました。

そうして明け方にいよいよ船が沈むときに海に飛び込み、木につかまって漂流していると、敵の飛行機グラマンが海に浮かんでいた日本兵に向かって機銃掃射(きじゅうそうしゃ)したそうです。

周りの戦友たちが死んでいく中、祖父の鼻の頭を銃弾がかすめ、家族からもらったお守りに弾に当たって浮いてきました。

その時に、「自分は助かるかもしれない」と思ったそうです。

F6F (航空機) - Wikipedia
 F6F (航空機) - Wikipedia
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漂流後に起きた悲劇

2日ほど海を漂流していると、日本の他の輸送船に助けられました。

「ロープで引っ張られる姿は、まるで魚釣りのようだった」と祖父が話していたそうです。

ようやく助けられて輸送船の大部屋で休んでいると、船の壁から突然弾が飛んできました。

そこでも何人も撃たれ、みんなで甲板に逃げたそうです。

甲板では、飛行機が来ると反対側に走って機銃掃射から逃げていきますが、どんどんと周りの戦友たちが死んでいきます。

血で甲板はどろどろになり、敵の弾をよけるために床に伏せると、両隣の人に弾が当たって死んでいたそうです。

ついに船は沈んでしまい、祖父は再度漂流をします。

更なる漂流

二度目の漂流中も、何度も敵の飛行機グラマンが攻撃してきたそうです。

せっかく日本の輸送船に見つけてもらっても、グラマンが来て助けてもらえずに漂流し続け、数日後に軍艦に助けられ、台湾に上陸しました。

祖父は「戦争中、ボカチンに3回あった」と話していたそうです。

艦が魚雷攻撃を受けて沈没すること。

日本海軍の兵士内での俗語で、「(魚雷を)ボカンと食らって(艦が)沈没」の略だと言われている。

ボカチン ‐ 通信用語の基礎知識

外地へ足を踏み入れるまでにも、海の上でこのような惨劇がおこっていたそうです。

私が高校時代に祖父母といっしょに暮らすようになり、戦争体験を祖父が話してくれました。

祖父が淡々と話す姿というのは、とても不思議だったことを覚えています。

祖父は戦争中にあまりにも死が身近にありすぎて、「死体を見ても感情が動かない。死に対して感覚が鈍っている。」と父に話していたそうです。

祖父の戦争 〈後編〉 by baikinman
 祖父の戦争 〈後編〉 by baikinman
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最終更新:

コメント(7

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  • P

    pamapama

    わたしの祖父は健康上の理由で戦争へ行っていないのですが、それはそれで家族はつらい思い(国に貢献できないという負い目や世間の目でしょう)をしたそうです。行っても行かなくても戦争にいいことなんてひとつもないですね。

  • O

    orangeoor18

    自分は祖父母から戦争の話を直接聞いたことがなく、亡くなってから父や親戚から聞いたことがあります。やはり当時のお話はとても貴重だと思いました。また、挙げられているような当時の写真をご家庭で残していくことも大切なんだと思いました。

    • B

      baikinman

      祖父母の写真は今回初めてしっかりと見ました。
      しわしわの顔しか知らなかったので、若いころの祖父がなんだか知らない人みたいで変な感じです。
      身近な人の軍服姿は、戦争があったことをより実感させられます。

    • A

      akaheru

      想像を絶する体験をされていますね。

      おじいさまが生き抜いてくれたことでbaikinmanさんが今いることを、感謝しないとですよね。

      • B

        baikinman

        優しくて飄々とした祖父だったので、ここまでの戦争体験をしたことに驚きました。
        ただ、たまに険しい顔をして黙っていることもあって、ただ優しいだけじゃなかったんだなぁと思います。

        祖父が生き抜いていたことに感謝です。

      • C

        cha_chan

        とてもリアルな体験談ですね。その時の惨状が目に浮かびます・・・。
        自分も祖父母が3人他界してしまい、戦争体験を聴く機会がなくなってしまったのを残念に思っていましたが、親や親戚、祖父母の知人が戦争体験を直接聞いているかもしれません。
        今度実家に帰った際に、両親に聞いてみようと思います。

        • B

          baikinman

          祖父は生きているときに、戦争体験をよく話していたようですが、私が突っ込んで聞かなかったので、記憶があいまいでした。
          今回父に改めて聞いて、祖父について詳しく知れてよかったなぁと思っています。
          ぜひ、ご両親に聞いてみてください!