[10月21日という日]出陣学徒壮行会の日

Rinoue125R

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「出陣学徒壮行の地」の碑。オリンピックによる国立競技場改修にともない撤去される予定という

「出陣学徒壮行の地」の碑。オリンピックによる国立競技場改修にともない撤去される予定という

1943年(昭和18年)のこの日、特例として徴兵を猶予されていた大学生たちが出陣する壮行会が挙行された。世にいう「学徒出陣」は、この日、秋雨の降る明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で行われた。陸へ海へ空へ出征していった約10万といわれる学徒たちの多くが生きて還ることはなかったという。
翌1944年(昭和19年)には、戦闘機に中型爆弾を搭載し、搭乗員ごと敵艦に突入するという「必死」の戦法による神風(しんぷう)特別攻撃隊が、フィリピンで初めて出陣した。

1943年10月21日、出陣学徒壮行会が行われる

昭和18年(1943年)、戦争への召集が猶予されていた大学生たち(大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒)の徴兵猶予が停止され、10月、11月に徴兵検査を実施し、12月には陸海軍に入隊させることが決定された。約十万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになったのである。

この日、明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)に、東京近郊77校が参加して、「出陣学徒壮行会」が行われた。秋雨が降りしきる中、学徒らが分隊行進(隊列を組んでの軍隊式の行進)する様子は、スタンドを埋め尽くした近隣の女学生たち、後輩たちらに見守られるのみならず、ラジオや新聞、ニュース映画でも全国に伝えられた。

とくにニュース映画は全国各所で繰り返し上映されたという。
まだ少年のような学徒たちの顔を、水たまりを鏡にして映すカメラワークや、祈るように拍手を送る女学生たちなど、映画として求められた国威発揚というテーマからは、意外なほど遠く感じられるセンチメンタルな描写も見られる。一方的な視点からの映像ではないところにこそ、宣伝映画としてのこの映像の特色がある。

壮行会終了後、学徒の中にはその足で徴兵検査に向かった人もいたという。壮行会は東京のみならず、台北や京城、上海、新京、ハルビンなどの外地の大都市や大阪、神戸、名古屋、仙台、札幌など各地で開催された。

この後、徴兵猶予の年齢はさらに引き下げられるほか、中学生に対する志願兵としての出征勧奨や工場動員が進められ、学窓からは学生、生徒の姿が消えていく。

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1944年10月21日、神風特攻がはじまる

神風特攻の第1陣となった敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が、フィリピン、ルソン島のマバラカット飛行場(クラーク基地の一部)から初めて出撃する。

靖国神社遊就館の零戦52型(A6M5)

靖国神社遊就館の零戦52型(A6M5)

零戦の胴体下に250kg爆弾を吊架し、搭乗員もろとも敵艦に突入するという戦術が、いつ誰によって考案されたかは定かではない。ただ、生還を期さない特別攻撃が作戦として行わるようになる以前から、個人による献身的な攻撃は日本軍に限らず、世界中の軍隊で散発的に見られたものだった。また、敵に肉迫して攻撃を計る「決死隊」的な攻撃も古くから繰り返されてきたが、生きて還ることが不可能な「必死」の攻撃であるという点が、欧米の将兵をして「KAMIKAZE」と恐怖させた所以だろう。

神風特攻第一陣となった部隊の中心的メンバーは、敷島隊隊長に指名された関行男大尉(没後中佐)を除くと甲飛(甲種飛行予科練習生)10期生が中心だった。甲飛は旧制中学4学年1学期修了以上の者を対象とする飛行訓練生で、その10期の入隊は昭和17年。太平洋戦争開戦後最初の甲飛メンバーだった。翌年の部隊配属時(ちょうど学徒出陣の壮行会が行われた頃と一致する)には、戦闘機乗り200名以上を数えたが、19年10月時点では33名にまで減少していた。激しい戦の中、同期の仲間の多くが戦死していたのである。

作戦を指導し、攻撃を指揮する司令部の将校たちの間には、必死の攻撃を作戦として採用することへの抵抗や、士気が衰えることへの恐れ、技術的観点からの不安(翼のある飛行機は爆弾と違い降下中に揚力の影響で操縦が困難になるため、命中の可能性が危ぶまれる。中型の250kg爆弾では敵艦を撃沈することは難しい等)もあったという。しかし、甲飛10期の搭乗員たちに体当たり攻撃について告げた時、全員が「感激に目をキラキラさせて志願した」という司令部将校による証言もある。20歳未満の若者たちは、犬死にするくらいなら仲間の仇を討つべく敵に一矢報いたいという思いが強かったのかもしれない。

敷島隊隊長の関行男大尉は、急降下爆撃機から戦闘機に機種転換したばかりで、しかも一目惚れの相手と結婚式を挙げてわずか5か月だった。出撃前、基地内にいた唯一の民間人である通信社記者に、「日本はもう終わりだ。俺のような優秀なパイロットを死なせるのだから。俺なら50番(500kg爆弾)で敵空母を破壊することができるのに」といった言葉を残したという。

21日の出撃は悪天候により帰還。その後も空振りが続いたが、10月25日水曜日、関大尉ら6名がアメリカの護衛空母(小型の空母)セントローを撃沈する。これが神風特攻の最初の戦果とされる。ちなみにセントローは10月10日に改名されたばかりで、以前の艦名は「ミッドウェー」だった。

神風特攻の劈頭から第一航空艦隊司令長官として作戦を指揮、その後も特攻による作戦拡大を進めた大西瀧治郎は、終戦の玉音放送を聞いた後、8月16日未明「特攻隊の英霊に曰す」に始まる遺書を残し自決した。

神風特攻は海軍航空隊の零戦で始まったが、すぐに機種は拡大。旧式機、鈍足な大型爆撃機、終戦後「Crazy Bomb」と呼ばれた有人爆弾、さらには複葉の練習機までもが出撃した。陸軍航空隊も呼応して連合軍艦船に対する航空特攻を行った。

特攻による戦没者は、航空機による特攻だけで陸海軍あわせて3,948名。ほかに潜水艇によるもの、モーターボートによるもの、B29に対する航空特攻、戦艦大和など第二艦隊による沖縄特攻などさまざまな手段による特攻が行われており、特攻戦死者を数えあげることは難しい。また、特攻による連合国側の被害人数についても詳らかではない。

※この項の執筆には、「特攻とは何か」森史朗(文春文庫515)を参考にしました。

歴史の中の10月21日

◆1096年 貧者の十字軍がルーム・セルジューク朝の攻撃により壊滅
1095年のローマ教皇ウルバヌス2世による「十字軍」の呼びかけに熱狂した民衆、農民などによる巡礼団、下級騎士らによる十字軍。農民十字軍、民衆十字軍など多くの呼び名がある。貴族や諸侯らによる十字軍本体より先に小アジア(トルコ地方)に到達してしまい、現地のルーム・セルジューク朝の攻撃でほぼ壊滅した。

◆1520年 マゼラン海峡が発見される
パタゴニアの南、南米大陸の南端部とフエゴ島とに挟まれたフィヨルド状の海峡。ポルトガル人の航海者で探検家のフェルディナンド・マゼランが、世界一周航海の途中、発見する。

◆1600年 関ヶ原の合戦(慶長5年9月15日)
美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で戦われた日本を東西に二分しての戦い。豊臣方の石田光成が敗死し、徳川家康が天下を治める体制を盤石にした。

◆1805年 ネルソン提督率いる英海軍がトラファルガーの海戦でナポレオン軍を撃破
イギリスによる海上封鎖を破り、英国本土への侵攻の足掛かりとするため戦いを挑んだ仏西連合軍33隻と、ヴィクトリー号を旗艦とするネルソン艦隊27隻がトラファルガー岬沖で激突。ネルソンは後にネルソンタッチとよばれる二列縦隊で連合国軍艦隊中央に突進し、敵艦隊を二分。圧倒的な大勝利をあげた。しかし、ネルソンは仏艦狙撃兵による銃弾に戦死した。

◆1879年 トーマス・エジソンが白熱電灯を一般公開
エジソンは電球の発明者として有名だが、電球の原理そのものは以前から知られていた。問題は通電で熱せられたフィラメントが焼ききれてしまうことで、エジソンは電球内部を真空にすることで酸素を取り除き、耐久性の高い日本の竹繊維をフィラメントに採用することで、長時間の点灯に成功した。つまりエジソンは電球の実用化を行った人物だった。ちなみに電球の口金には、E12(直径約12mm)、E14(直径約14mm)、E26(直径約26mm)などの種類があるが、「E」はエジソンに因むとか。

◆1882年 のちの早稲田大学、東京専門学校が創立される

◆1943年 明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘陸上競技場)で学徒出陣壮行会

◆1944年 初の神風特別攻撃隊がフィリピンで出撃

◆1965年 朝永振一郎のノーベル物理学賞受賞が決まる
朝永振一郎(ともなが・しんいちろう)は日本の物理学者。戦前から京都大学、理化学研究所、プリンストン高等研究所などで、量子論の研究を行なう。終戦から間もない1947年、くりこみ理論を発案することで量子論の基礎を完成させた。ノーベル賞授賞式には肋骨骨折のため出席できなかったとか。彼の功績は素粒子や超弦論など現在の物理学の基礎をなしているとされる。

◆1966年 総評によるベトナム反戦統一スト
日本労働組合総評議会(総評)はストを実施しすると同時に、全世界の反戦運動団体にもベトナム戦争反対を呼びかける。このことから、10月21日は「国際反戦デー」とされ、その後もこの日に反戦集会が開催されるようになる。1968年には、新宿騒乱と呼ばれることになる暴動事件にも発展した。

◆1972年 ジャイアント馬場を中心に、全日本プロレス旗揚げ

この日が誕生日

1833年 アルフレッド・ノーベル
スウェーデンの化学者。ダイナマイトの発明とノーベル賞で知られる。

1893年 木原均
日本の遺伝学者。元国立遺伝学研究所所長。小麦の祖先特定、種無しスイカの開発などで知られる。全日本スキー連盟会長、日本原子力委員会委員長、札幌オリンピック組織委員など歴任。

1894年 江戸川乱歩
日本の推理作家。「怪人二十面相」「少年探偵団」「黒蜥蜴」「パノラマ島奇談」

1947年 蛭子能収
日本の漫画家

1950年 古川益三
まんだらけ代表

1959年 渡辺謙
日本の俳優

この日、亡くなった人々

1805年 ホレーショ・ネルソン
英海軍提督

1916年 ラファエル・コラン
フランスの画家。古典主義的な美術アカデミーの住人でレジオンドヌール勲章まで受賞しているほどだが、その作風は印象派や象徴主義の影響もみられる柔らかく優美で幻想的ですらある。黒田清輝・久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作ら日本人の留学生を指導した。

1971年 志賀直哉
日本の小説家。「城の崎にて」「小僧の神様」「灰色の月」

1980年 嵐寛寿郎
日本の映画俳優。アラカンと呼ばれた戦前映画界の大スター。

記念日など

明かりの日
言うまでもなく1879年10月21日にトーマス・エジソンが白熱電球を公開した日に因んで設けられた記念日。エジソンの電球に京都産の竹の繊維を炭化させたフィラメントが使われていたという逸話もすごい。

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