2月16日に落成式を行った岩手県立高田病院の前庭に、ピンク色の御影石が設置されている。石に刻まれているのは「岩手県立高田病院」の文字。病院の前に病院名が記されてた表札があるのは何の不思議もないように思えるかもしれないが、これは表札ではない。表札であるなら外に向けられるはずだが、この御影石の「県立高田病院」は、病院の正面、前庭に設置されているからだ。まるで何かを記念する石碑のように。
御影石のモニュメントの隣には、金属製の小さな説明書がある。
この銘板は、2011年3月11日(平成23年)
東日本大震災により被災した旧高田病院に
設置されていたものです。
2月17日付の河北新報は、このモニュメントについて短く触れている。
敷地内に旧病院の銘板を設置して震災を後世に伝える。
同日付の河北新報には、おそらく別の記者によるこんな記事もある。元看護師が代表をつとめる盛岡市の団体が、県立高田病院の再出発に合わせて、スタッフを激励する胡蝶蘭を贈るための募金を行っているという内容だ。
代表の元看護師石川郁恵さん(39)=東京=は震災直後、制服もないまま救援活動を続ける高田病院の医師や看護師に白衣や防寒着を寄付した。その後も全国の看護師仲間らと仮設診療所の運営を支援してきた。 石川さんは「高田病院再建の道のりは、災害大国の日本にとって教訓になる。震災を忘れないという思いとスタッフを応援したいという気持ちを形にしたい」と話す。
モニュメントとして設置された旧高田病院の表札と胡蝶蘭に共通するのは、震災を伝えたいという思いだ。
あの日、岩手県立高田病院で何があったのかは、佐野眞一によるルポ『津波と原発』に詳しい。震災直後に被災地を駆け回った佐野は、偶然の助けもあって、『津波てんでんこ』の著者で旧知の間柄である山下文男と盛岡市内のホテルで再開する。山下は高田病院で被災した後、花巻市内の病院に入院していたが、このとき佐野が投宿していたすぐ近くのホテルに移っていた。
佐野眞一×山下文男
ホテルを訪れ部屋に入ると、山下はベッドに横たわったまま「やあ佐野さん、まさかこんなところであなたに会うなんて、思いもいなかったよ」と言った。
――私の方こそ、まさかこんなところで山下さんに会うとは思ってもいませんでした。今回は本当にひどい目に遭いましたね。
「九死に一生を得たとはこのことですよ」
――高田病院にも行ったんですが、メチャクチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。
「僕はあの病院の四階に入院していたんです」
『津波と原発』「日本共産党元文化部長・山下文男—」佐野眞一 2011.6.18講談社
かなり長い引用になるが、当日の様子がありありと理解できるルポなので、続ける。
――えっ、津波は四階まで来たんですか。
「いや、それは見ていません。僕はインド洋津波(スマトラ沖地震津波)のビデオの解説をしてますが、あれとそっくり同じ光景でした。大水やいろいろなものが流されて、人が巻き込まれるのは見ています」
――それを四階のの病室から見ていたんですね。
「そう、それを最後まで見届けようと思った。と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治二十九年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が」
――わが国津波研究の第一人者がね。
「それが一番の反省点だ。九死に一生を得たけれど、何も持ち出せなかった」
――預金通帳もですか?
「いや、預金通帳なんかを入れた貴重品箱をロックするカギはしっかり握っていたんだ。それだけは持って逃げられるようにして、窓から津波を見ていた。ところが、四階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。
ドドンーン、ドドーンという音が二発して、三発目に四階の窓から波しぶきがあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで見度届けようと思っていた僕もさらわれた。そのとき手に握っていたカギも流された。僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした」
――でも水はどんどん入ってくる。
「そう、水嵩は二メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた」
『津波と原発』佐野眞一 2011.6.18講談社
カメラとフルチン
この部分に続いて、佐野は驚くべき事実を聞き取っている。
山下が入っていた病室は四人部屋だった。
――山下さん以外の三人は助かったんですか。
「わからない。病院全体では十何人死んだと聞いている」
五十一人の入院患者中、十五人が死んだことは後で調べてわかった。
山下の病室には、たまたま巡回診療中の副院長がいた。山下はその副院長に「写真を撮れ!」と言った。さすが津波研究の鬼である。山下に命じられて病室から撮られた迫力あるそのカラー写真は、『岩手日報』の三月十九日付紙面を飾った。
津波が襲来する最中、医師に写真を撮るように命じるとは。入院中の山下の手にカメラはない。握りしめているのは貴重品ボックスのカギだけだ。それに対して巡回中の医師ならばカメラを持っているだろう。しかし、そんな危急のときに写真を撮らなければなど考えられるだろうか。津波に対する山下の執念を感じる。
『津波と原発』佐野眞一 2011.6.18講談社
佐野の取材はさらにリアルな現実を聞き出す。このルポの核心部と言っていいだろう。
山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真っ暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のヘリコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。
ヘリコプターは屋上ではなく、病院の裏の広場に降りた。ヘリから吊るしたバスケットに病人を数人ずつ乗せていたのでは時間がかかるし、年寄りには危険だと判断したためである。「三十六人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。
とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。舞踊員でフルチンにされrたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ」
山下はそう言うと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。
『津波と原発』佐野眞一 2011.6.18講談社
昭和の三陸地震津波にも遭遇した幼少の山下は、そのときもフルチンで逃げ延びたということを、佐野はこの後で紹介している。佐野自身は、共産党の大幹部であった山下が自衛隊を支持したことを繰り返し述べるのだが。
自衛隊の話しにしろ、フルチンの話しにしろ、大災害の前で人間が丸裸の一個の者としてむき出しにされることを教えてくれる。災害とは生死を分つ堺なのだという、頭ではわかっている当たり前のことのすさまじさを教えてくれる。先に紹介した河北の記事にあった元看護婦の女性たちが伝えたいと思っているのも、おそらく同じようなことなのではないか。
高田病院のエントランスを飾るオルゴール
県立高田病院の真新しい建物に入ってすぐのところに、とてもステキなオルゴールがある。レトロなディスク式オルゴールの復刻版らしい。何から何まで最新鋭といった感じの病院内で異彩を放っている。誰かが寄贈してくれたものなのかと思って案内に立つスタッフに聞いてみた。
「そうなんです」彼は目を輝かせながら、私をオルゴールのすぐそばに連れて行き、小さな銘板を指差した。
「寄贈と言えばそうなんですが、県内の県立病院のスタッフたちの助け合い的な寄付ということです。同じく被災して再建された山田と大槌の県立病院にも同じものがあると聞いています」
県立高田病院には、伝えたい思いが詰まっている。
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