【シリーズ・この人に聞く!第178回】NPO法人東京レインボープライド共同代表理事 杉山文野さん

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LGBTという言葉は知っていても、本当の意味を知る人はまだ少ないのでは?杉山さんはそんな社会を変えていくために啓蒙活動を行っている。体は女性として生まれたものの、心は男性として成長し、さまざまな葛藤の末、男性として暮らすトランスジェンダー。今秋「元女子高生、パパになる」(文藝春秋社)を上梓。私たちは、どのような社会を目指すべきか?を語っていただきました。

杉山 文野(すぎやま ふみの)

NPO法人東京レインボープライド共同代表理事
1981年東京都生まれ。フェンシング元女子日本代表。
早稲田大学大学院にてジェンダー論を学んだ後、その研究内容と性同一性障害と診断を受けた自身の体験を織り交ぜた『ダブルハッピネス』を講談社より出版。韓国語翻訳やコミック化されるなど話題を呼んだ。卒業後、2年間のバックパッカー生活で世界約50カ国+南極を巡り、現地で様々な社会問題と向き合う。帰国後、一般企業に3年ほど勤め独立。現在は日本最大のLGBTプライドパレードである特定非営利活動法人 東京レインボープライド共同代表理事、セクシュアル・マイノリティの子供たちをサポートするNPO法人ハートをつなごう学校代表、各地での講演会やメディア出演など活動は多義にわたる。日本初となる渋谷区・同性パートナーシップ証明書発行に携わり、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議委員も務める。

 杉山文野 公式ホームページ | newcanvas
fuminos.com  

婚姻の平等で不幸になる人は誰もいない。

――4年前に文野さんとおつながりいただいて、ずっと取材機会を窺ってまいりました。今回、乙武さん執筆の「ヒゲとナプキン」原案、そして新刊「元女子高生、パパになる」を出版されるとお聞きして、このタイミングでお話し伺えてうれしいです。この4年間で結婚や子育て…ライフステージが変化するなど、ずいぶんご自身も環境変化されたのでは?

15年前に出版した「ダブルハッピネス」は今なお部数が伸び続けている。

15年前に出版した「ダブルハッピネス」は今なお部数が伸び続けている。

4年前は妊活をしていました。パートナーとは10年の付き合いでも婚姻関係は結べないんです。僕は見た目おじさんですが戸籍上は女性。日本の法制度では女性同士の婚姻は認められないのです。そして法的には血縁関係のない子どもを育てているので、シングルマザーと赤の他人が一緒に生活をしているということになります。

――日本ではそうした法整備が欧米諸国に比べて追いついていない感がありますか?

遅れていますね。例えばG7において同性パートナーに対する法的保障がないのは日本だけです。最近グローバルにはもう「同性婚(Same sex marriage) 」という言い方はほとんどしておらず「婚姻の平等(Marriage equality)」という言い方をしています。すべて国民は法の下に平等…と言っておきながら結婚できる人とできない人がいるという矛盾。これは解決すべき課題です。構造的な差別がある限り、意識として差別や偏見はなくならない。一方、僕はトランスジェンダーなので、2004年に性同一性障害独立法というのができて、ある一定の要件を満たすと性別の変更ができるようになりました。でも戸籍変更の要件は非常に厳しくて、その一つに生殖機能を永遠に取り除くことがあります。僕自身は乳房切除は手術でしましたが、子宮と卵巣の摘出はしていません。手術は体に負担が掛かるのと、金銭的にも多大な費用が必要です。今回の本は、まさにそれが大きなテーマのひとつでもあります。

――手術を前提に新しい戸籍を引き換えにするのは、心身共にストレスが大きいですね。

トランスジェンダーは個人差が大きくて、手術が必要な人もいれば、手術は不要な人もいる。僕の場合、目に見えるおっぱいはあまりにも苦痛だったので手術しましたが、見えない生殖器はそこまで体に負荷を掛けて手術をしたいと思いません。トランスジェンダーは、自分さえ我慢して手術をすれば望む性別の戸籍が手に入るし、安定した生活ができる。だから体にメスを入れる。生きるために制度があるべきで、制度のために生きているわけではありません。体を切り刻んで社会に無理やり当てはめるより、社会の制度が変わったほうがいい。保険適用されるようになった報道がありましたが、それも使うにはかなりハードルが高くて、ほとんど適用されないも同然です。第一に僕の戸籍上の性別が男か女かということで誰かの人生に迷惑をかけることがあるのでしょうか? 婚姻の平等や特例法の改訂が実現されて幸せになる人はたくさんいますが、不幸になる人は誰もいません。

――本当にそうですね。今回15年ぶりにたて続けに書籍を出されることになったのはそうした経緯があってのことですか?

僕は約15年前に「ダブルハッピネス」という本を書いたことをきっかけにLGBTの啓発活動に関わることになりました。紆余曲折ありつつでしたが2013年からは個人的な活動だけでなく、パレードという大きな社会運動に関わるようになったことも僕にとっては大きな出来事でしたね。日本のLGBTQを取り巻く社会環境が大きく変化したし、僕個人も大きく変化があった15年でした。一方で、どれだけパレードが話題になっても、なかなか届かない層の人たちがいます。そうした時にエンターテインメントという切り口はすごく大事だよね、という話になりました。2018年に浜崎あゆみさんがパレードにいらしてステージで歌ってくださったことで、ワイドショーなどにも取り上げられてお茶の間のニュースになりました。会場にあゆを見に来たという方々が、これをきっかけにLGBTQを知ってもらえるのは大切な機会だと思いました。ただ真正面から「我らに人権を!」というだけでなく、様々な手法でアプローチしないと社会は変わっていかないと思います。LGBTQは全人口の3~10%と言われますが、仮に当事者が5%としても、その5%の意識を変えるよりも、それ以外にいる95%の人に知ってもらうためにはどうしたらいいのか。当事者のエンパワメントはもちろんですが、LGBTの当事者以外の人にいかに知ってもらうかが大切だと思うんです。

マイノリティーの生き辛さをシェアしたい。

――10月28日に刊行された「ヒゲとナプキン」は乙武さんの執筆で、原案は文野さんです。作品に託された思いをお聞かせください。

二人姉妹として育ったが、幼少期からスカートが嫌いだった。

二人姉妹として育ったが、幼少期からスカートが嫌いだった。

エンターテインメントをきっかけに多くの人に知ってもらうのは大切だと考えていたところに、名編集者でもある株式会社コルクの代表・佐渡島さんと話す機会があって、LGBTQのSTORYを知る小説が少ないから書いたらどうか?と提案されました。島崎藤村といえば「破壊」これは部落差別をテーマにした名作ですし、そういうシンボル的な小説があれば、もっと知ってもらえるのでは…と。僕はエッセイなら書けますが、小説はちょっと難しい。そこで「ダブルハッピネス」を書くきっかけにもなった兄貴的存在の乙武洋匡(以下、乙さん)さんに相談して、僕の話だけでなく周りの仲間の話もあわせて語り部として伝え、乙さんに書いてもらうことになりました。乙さんはフレームワークをがっちり決めてから書き始めるタイプなので、まずは大枠を決めてからスタートしました。週一で乙さんが原稿案を共有してくれ、僕と佐渡島さんがそれを読んでの意見をフィードバックしました。それを受けた乙さんが修正を加え、毎週彼のnoteで連載していきました。土俵も分野も違いますが彼もマイノリティーとして背負ってきた視点があるからこそ、あれだけ当事者に寄り添って書いてくれたのだと思います。ここまで当事者の気持ちをわかってくれるのかと、誰よりも僕が毎週楽しみに読ませてもらいました。乙さんの文才に佐渡島さんの鋭い編集視点、毎回とても勉強になりました。

――3人の力を集結した「ヒゲとナプキン」ですね。11月には「元女子高生、パパになる」という本を出されますが、書籍の企画は同時進行でしたか?

元々小説版とリアル版のどちらもあったほうがいいのではという話があって、どちらの作品からでも関心を寄せてもらい、現代の日本社会に生きるトランスジェンダーのリアルを知ってもらえればと。15年前に「ダブルハッピネス」を書いてから、2冊目はどうするの?といろいろな人に聞かれてきましたが、そんなに簡単に書けるものではなくて。その後3年や5年では書けませんでしたが、10年経ってみるとそれなりにいろいろあるなぁと。でもそろそろ書いてみようかな?と思いつつ、忙しさを理由に後回しにしていました。ちょうどそんな時に文藝春秋の編集者さんから声を掛けていただいたのがきっかけです。パートナーの妊娠など自分もライフステージが変わるタイミングだし、今年で39歳で、40歳になる前にこれまでのことをまとめておくのもいいかと思いまして。

――まさにライフスタイルが変わる時が、本を出すタイミングでしたね。

実は、最初ライターさんに書いてもらうつもりでしたが、それだとやはり細かなニュアンスが変わってしまうなと。幸か不幸かコロナ禍となって時間もできたので、最終的には自分で書くことになりました。本を売るということよりも、これまでにあった出来事を一冊にまとめておきたいという気持ちが強かったですね。娘も産まれ、この子が大きくなっていく時に、親が3人いることや、トランスジェンダーについて、もしかしたらアイデンティティーに迷うことがあったとしても、どういった社会背景で、どんな想いで生まれてきたのかをわかるようにしておきたかった。

――子どもを授かっても育てられない事情があったり、授かりたくても難しい状況にある方もいたり。LGBTQだけでなく、今の時代は妊娠・出産で生き辛さを抱えている女性は多いですね。

セクシュアルマイノリティだけではなく、多くの人が自分の思っている普通と、社会の普通が噛み合わずにいろいろなことで苦労をしています。社会的マイノリティの僕が様々な壁をどう乗り越えてきたかをシェアすることは、今の日本社会で何かしらの生きづらさを感じている方々への何かのきっかけやヒントにつながるのではないかとも思いました。実際に僕の家族のことを公表した際に反響があったのは、LGBTQだけではなかったので。何かしらの理由で子どもを持てないストレートのカップルや、血の繋がりのないお子さんを育てられている方などなど。多様な家族形態を望むのはLGBTQに限らないのだということを改めて感じる出来事でした。

早い段階からサバイバル能力を身につけて。

――胎外受精の他にも里親など子どもを育てる選択肢はいくつかあると思いますが、その道を選択された理由は?

6歳の頃、学芸会の衣装を身につけて。

6歳の頃、学芸会の衣装を身につけて。

まずパートナーの彼女と相談する中で、最初の選択はふたつありました。彼女が産むか、どなたかに産んでいただいた子どもを何かしらの形で引き取って育てるかです。産めるのであれば自分で産みたいと彼女が言うので、となると次なる選択肢は精子提供者をどうするかでした。いわゆる精子バンクのようなところで知らない方のものをいただくか、あるいは身内の知っている方からご提供いただくか。すると彼女が全く知らない人よりも知っている人のほうがいい、ということになりました。ただどれだけ仲が良くてもストレートの人には、僕も嫉妬があるので嫌だったんです。ゲイの人ならそういう嫉妬はないので、必然的に条件が絞られてきて、一番信頼関係が深かったゴンちゃん(松中権さん)に相談することになりました。仲はよかったけど、こんな風にファミリーにまでなるとは思っていませんでね。子づくりや子育てに関して、3人親で進めていく日々にはきれいごとばかりではなく、日々いろんなことがあります。でも、子どもが産まれればどんなご家庭でもいろいろありますよね。LGBTQだからとか、3人だから特別大変ということはないのではないでしょうか。この辺の細かい経緯は新刊「元女子高生、パパになる」に詳しく書いてあるので、ご興味がある方は是非お読みください。笑

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