祖父の戦争 〈後編〉

baikinman

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祖父・28歳(昭和18年3月撮影)
祖父・28歳(昭和18年3月撮影)

大正3年生まれの祖父は、第二次世界大戦で日本兵として戦地に赴いたそうです。

今回は漂流後に日本の軍艦に助けられて、台湾に上陸した後のお話です。

祖父の戦争 〈前編〉 by baikinman
 祖父の戦争 〈前編〉 by baikinman
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空襲が・・・

台湾に上陸して日本軍で生活している際は、お昼時に度々空襲があったそうです。

日本人は12時になると揃って昼食をとっていたため、アメリカ軍はお昼時を狙って、爆弾を落とすことが多かったと言っていました。

そんなある日、夜中に空襲がありました。

起きると兵舎が燃えていて、祖父はふんどし一枚で逃げ回りました。

すぐ近くに防空壕があったけれど、必死に逃げていて気が付かなかったそうです。

その日は空襲警報が鳴らないと思っていたら、祖父は熟睡をしていて音に気付かなかったそうです。

なんとものんきな話ですが、空襲の後に防空壕から出てきた戦友は、まさか祖父が生き延びているとは思わず、大変驚いたそうです。

朝目覚めると海に・・・

また別の日には、目が覚めて海を見ると、多くの日本人の遺体が浮いていたそうです。

船で遺体を回収して日本に送るのですが、あまりにも数が多かったため、すべてを送ることが出来ず、親指を切ってプレートと一緒に燃やし、髪の毛とともに日本に送ったそうです。

祖父はその際に親指を落とす係で、斧で何百人もの親指を切ったそうです。

台湾での現地の人との交流

そのような緊迫した中で、現地の台湾人との交流があったようです。

軍事訓練で海へ手榴弾を投げ、浮いてきた魚を食事のために捕ると、日本人が捕り終わってから待っていた台湾人が沈んだ魚を取りにきました。

台湾人とは物々交換もしたそうです。

日本のタバコと、台湾のエビをよく交換したようです。

台湾では食事に困ることはなく、魚のほかにバナナやスイカなども食べていたと言っていました。

このように、戦時中ではありますが現地の台湾人とは仲良くやっていたようです。

特攻隊

太平洋戦争終盤になると、ある日上官に呼ばれます。

集まると上官から「特攻隊募集。行くものは前へ。行くのは自由だ。」と言われたそうです。

その時、20~30名ほどいた兵隊全員が一歩前へ出たそうです。

そしてこの中からくじ引きで2人が特攻隊に選ばれます。

『赤いくじ』を引いた人が、特攻隊に決まるそうです。

祖父はというと、『赤いくじ』を引いたそうです。

特攻隊になると兵舎から特別な特攻隊用兵舎へ、いつも乗ることのできない車で移動します。

車の中ではもう一人選ばれた戦友が震えていたそうです。

祖父が「何で震えているんだ」と問いかけると、「俺たち死ぬんだぞ」と言っており、「そうだよ」と祖父は答えたそうです。

祖父は特攻隊に選ばれて、死ぬと分かっていても怖くなかったそうです。

今まで食べれなかったものを食べたり、仲間から選別をもらったり至れり尽くせりでよかったと思っていたそうなので、戦争によって精神状態がおかしくなっていたのかもしれません。

特別攻撃隊 - Wikipedia
 特別攻撃隊 - Wikipedia
ja.wikipedia.org  

出撃

海上での特攻は、敵の軍艦への体当たりです。

祖父は上官より、「軍艦に当たったら逃げろ」と言われていたそうですが無茶苦茶な話です。

そもそも体当たりする為に乗っている舟が遅いため、行く前に敵に撃墜されることがほとんどだったようです。

震洋 - Wikipedia
 震洋 - Wikipedia
ja.wikipedia.org  

出撃の日、敵の軍艦が来るのを島に隠れて待っていたそうです。

いつまで待っても敵の軍艦が来ない。

実は敵の軍艦は島の反対側を通ったため、気づかなかったそうなのです。

この日は何もないまま終わりました。

再度の出撃、そして・・・

数日たって、2度目の出撃命令が出たそうです。

いよいよ出撃となる前日、終戦となりました。

そのあと、突如上官がいなくなったそうですが、何が起こったかは分からないと言っていました。

そして70人ほどで日本の門司港に帰ってきたそうです。

日本に帰って

祖父が木材を削って作った軍艦と一緒に写る父
祖父が木材を削って作った軍艦と一緒に写る父

帰国後の祖父はというと、よく夢でうなされており、「関門海峡に亡くなった戦友が来ている」と父に話していたそうです。

そんな祖父には、ずっと気になっていた人がいたそうです。

敵と鉄砲で打ち合いをしているときに、弾が無くなってしまい、自分が弾を取ってこさせて死なせてしまった人がいると後悔していたそうです。

自分か相手のどちらかが死ななければいけない状況。

自分の行動が誰かを死に至らしめてしまうことがある状況。

何も生み出さないのが戦争なのだと、祖父の戦争体験を聞いて感じました。

息子は

今回の記事は、息子も興味を持って読んでくれました。

自分のひいおじいちゃんのお話だということで、「ひいおじいちゃんが死ななかったから自分が今いる。命を大事にしたい」と言っていました。

今の自分の命はこうやって懸命に生きてきた祖父が命をつなげたことによってあるのだと、息子と話しながら改めて感じました。

最後に息子が「戦争はしちゃだめだね」といった言葉が印象的です。

最終更新:

コメント(7

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  • A

    akaheru

    こういった想像を絶することがほんの数十年前に起こっていたのですね。そして世界に目を向ければ、それは過去の話ではない。

    決して繰り返してはいけませんね。

  • O

    orangeoor18

    信じられないような話ですが、これが実際に起きていたことなんですね…。ここまでリアルな話は貴重だと思いますし、自分よりも下の世代に伝えていく意味は大きいですね。

    • B

      baikinman

      戦争について耳を傾ける子供になるためにも、まずは親がしっかり学ぶ場を作らないといけないなぁと思います。

    • P

      pamapama

      ここまで詳しいお話を知ることができたのは、亡くなったお祖父様からお父様がしっかり伝え聞いていたからこそですね。さらに先の世代まで伝えていくうえで、息子くんの言葉がとても心強く思えました。

      • B

        baikinman

        祖父の話を生きている頃に、どんな風に感じたかなど書き留めておけばよかったと今さらながらに思います。
        もう祖父の思いを知ることは出来ませんが、こうやって戦争体験を記事に残して、息子が成長した時にまた読んでくれるといいなぁと思います。

      • C

        cha_chan

        > 自分のひいおじいちゃんのお話だということで、「ひいおじいちゃんが死ななかったから自分が今いる。命を大事にしたい」と言っていました。

        息子さんの言葉に、戦争の記憶を次の世代に伝えていくことの必要性を強く感じました。
        人の記憶には限界があるし、手記なども保存が難しいですよね。
        baikinmanさんのように、インターネットを通じて記憶を残すことを、記憶が失われる前に進めていかなければならないと思います。

        • B

          baikinman

          曾祖父と会ったことは無くても、自分のこととしてとらえる息子を見て、自分のルーツを知ることの大切さを感じました。