津波てんでんこ(書評)

iRyota25

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津波が来たらてんでばらばらでもとにかく逃げろ。親も子もなくとにかく逃げろ。親が子を、子が親を心配して逃げるのが遅れたせいで、落とさずにすんだ命がどれほど失われたことか。いざという時にどう避難するか、家族も地域も普段から考えておくことが生死を分ける――。そんな想いが込められた「津波てんでんこ」。津波災害に警鐘を鳴らし続けた山下文男さんの労作だ。

著者の山下さんは1924年、三陸海岸の綾里村(現・大船渡市綾里)の出身。9歳の時に昭和三陸津波に出会い、家族や父子がてんでばらばらに津波から逃げることを身を持って経験した。実体験を持つ人物だからだろうか、本書に書かれた言葉、引用される碑文や当時の新聞記事には凄惨な津波の実情をリアルすぎるほどリアルに描いた言葉が多い。それはとりもなおさず、津波の恐ろしさを知ってもらい、減災について考えてもらうことを真に願い続けているからだろう。いくつかを引用。

100年前のリアル

歌津村(現南三陸町)―― 某家では祝言の最中で、今しも三々九度の盃を交わそうとしていたところを津波に襲われ、花婿一人が助かっただけで花嫁も家族も祝いの客たちも全滅。その婿殿も気がふれたのか、津波後はただ辺(あたり)を彷徨(さまよ)い歩くだけの物いわぬ人になってしまい、村人たちが同乗している。村全体で約八〇〇人が死亡したため、人手が足りなくて、一週間たっても死体が始末できず、まだ死体がごろごろしている。

小泉村(前同)―― 一人の少女が倒れた木の下に茫然とたたずんでいたので村の名前を聞いたところ、答える気配がないので再度尋ねた。するとようやく頭を上げて「なんちゅうたか忘れやんした」という。ためしにその名を聞くと、相変わらず「忘れやんした」と答えるばかりであった。「ああ、なんぞその哀れなるや。彼女はこの非常なる出来事のために、すべてを忘却したるか」。

山下文男「津波てんでんこ」2008年 新日本出版社 39ページ

(日本海中部地震津波)
海岸から二時間もかかる山村=北秋田郡合川町(現北秋田市)、合川南小学校の四年生と五年生の学童四五人が「美しい海を見せたい」との教師や父母たちのはからいによる遠足で、男鹿半島の加茂青砂海岸に到着したいのは、地震(午後0時0分18秒)の直後であった。
(中略)
先生や付添いの大人たちは、地震が気になるので相談して全員を車内に留まらせた。しばらく海の様子を見ていた。だが、海は青々と、綺麗で静かだった。

「ようし、出よう!」

リュックを背負った子どもたちは五mを超える防潮堤の階段を降りて、岩場もある海辺に腰をおろし、喜々として弁当をひろげはじめた。

あっと言う間のことであった。突如として水面が盛り上がるようにして海が迫って来た。これが津波だと考える間もなかったという。

「帰れ! 逃げろ!」

上で見ていた地元の人たちが叫んだ。然し、もう遅かった。避難階段はそこにないし、高くて飛び上がることも出来ない。子どもたちも先生たちも一瞬、波に叩きつけられてしまった。激浪の中にそのまま消えて行く子、防潮堤の上の人たちがロープを投げ、竿や板切れを出した。子どもたちのところまで届かないものもある。それにつかまる子、つかみそこねてそのまま沈んで行く子。全てが津波に特有の瞬間的な惨劇であった。地震の発生から約十分後のことであった。その頃、気象庁はまだ津波警報を出しておらず、テレビにもラジオにも警報が出ていなかった。間に合わなかったのである。

こうして、美しい海岸で楽しい一日をという思いやりある遠足が、一転して哀しい出来事と変わり、いたいけなこども達一三人の命が奪われた。

山下文男「津波てんでんこ」2008年 新日本出版社 176ページ~178ページ

津波の死者を通常「溺死者」と表現するが、日本海中部地震の際の津波による死者の直接の死因を調査したところ、溺死よりも、むしろ打撲などによるものの方が多かったという。
(中略)
物凄い勢いで上陸した津波は、あれよあれよという間もなく、片っ端から人や建物を薙ぎ倒して行く。こうして逃げ遅れた人間は、地面、建物、家具等々、あちこちに叩きつけられたうえ、次には波によって散々翻弄される。従って遺体の傷みは非常に激しく、見るも無残な状態に変化する。

岩手県大船渡市綾里地区に建立されている「明治三陸大津波伝承碑」は、それについて、つぎのように記録している。

「死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り、実に名状すべからず」

「頭足、所を異にするに至りては惨のもっとも惨たるものなり」

山下文男「津波てんでんこ」2008年 新日本出版社 18ページ

本書に描かれた津波は東北で発生したものばかりではない。
明治三陸大津波にはじまり、関東大震災津波、昭和三陸津波、東南海地震津波、南海地震津波、昭和のチリ津波、日本海中部地震津波、北海道南西沖地震津波と、明治以降発生した津波災害を取り上げ、紹介し、津波に対する備えの重要さを訴えている。

初版が2008年1月25日なので、東日本大震災の巨大津波についての記載はない。
しかし、東日本大震災では山下さん自身が被災した。山下さんは入院していた陸前高田市の県立高田病院の4階病室で津波に呑みこまれ、水が引くまでカーテンにしがみついて難を逃れたという。

津波からは生還した山下さんだったが、転院した盛岡の病院で2011年12月13日に逝去した。新聞の取材に「基本はてんでんこなんだが」「何もできなかった」など語った山下さんは最後まで津波の恐ろしさを伝え続ける使徒だった。

津波てんでんこは哀しい教え

「津波てんでんこ」という言葉を日本中に広めた山下さんは、本書の中で「津波てんでんこは哀しい教え」とも説いている。

その部分を引用して、本稿を終わろうと思う。

書評というより完全に本の宣伝になってしまった。でもそれでも本意だ。「津波てんでんこ」は日本中の人に読んでほしい一冊である。

誰一人として予想していなかった大津波の不意打ちによって集落は阿鼻叫喚、大混乱に陥ってしまった。だが、そうした混乱のなかでも、人間としての美しい本能がはたらき、親が子を助け、子が親を助けようとする。兄弟・姉妹が助け合おうとする。そのため、結局は共倒れになるケースが非常に多く、これも死者数を増幅させる結果になった。
(中略)

要するに、凄まじいスピードと破壊力の塊である津波から逃れて助かるためには、薄情なようではあっても、親でも子でも兄弟でも、人のことなどかまわずに、てんでんばらばらに、分、秒を争うようにして素早く、しかも急いで早く逃げなさい、これが一人でも多くの人が津波から身を守り、犠牲者を少なくする方法です、という哀しい教えが「津波てんでんこ」という言葉になった。突き詰めると、自分の命は自分で守れ! 共倒れの悲劇を防げ! ということであり、津波とは、それほど速いものだという教えでもある。

「津波てんでんこ」が「哀しい教え」であるというのは、それなら誰かの手助けが無ければ避難できない、即ち、今日でいうところの「災害弱者」の問題、体の不自由なお年寄りや障害者の方々の避難はどうするのかという、心情的に割り切れない人倫の問題が残るからである。一体、どうするのか。

山下文男「津波てんでんこ」2008年 新日本出版社 52ページ~53ページ

一体、どうするのか。

まず、災害弱者の避難と安全確保の問題は、その家庭まかせにしておくのではなく、地域や集落全体の問題として捉え、考えることである。そして自主防災などで手助けすべき方々のリストを予め作っておくだけでなく、誰が、誰の避難を、どのように手助けするのか? そのためにリヤカーや担架などの器材が必要だとすれば、それを何処に備えておくのかなど、日頃からきめ細かな相談と取り決めと準備をし、実際に訓練をしておくことである。

これえは「自分の命は自分で守る」という考え方を基本とした「自分たちの地域は自分たちで守る」という防災思想の実践であって矛盾することではない。

そうしないで、ただ漠然と「みんなで手助けしなければ……」という自意識だけに止まっていると、いざという時に、かえって混乱を招き、共倒れを殖やすことにさえなりかねないのである。

山下文男「津波てんでんこ」2008年 新日本出版社 53ページ

「津波てんでんこ」を継承し、さらに現実に即した教えを見いだし、次の世代に手渡ししていくこと――。それが亡き山下さんに代わって、私たちにゆだねられている。

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文●井上良太

最終更新:

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