繰り返されてはならないことが繰り返された。
東日本大震災の折り、陸前高田の病院に入院していた山下文男さんは、押し寄せる津波の中をスタッフらに抱え上げられるようにして、上階に逃れ命を落とさずにすんだ。しかし、「津波てんでんこ」の著者であり、津波の惨状を訴え続けて来た彼は震災の年の12月、ついに帰らぬ人となった。
彼の代表作である「津波てんでんこ」の記述の中で、とくに明治三陸地震の津波についての記述は特別な意味を持っている。繰り返されてはならないことが繰り返されてしまったといういう証言として。彼の著書から引用します。
いずれも現地取材によるものであるが、当時の新聞、雑誌の記事などによって、その悲惨な情景と奇話、哀話など、被災直後における村々の様子をつづって見る。
天地号泣の声に満ちて
宮城県、十五浜村(現石巻市)――雄勝には、当時、集治監と読んだ刑務所の出張所があって、195人の囚人が34人の看守の下に収監されていた。
宿直の看守が鳴動を聞くと同時に、一人が津波だ! と叫んだと思うと、すでに激浪が板塀を押し倒して監房にまで浸入してきたので、囚人たちはみな角格子によじ登って助けを求めた。そこで看守は敷石をもって監房の扉を破り、水の勢いが幾らか緩慢になったところで囚人全員を解放した。しかし生き残ったのはわずか31人だけで、3人が災害にまぎれて逃れようとしたが、これは翌日すぐ逮捕された。だが、解放されて逃げる途中、波に浚われて気息奄々としている娘を救助した者など、人命救助に活躍した者がおり「囚人また義気あり」と賞賛された。なお、看守も8名が死亡行方不明になった。
歌津村(現南三陸町)――某家では祝言の最中で、今しも三三九度の杯をかわそうとしていたところを激浪に襲われ、花婿一人が助かっただけで、花嫁も家族も祝いの客たちも全滅。その婿殿も気がふれたのか、津波後はただ辺りを彷徨い歩くだけの物いわぬ人になってしまい、村人たちが同情している。村全体で約800人が死亡したため、人出が足りなくて、1週間経っても死体が始末できず、まだ死体がごろごろしている。
小泉町(前同)――一人の少女が倒れた木の下に茫然とたたずんでいたので村の名前を聞いたところ、応える気配がないので再度尋ねた。するとようやく頭を上げて「なんちゅうか忘れやんした」という。ためにしにその名を聞くと、相変わらず「忘れやんした」と答えるばかりであった。「ああ、なんぞ哀れなるや。彼女はこの非常なる出来事のために、すべてを忘却したるか」。
「津波てんでんこ」山下文男 | 新日本出版社2008年1月25日
続けます。
階上村(現南三陸町*注:正しくは気仙沼市)――死体を捜索する人たちは、まず、この辺かと目標をさだめ、五、六寸も積み重なっている茅などを鎌の先でかき除き、更にその下にある板、柱、畳を除き、それでも見つからぬときには、死体の臭いがする方向を目当てに、つぎつぎと掘り進むようにして発掘している。
発見すると戸板の上に載せ、水際まで運んでから、水をそそぎ、顔を拭くなどして身元を確認しようとするのだが、面相が膨れ上がり、変わっているので容易な作業ではない。村の老若男女を集めて骨相、服装などから、とにもかくにも判断をくだし、粗末な棺2収めて、また次の発掘にかかるという手順である。
三百余の死体が、今なお見つかっていないが、折り重なっている破壊家屋の中にあるものと思われている。人々は今その上を踏みつけて歩いているわけで「昔、紅顔の美少年、妙齢の佳人、仁慈の老人、勤勉なる壮丁、今、いずくにやある」の感である。
他所から来た人たちも、みな茫然として「たまげてしまった」といっている。遭難の翌日には田の中に逆さまになって刺さっていた死体もあったと聞く。
「津波てんでんこ」山下文男 | 新日本出版社2008年1月25日
地震の様子を描いた錦絵に描かれていた湯船ごと流された女性の話が、ここに登場します。やはり実際の話を元に描かれていたのですね。
唐桑村(現気仙沼市)――19歳になる某女は、ちょうど入浴中に津波が押し寄せて、たちまち風呂桶のまま流されたが、多少、負傷しただけで辛くも一命をとりとめた。然し、我が家は潰されてしまったので、2歳になる乳飲み子は、きっと死んだものと諦め、翌日、死体を掘り出すために、泣きながら屋根を破り、突きぬけて探したところ、何と、幸運にもみどり児は生存していたという。
米崎町(現陸前高田市)――津波の3日後に田の中に積み重なっている藻草をかきわけたところ、1人の幼児が、14〜15歳の少女に抱かれて眠っていた。少女はすでに死んでいたが、幼児はかすかに呼吸をしており、助け出された。
広田村(同)――21日、海中の死体を揚げるために地引き網を下ろして引いたが、50人余も一度に入ってきたので、重くて二回に分けて引き上げた。
赤崎村(現大船渡市)――少集落だが合足(あったり)の被害が甚だしい。18
mもの大津波によって荒いつくされ、15人家族のうち、4歳の男の子1人だけたすかったのいうのもある。
綾里村(現大船渡市)――気仙郡中、被害の最も甚大なのは、唐丹村(現釜石市)を第一とし、綾里はこれにつぐ被害である。
村長を除いて助役、収入役から小使に至るまで、役場吏員をことごとく死亡、7日前に赴任したばかりの巡査も妻子ともども一家全滅した。
綾里湾から駆け上がった津波が南側の問う有家を超えて流れ込み、反対方向の港方面から駆け上がって来た津波と合流したとのことである。2000余の人口のうち、1300人が溺死した。
唐丹村(現釜石市)――本郷は、総戸数159戸が流亡。生存している者を数えると、当夜、沖合に出て漁をしていた者、節句で近村に出掛けていた者のみといわれている。
鈴木琢治という医師の家が病院に充てられ、同医師は全損の負傷者を献身的に治療している。
「津波てんでんこ」山下文男 | 新日本出版社2008年1月25日
いずれの土地も被害は大変なものでしたが、ことさらに釜石の惨状は筆舌に尽くせないものだったようです。
釜石町(現釜石市)――海抜1.5mの低地に密集する町並みを、7.5mの津波によって一挙に浚われ、全町1105戸のうち、837戸が流出全半壊し、6986人中3765人が溺死した釜石町には哀話や奇談が数多い。
中でも話題なのが小軽米家の惨劇と石応寺の門前に集められた溺死体の酸鼻である。
県会議員の小軽米汪氏宅は一昨年、新築したばかりの町第一の豪邸で、当夜、警察署長の山口警部や町長の服部氏を招き、警察署の移転問題について相談の後、節句の祝いの宴会に入って、一献かたむけていた。その最中、沖の方で雷でも鳴ったかのような大きな音がしたかと思うと、叫び声がするなど町中が騒然としだした。服部町長は、これは火事でも起きたのかと、背後の高台に上がって火元を確かめるべく、真先に表に飛び出した。そのため、服部町長は幸いにも難を逃れたが、山口署長は、急いで家の前に出るや、いきなり激浪に薙ぎ倒されて重傷を負ってしまった。
小軽米氏やその家族は逃げ出す間もなく全滅し、いずれも無惨な死をとげた。津波の三日後、小軽米婦人のイツ子さん(40)の亡骸が発見された。親戚の子どもを抱いたままだったが、首に角材の先が4寸余もめり込んで、目を背けたくなるような姿だったという。小軽米氏の方は、半月ほどしてから遺体が揚がった。日にちがたっていうたこともあって見る影もなく、はじめは誰の亡骸かもわからなかったが、左手に付けていた指輪で小軽米氏と分かった。
古老の話によると、40年前の安政年間の津波のとき、小軽米氏宅は流出せずに無事だった。そのため今回も、あそこなら大丈夫だろうと、5、60人の男女が逃げてき来て、何れも不帰の人となった。
盛岡市四谷にある教会のフランス人神父アンリ・リスパール氏は、2人の伝道師を伴って三陸沿岸の町村を巡回中だったが、不運にも釜石で遭難した。
この日、大槌から釜石に入ったリスパール神父は、仲町の勝とう旅館に投宿、訪れた釜石の信者たちと歓談中であった。
突如、津波だ! という声がしたので、みんな裸足で飛び出したが、リスパール神父だけは玄関の所で靴を履こうとしたらしくて二間ほど後れてしまった。そのため2人の伝道師と信者たちは辛うじて山に逃げ、九死に一生を得たが、気づいた時にはリスパール神父の姿はどこにもなかったという。
石応寺は北方の小高い場所にあるため津波の難を免れたので、発見した死体はことごとくこの寺の門前に運搬され、伏屍累々としている。
いずれも、水膨れがして色が変わり、肉が裂けて皮膚は爛れ、あるいは腕の折れたるあり、あるいは骨の砕けたるあり、あるいは首のない小児の遺骸ありで、ひとつとして創痍を負わざるはなく、思わず念仏を唱えずにはおれない状況である。
寺の前にある田んぼに打ち上げられた船を取り除くと、数十の遺体が折り重なって見つかった。なかでも、逆さまに腰までが泥に埋まり、両足だけが突き立っているのや、泥が目や耳や口、鼻など、至る所に入り込んでいる死体など、あまりの酷さに、誰もが息を呑む凄まじい情景である。
「同寺の門前には、此処彼処より集め来る死骸を並べて遺族に引き取るように勧めているが、18日に夫婦とおぼしき翁媼来たり。それがのべ置きたる婦人の死体の側に寄りて、「おっ、お前は此処にいたのか」と死体を抱き起こし、経帷子の代わりにとて白木綿を着せつつ、泣きながら生きている人にでもものいうが如く、これを持って行けよ、この帯をしめて行けなどと語りては時々その名を呼び、念仏を唱えけるが、語々切々、心情より出でざるはなく、他の遺族の人々も我が身につまされて貰い泣きをなしいたり」。
「津波てんでんこ」山下文男 | 新日本出版社2008年1月25日
記述はさらに続きます。
しかし、書き写す手を止めて、別の話をしたいと思うのです。
最後まで見つからなかった従業員の一人は、瓦礫を取り除いていった先に、電柱の側に逆さまに埋まって、足だけが突っ立っているような状態で見つかった。
ご近所のとっても美人の奥さんは、うちの側溝の脇に半分焼けた状態でいらしたのね。そうとも知らずに私たち、何カ月も彼女を踏みつけて過ごしていたのよ。
ゴルフの打ちっぱなしのネットにね、ほんとにもう網で魚を捕ってるのと同じように亡くなった人たちが掛かっていたんだよね。
東日本大震災の後、聞いた話です。明治の三陸地震の記事に登場するのと同じような話は、もちろんたくさんありました。明治の三陸地震の話を見ていると、まるで誇張し過ぎているかのように感じられる話もあるかもしれませんが、それと同じことが東日本大震災で繰り返されているのです。
東日本大震災の後、耳にしたものの、あまりにも凄惨すぎて、言葉にできなかったようなことも、おそらく明治の時に同じように起きていたのだと思います。
だけど、私たちは、ほぼ100年の時間の後に、同じことを繰り返してしまった。
6月15日の夜、非道の津波が三陸の人々を襲いました。その記憶は、決して遠い過去のものとして、忘れ去られるに任せてよいものではなかったのです。
風化。その言葉はなんだかキレイゴトのように響きます。私たちは119年前に、津波被害の凄惨な現実の前に立っていた。そして4年前に、同じことを繰り返してしまった。忘れてはならない。繰り返してはならない。6月15日という日の意味を私たちはいつも自分のものにしていかなければならないのだと、思います。
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