今回は前回に続き、2回目の東北への復興支援ツアー。
私の住む静岡県では、地震はいつ来てもおかしくないと言われています。自宅は内陸にあり地震による津波は到達しないと予想される地域です。ただし沿岸部に家族で遊びに出かけることもあるので、津波対策は必要です。
東日本大震災では福島第一原発の事故により、多くの方が現在も故郷に帰省できない状況が続いています。我が家は原発20km圏内にあります。安全だと思っていた原発で実際に事故が起こった以上、事故が起こることを前提に対策を考えなければなりません。
今回も家族でのツアーです。東日本大震災では小さなお子様もたくさん犠牲となりました。地震や津波、原発事故から大切な家族を守るためにも、自分だけでなく家族全員で被災地を訪れ震災の脅威について体感したいと考えました。
4人の語り部さんの貴重なお話を中心に、東北で学んだことをお伝えしたいと思います。
日程
2017年11月23日(木)~2017年11月26日(日)
参加メンバー
自分:宇宙大好き。妄想癖あります。
妻 :花と猫が大好物。
息子:きのこ大好き幼稚園児。自称きのこ名人。
娘 :アンパンマン大好き。新幹線とキラキラも大好き。
1日目(11月23日)
初日は「福島第一原発20km圏内ツアー」です。放射線の影響から18歳未満はツアーに参加できないため、家族とはしばしのお別れ。1人、JR常磐線で相馬を目指します。
東日本大震災でJR常磐線は津波による大きな被害を受けました。常磐線は福島第一原発事故による帰還困難区域を通っているため、現在も原発に近い浪江町から富岡町まで運航休止となっています。全線開通は2020年になる見通しだそうです。
駅から出ると福島原発20km圏内ツアーのガイドをしてくださるNPO法人野馬土の語り部さんが車で迎えてくれました。ツアーは他の参加者と相乗りになる場合があるようですが、この時間帯では私しか参加者がおらずじっくりお話を聴くことができました。
今回のツアーでは相馬市から南下し、南相馬市、浪江町を通過し、双葉町・大熊町にある福島第一原発を目指します。
語り部さんから、まず福島第一原発の事故の原因について教えていただきました。
東日本大震災による津波の浸水範囲を地図で見ると、原発周辺は原発の敷地部分のみが浸水しているようです。原発のある場所はもともと海抜30mの高台だったそうです。ところが海水を冷やすために30m汲み上げるのにコストがかかるため、岩盤を20m削って海抜10mの高さに原発を建設したそうです。
そこを15mの津波が襲ったため岩盤を削った部分のみが浸水したとのことです。この地域では400年前、200年前にも15mの津波を観測した記録が残っており、震災前から指摘されてきたのに結局対策がなされず今回の事故に繋がったようです。
40年前に福島第二原発を建設する際も、過去の歴史から学ばず津波対策をしない原発を作らないよう国と東電に建設差し止めの裁判が行われたそうです。結局は対策されないまま建設されてしまったとのことです。
国と東電は15mの津波は予見できなかったと責任逃れをしているようですが、現在全国各地3ヶ所で行われている裁判のうち2ヶ所で、津波は予見できたという判決が下され国と東電は言い逃れが出来なくなってきているようです。
相馬市の磯部地区では震災前800件ほどの住宅があったそうですが、津波によりすべて流されてしまい多くの方が亡くなったそうです。浸水地域には家を建てられないため、住宅があった場所にソーラーパネルが設置されることになりました。
津波の到達まで逃げる時間はありましたが、ここまで津波が来るわけがないと考えた人が大勢おり、せっかく高台にいた人も地震で家のことが心配になり戻って津波に流され犠牲になったようです。
またこの地域にある高台の小学校では、地震が来たため帰宅させた児童が津波で犠牲になってしまい、校長が責任を感じて命を絶ってしまったという悲しい出来事があったそうです。
相馬市の出身でもある語り部さんは、ここを通る度にソーラーパネルが津波で流されてしまった人の墓標に見えるとおっしゃっていました。
「奇跡の一本松」と言えば陸前高田が有名ですが、実は南相馬にも「奇跡の一本松」が残っているということで案内してもらいました。
鹿島の一本松は、原発事故の影響でしばらく人が立ち入ることができない場所に残っていたため、有名になることはなかったようです。残念ながらこの松の木は、復興工事のため切り倒されることが決まってしまったそうです。
ところで福島県の太平洋沿岸地域で発電所がないのは浪江町だけです。この発電所は自分たちのための電力でなく、東京に送るための電力を発電しています。仕事のない地域に発電所を建設し仕事を持ってきたということで、大方の人が建設に賛成ということになってしまったということです。
南相馬市を車で南下していると原発20km圏内に入ったあたりから、黒い袋が山積みになっている場所を何ヶ所も通過しました。フレコンバッグといって1つの黒い袋に1トンの除染廃棄物が入っているそうです。
原発20km圏内に位置する尾高区は昨年の7月に避難指示が解除されたそうです。それから1年経った今、尾高区の人口は震災前の13,000人から3,000人へと激減してしまったとのことです。
語り部さんは、鶏が先か卵が先かと同じで、人がいない場所には街づくりができず、戻りたくても街がないため戻れないことが原因とおっしゃっていました。
また5年も6年も離れた場所で暮らしていると、そこに新たな生活や人間関係が出来上がってしまい、それを捨ててまで戻っても不便な生活が強いられる二重の苦しみを味わいたくないことも人が戻って来ない原因なのでは、ともおっしゃっていました。
浪江町に入ったタイミングで語り部さんから線量計を渡されました。
日本の年間自然放射線レベルの平均値は2.1ミリシーベルトです。毎時に換算すると毎時0.24マイクロシーベルトです。上記の線量計の値は日本のほぼ平均的な線量です。
線量計を渡され訪れた先は「希望の牧場」という場所でした。吉沢さんという方が殺処分から守るため被ばく牛330頭を飼育している牧場です。場所は南相馬と浪江町の堺で放射線量の特に強い場所です。
吉沢さんは、原発事故による避難指示で2ヶ月の間に200頭の牛を餓死で失ったそうです。その後、放射能で汚染された牛を集め商品価値の亡くなった牛をこれ以上増やさないよう去勢して、牧場に残って牛飼いを続けています。牛も吉沢さん本人も被ばくしているとのことです。
牛の飼料代は年間1000万円かかっているそうです。
被ばく牛の中から白い斑点が出た牛が現れました。吉沢さんは国に原因を調べるように訴えましたが、国は一度調べて原因不明とし、その後は薬処分しろと指示して帰ってしまったそうです。吉沢さんは放射線被ばくの因果関係があるものと確信し、原因がはっきりするまで戦おうと決意したそうです。
希望の牧場を後に浪江町を南下します。
浪江町は今年の3月に避難指示が解除されているにもかかわらず、除染作業がいたる場所で行われていました。
次に訪れた場所は、とある民家。この民家の住人は何も知らされないまま避難を指示されました。すぐ帰宅できると思っていたそうですが、結局その後6年以上戻って来ることができませんでした。
浪江町では、住宅の敷地、道路などは除染がされており、線量はやや低くなっていますが、そこから少し外れると除染がされておらず急激に線量が上がります。まだとても人が住める場所ではないように感じました。
実際に浪江町の人口は震災前の21,434人に対して、平成29年11月末現在は440人と帰還率2%となっています。車で町を走っていても外を歩いている人をまったく目にすることがなく、ゴーストタウンのような状態で異様さを感じました。
昼食後また車で移動開始です。
こちらの仮焼却場では除染廃棄物が無くなるまで焼却し続け、その灰を中間貯蔵施設に持っていく予定だそうです。除染廃棄物を焼却した際に煙と一緒に放射性物質が飛散しないのかという疑問を持ちました。
政府は煙突にバグフィルターというフィルターをつけており、放射性物質は飛散していないと言っているそうです。しかし一部の専門家はバグフィルターでは飛散を防げないと指摘しているそうです。語り部さんは、どちらの言い分が正しいのかは分からないとおっしゃっていました。
その後、浪江町沿岸部の津波被害の状況を説明していただいた後、福島第一原発のある双葉町・大熊町に入っていきます。
帰還困難区域とは年間50ミリシーベルト以上の場所です。毎時に換算すると5.7マイクロシーベルトです。ここは歩行や自転車での通行が規制されており、警備も厳重に行われています。
上の写真のように福島第一原発周辺の線量は、日本の年間自然放射線レベルの平均値の20倍以上の場所もありました。車に乗っているだけで30%程度線量が遮断されるようなので、外の線量は更に高いことになります。この地域では線量が高すぎて2020年に開通を目指している常磐線と一部の道路を除いて除染は行われていないとのことです。
ただ除染廃棄物を中間貯蔵施設に運ぶ必要があるために道路は通行できる状態になっているようです。原発と国道の間の16平方kmを中間貯蔵施設とし、仮置き場にあった汚染物を焼却し30年間埋めるようです。その後、最終処分場で汚染物の処理がなされるとのことです。
語り部さんはこの区域に留まるだけでも被ばく量が高くなってしまうため、止まらず通過するだけにしているとおっしゃっていました。
放射線は目に見えず五感では被爆を認識できないため、私も福島第一原発20km圏内では精神的ストレスを感じました。
福島第一原発20km圏内ツアーの最後に語り部さんがこのようにおっしゃっいました。
・「放射線は等心円に広がるものではなく、放射性プルームという放射能の雲が風に乗って飛散する。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)という機械を作動させ、安全な場所へ避難させることが重要である。」
実際に福島第一原発が1.5km先に見える上の写真を撮った場所では、線量計は車内で毎時0.528マイクロシーベルトでした。
・「避難指示が解除された地域でも、除染が進んでいない地域や人がまったく戻って来れない地域がほとんど。そのような地域は、もう人が戻って普通に生活していると思われがちだが、再建まではほど遠い。」
最後に語り部さんに、福島を応援するのにどんなことを一番望んでいますか、と質問しました。語り部さんは「やはり来てもらうことが一番。来てもらえれば色々感じてもらえるから」とおっしゃっていました。
語り部さんと別れ、初日に宿泊する仙台まで常磐線で戻ります。
2日目(11月24日)
翌日の朝は8時にレンタカーを借りて出発です。
2日目はまず東日本大震災で唯一の震度7を記録した栗原市に向かいます。
途中、吹雪いたり、気温が0度となり無事目的地にたどり着けるか不安になりましたが、何とか無事に目的地の花音(かのん)さんに着きました。
こちらのお店では妻がギャザリングという寄せ植えを通じて知り合った経営者のOさんが出迎えてくれました。
こちらのお店に来た目的の1つは、震災時の様子を聴くこと。自分が住む場所は、東海地震で震度7の予測となっている地域です。地震から命を守るため、震災当時のお話を伺いました。
まずはじめに驚いたのは、当時人口75,000人の栗原市において、震災による死者は1人も出なかったということです。
栗原市では東日本大震災前にも、何度も大きな地震が起こっており、東日本大震災は過去何度も起こっている地震の1つというように特別視されてはいないようでした。悪く言えば地震に慣れてしまっているとのことです。
地震というと、平成20年に発生した岩手・宮城内陸地震のことを思い出す人が多いようです。この時、栗原市は最大震度6強を観測しており、栗駒山麓で巨大な地滑りが発生しました。死者、行方不明者は23名。
上記の地滑り跡は、ジオパークとなっています。今回は残念ながら時間の都合でジオパークに行くことはできませんでした。ジオパークでは職員さんがおり、内陸地震の詳しい話を聴くことができるそうです。
また東日本大震災に関しては、震災遺構、資料館、写真館などはなく、道路や建物は100%復旧しているとのことです。
内陸地震の後、栗原市では自主防災組織100%を達成しています。行政の指示や支援活動を待たずに自治会レベルで人命救出や避難所運営ができるよう、自助・共助として自主防災組織の整備が行われたそうです。地すべり対策を県とも協議しすぐに対策を実行できたことが東日本大震災での死者0人に繋がったのではないか、とのことです。
2つ目の目的です。お花屋さん、寄せ植え教室とカフェを経営されているこちらのお店には、お花好きなお客様がたくさん訪れます。アイリンブループロジェクトさんの活動をお話し、あいりちゃんのお花を広める活動に協力して欲しいとお願いしたところ、快く引き受けてくださいました。
お昼ご飯をいただいた後は、また車で1時間ほど走って大川小学校に向かいます。
大川小学校は前回のツアーでも訪れた場所で、今回も命の意味を考えるために訪れることに決めました。今回は、より当時の状況・現在の状況を知るために、現地のガイドをお願いしました。
大川小学校に到着すると、外は深々と冷え込んでおり、ここだけは時が止まったままのように感じました。
すぐにガイドさんと合流し早速お話を聴きました。
上記の写真を見ると分かるように、右奥に見える3.8km離れた山の向こうの海から津波が押し寄せました。また内陸へは津波は川を50km遡上しています。結果、大川小学校周辺は、集落はすべて跡形もなく流され、小学校と病院の跡だけが残ったようです。この地域は人が住むことができないため、病院は取り壊されたようです。
津波により海側にあった10万本の松林が流され、大川小学校のすぐ先にある新北上大橋にぶつかりダム化して津波が内陸方面から螺旋を描くように大川小学校を襲ったそうです。津波の高さは9.6mあったそうです。
小学校の天井の波状構、体育館と校舎の渡り廊下の倒れた方向から津波が海と逆側から押し寄せたことが分かります。また津波に流された体育館の屋根は300m海側で見つかっているようです。
上記のAとBへは小学校1年、2年生でも簡単に登れる傾斜がなだらかな山です。遺族は児童が移動し始めてから津波が到達するまでの時間があれば、裏山に逃げて助かることができたはずだと主張しています。実際に津波を見た1人の児童が振り返り山へ駆けのぼり助かったそうです。
その時助かった児童の証言と唯一助かった先生との証言の食い違いがたくさんあるようです。その先生は1人で山へ逃げてしまっており、まったく水に濡れてもいなかったようです。
第一回目の市の説明会で1度だけ先生が来たそうですが、明らかに市から渡された原稿を読んでいる様子だったそうです。裏山に倒木はまったくなかったにもかかわらず、倒木があって裏山には避難できなかったなど、支離滅裂なことを言っていたようです。
後から全部嘘だったことが明らかになり、裁判になったようです。遺族はなぜ50分もの間校庭で待機していたのか、先生から裁判で話を聞くことを要望していたそうです。しかし市は先生を精神病ということにして裁判に出てこさせないようです。
また当時、広域通学バスが学校前でずっと待機していたそうです。このバスに乗って避難すれば全員助かったのではないかと言われているそうです。結局バスは出発することなく津波に飲まれ、運転手はバスの中で亡くなっていたようです。
野外ステージからすぐの場所に児童がよく登っていた裏山があります。
上の写真の山の斜面を見ると、山の獣道が盛り上がっているのが分かります。普通は人が歩く道は下の写真のように掘れて道が下がります。なぜ道が盛り上がっているのか、遺族の話では市が山の斜面を登りにくく見せるために盛り土をして隠ぺい工作を謀ったからであるとのことです。
遺族は何度もこの場所に訪れているため、明らかな異変にすぐ気づいたようです。
大川小学校は震災遺構として残されることが決定されています。昨年、公園として整備されることが決定したようです。当初、遺族も校舎の保存は反対される方が多かったそうですが、残したい人が少し上回り保存が決定したとのことです。
最後にガイドさんが、静岡や愛知にも講演に行くことがあるが、静岡や愛知では地震避難の後、津波避難をしっかり訓練していることに防災意識の高さを感じ驚かされるとおっしゃっていました。
ガイドさんは東松島出身で、自宅を津波で流されてしまったようです。自分は地震避難の訓練しかしたことがなかったとおっしゃっていました。
学校の管理下にありながら前代未聞の犠牲者数を出してしまった大川小学校には、学校教育従事者は必ず一度は訪れるべき場所だと思います。このような悲惨な事故は二度と起こしてはならないと改めて強く認識しました。
ここで大川小学校のガイドさんとお別れし、2日目に宿泊する南三陸町のホテル観洋に向かいました。
ホテルでチェックインしてすぐにお風呂に向かいます。かりん大好きな息子が途中ロビーで樹齢1000年のかりんの木のテーブルを見つけて大興奮していました。
3日目(11月25日)
ホテル観洋より1
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朝早くからウミネコ?がご挨拶に来てくれました♪
ホテル観洋より 2
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雲の隙間から、かすかに日の出を見ることができました。観洋から今日訪れる予定の「荒島」が大きく見えました。息子は「あれはだっしゅうじま(DASH島のことらしい)だ!」と言っていました(笑)
朝食を食べた後は、語り部バスで出発です。
語り部バスは南三陸町の戸倉地区、志津川地区を回ります。
まず最初にバスが向かったところは高台の戸倉中学校があった場所。南三陸町は1960年にチリ地震で津波に襲われ41名の犠牲者を出しました。戸倉中学校は津波対策として高台に建てられた避難場所でした。
しかし東日本大震災では、22.6mある戸倉中学校の校舎の1階まで津波が押し寄せました。震災当時は雪が降っておりとても寒い日だったそうです。体育館に車が乗ってしまうほどの津波でした。高台のすぐ下には140件以上住宅がありました。
校舎の壁には震災の時刻で時間が止まったままの時計が残されています。校舎は立派ですが、学校としては再開はされませんでした。なぜなら通う生徒がいなくなってしまったからです。
震災が何をもたらしたか。
それは過疎化と高齢化です。震災が起きたことで信じられないほどの人が出て行ったそうです。それは生きていくために出ていかざるを得ないからです。故郷に戻りたくても戻れない、震災は人口流出を生み出しました。南三陸町は震災前の人口17,666人が現在13,000人ちょっと、犠牲者の832名以上減少しています。
震災はもうひとつ格差を生みました。もともと日本は資本主義社会で格差はありましたが、震災は格差を生むだけでなく、格差を広げたそうです。復興は早い人には早く届き、取り残される人はとことん取り残される。復興は不幸であると語り部さんはおっしゃいました。
ホームレスという言葉をテレビなどで耳にしても他人ごとのようにしか思えません。語り部さんも、まさか自分がホームレスになるなんて、震災のその日まで思いもよらなかったそうです。震災で助かったけれど、自宅も何もかも綺麗さっぱり無くなってしまったとのことです。
こうなるとは誰も思わないことですが、誰もに起こりうることだと思うと語り部さんはおっしゃっていました。災害は形を変えて、場所を変えて、規模を変えて起きます。そして繰り返されます。しかしゼロにはできなくても減らすことはできるのではないかともおっしゃっていました。
そして次に向かった先は戸倉小学校です。
戸倉小学校は津波で完全に水没したため解体されました。新しい体育館が3月1日に完成した直後のことでした。子供たちは新しい体育館での卒業式を楽しみにしていましたが、1度も卒業式が行われることなく体育館は解体されてしまいました。
今では言葉にしないと、ここに学校があったことは分かりません。間違いなくこのように風化は止められません。でも、もっと恐いのは、初めから無かったことにされることだと語り部さんはおっしゃっていました。悲しい出来事を言葉にするのは辛いけれど、人々の記憶から消えてしまわないよう語り部バスは走り続けています。
戸倉小学校は先生方の判断で、屋上でなく高台に避難しています。この学校では震災前に屋上に避難するか高台に避難するか話し合いがなされていたそうです。校長は3分で津波が到達するという予測から避難時間が短い屋上に避難すべきと言っていたそうです。最終的な判断は校長がすることになっていました。
ところが震災直前に大きな地震があり、1人の先生が、やはり高台に逃げるべきだと校長を問いただしたようです。校長の心も少しは動いたのかもしれません。実は当日は校長が高台に逃げると判断しているそうです。しかもマニュアルでなく現場で1秒でも早く高台に逃げるられるように判断して全員が助かったとのことです。
大川小学校ではマニュアルは分かりやすいという理由だけで山に囲まれた山梨県のマニュアルを参考に作られたようです。そして50分も校庭に児童を待機させています。戸倉小学校の話と比べると、あまりに対応が違いすぎると感じます。
次にバスが訪れたのが高野会館です。
高野会館はこの町の結婚式場でした。この建物は天井の鉄骨はすべて落ち破壊されたままの状態で保存されています。
この建物では震災当日、327人が屋上で助かりました。この日は芸能パーティーで高齢者がたくさんいらっしゃったようです。震災時、従業員の1人が引き波を見たそうです。この従業員はチリ沖地震の津波体験者でした。この後大きな津波がすぐ来ると判断し、高台への移動は不可能と判断し屋上に避難させ全員の命が助かったそうです。
この建物が保存されている理由はホテル観洋の所有物だからだそうです。人の命は人が救うものだと、この先ずっと伝えていきたいから残しているのだそうです。
最後に訪れた場所は防災対策庁舎です。
お互い流されないように支えあって最後の最後まで諦めていなかった人たちがいます。ここには来てほしくないという方がたくさんいらっしゃるようです。しかしガイドさんは、ここは来ていただくと一番大事なことが感じられる場所だと思っている、とおっしゃっていました。命の大切さ、尊さが分かる場所です。
防災対策庁舎では津波に飲まれる最後の最後まで防災無線で避難を呼びかけた方がいます。そのおかげで高台に避難できて助かった方もたくさんいます。しかし人の気持ちは恐いもので、防災無線があれだけ続いても「大丈夫だ」と避難しなかった人もいるし、高台から戻ってしまった人もいるようです。
語り部さんは、献花台に手を合わせたとき人の手は暖かいことが分かったと思います、とおっしゃいました。でも死んだ人の手は冷たかった。そこで気づいても遅かった。そうなる前に気づくべきだった。当たり前すぎて気づけなかった。語り部さんの言葉がとても印象に残っています。
自分の命が守れなければ愛する人も守れません。自分の命を大切にしてください。
語り部バスが終わり、すぐに次の目的地である南三陸ポータルセンターに向かいます。
震災写真展を見学し元福祉の里まで歩き、高台から町を俯瞰するというルートです。
今回語り部をしてくださる方は、父と義理の兄を津波で失ったご遺族でした。震災の悲しい出来事を知ってもらい、命の大切さを分かってもらえればと語り部をされているとのことでした。
まずは震災写真展を見学しました。以下は南三陸町を襲った津波の時系列写真です。
一瞬で街が津波に飲み込まれた様子が分かります。
震災写真展を後に元福祉の里まで高台へ向けて歩きます。
高台を目指す途中、南三陸町の沿岸部の防潮堤について説明してくださいました。現在作っている防潮堤は海抜10m、東日本大震災では津波が陸に入ってくる段階で13m~14mだったそうです。そのため、同じ規模の津波が来たら、津波の侵入は防げないようです。そのため防潮堤を作っても無駄ではないのかという意見も出ているとのことです。
ここには、お年寄りの施設がありました。寝たきりのお年寄りがたくさんおり、社会福祉関係の事務所もたくさんあったそうです。
この街は昔から何度も津波の被害にあってきたようです。その都度、津波を伝える碑がいたるところに建てられました。
上の写真はチリ沖地震が発生し、南三陸町を5~6mの津波を襲ったときに、作られたものです。
写真では分かりづらいですが、街の中を線路が通っており高さがあるため、防潮堤を超えて津波が来ても線路を超えてくることはないと、みんなが考えていたそうです。
語り部さんから、南三陸町の津波の映像でこの場所から撮影されたものがあるので、ぜひそれを見てもらいたいと言われました。津波の映像は、線路を超えてあっという間に高台まで押し寄せ人を飲み込んでしまったということです。
南三陸町志津川高校から見た津波の様子 Tsunami attacking in Minami-Sanriku
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語り部さんから教えていただいた映像(5:28)
線路を超えた津波は、先ほどの高台にある福祉の里の1階部分を襲いました。当時寝たきりのお年寄りが多く、職員も少なかったため、60数名がここで犠牲になったそうです。
津波が押し寄せた当時、福祉の里から更に高台にあった志津川高校で部活をしていた生徒が何人か降りてきてお年寄りを助けようとしたそうですが、間に合わなかったそうです。
ここからは再び南三陸ポータルセンターに戻ります。
その間、震災後のお話を聴くことができました。語り部さんのお話では電気の復旧は5月まで2ヶ月かかったとのことです。水道はさらに後だったそうです。ただ、この地域では山間部に井戸をもったお宅がたくさんあったので助かったそうです。
寒さ対策に電気を使わないストーブ(石油ストーブ)を持っていた方がいいと教えてくれました(お湯も沸かせます)。
語り部さんの解説によれば、南三陸町とイースター島にはいろいろな類似点があるようです。
・面積がほとんど同じ
・一番高い山の高さが500mで一緒
・海の町
このモアイのように目が入っているものが本来のモアイ像だそうです。モアイに目を入れるのは魂を入れるということだそうです。イースター島ではモアイは目が入ることで霊力を持つと考え恐れていたため、部族間の争いでまず最初に目を壊すそうです。そのため目が入っているモアイ像は少ないそうです。
もともと仮設商店街がこの場所にあったため、ここに設置されましたが、商店街が移転したためモアイ像も移転することになるようです。
最後に語り部さんから、以下の教訓を教えていただきました。
1.災害が起きる前にできることをしておくこと
2.災害時には、まずは避難を第一に考えること
実際に震災で大切なご家族を失われた語り部さんの言葉には説得力がありました。災害はいつ起こるか分かりません。事前にできることは、後悔のないように今すぐにでもやっておこうと思いました。
次に向かったのは南三陸町さんさん商店街です。こちらで本日の昼食をいただきます。今日は朝早くから動き回っているため、息子はお腹がペコペコのようです。
南三陸町さんさん商店街では、四季に応じて4種類のキラキラ丼が楽しめます!
〇四季のキラキラ丼
3月1日~ 4月30日 「キラキラ春つげ丼」
5月1日~ 8月31日 「キラキラうに丼」
9月1日~10月31日 「キラキラ秋旨丼」
11月1日~ 2月28日 「キラキラいくら丼」
ご飯を食べた後、商店街を見学していると「南三陸の記憶」という常設写真館があったため、入館することにしました。
展示写真は震災で壊滅する南三陸を、恐ろしいほどリアルに映し出していました。改めて東日本大震災の大津波の恐ろしさを知ることができました。
この写真館では、店主による語り部プログラムが開催されているようです。事前予約制なので、次回訪れる際にはお願いしようと思いました。
食事後は、少し歩いて腹ごなしです。
さんさん商店街から車で5分ほどの所に歩いて渡れる島「荒島」があります。震災により島に続く階段と鳥居が流失する被害を受けました。
荒島を後にし、しばらく砂浜や公園で遊んだ後、本日の宿泊場所である歌津方面へ車を走らせます。途中、夕食をとる場所を探していたところ、「南三陸ハマーレ歌津」という商店街に立ち寄ってみました。
夕食に決めたお店は、さんさん商店街にも出店している「南三陸 竜巳や」さん。これまで海鮮づくしだったため、気分を変えてラーメンをいただきました。こちらのお店はお寿司がメインなので、ラーメンのスープが魚介出汁でとても美味しかったです!妻が「こんなに美味しいラーメンは食べたことがない!」と大絶賛でした。
食事後は本日宿泊する、日の出の見える宿「旅館 ニュー泊﨑荘」に向かいました。夜間ですが途中、道路の復旧工事を行っている箇所がいくつもありました。6年半経った今でも、まだまだ復興には時間がかかると認識させられました。
ニュー泊﨑荘さんに無事到着し、すぐにお風呂を予約しました。こちらの宿では貸し切りできる岩風呂があります。とても広々としており、ゆっくりと旅の疲れを落とすことができました。こちらの宿はとてもアットホームな雰囲気で賑わっていました。
そして、こちらの宿の一番のお楽しみは「日の出」です!夜は早々に就寝して、朝早起きして日の出を見に行きました。
4日目(11月26日)
ニュー泊﨑荘より
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従業員の方に教えていただいた、宿から10分ほど歩いた場所から撮影した日の出。少し雲が出ていましたが見事な日の出を見ることができました!
早いもので旅行も最終日です。本日は震災遺構となった仙台市立荒浜小学校を見学します。館内見学は自由見学が基本ですが、事前相談すれば案内をしてくださるようです。
設置趣旨
2011年3月11日に発生した東日本大震災において、児童や教職員、地域住民ら320人が避難し、2階まで津波が押し寄せた荒浜小学校。
被災した校舎のありのままの姿と被災直後の写真展示等により、来館者に津波の威力や脅威を実感していただき、防災・減災の意識を高める場とすることを目的に、本校舎を震災遺構として公開しました。
校舎は1F、2Fは被災した当時の状況を公開されていました。4Fでは当時のままの教室の様子や、震災当時の様子を資料や映像で見ることができます。屋上も公開されており、震災前後の様子や荒浜の地形を確認することができるようになっていました。
荒浜地区には大きく目立った建物がここしかなく、多くの住民が荒浜小学校に避難しました。荒浜小学校は多くの命を救った校舎ではありますが、津波到達時に校庭にいた人たちが犠牲となった場所でもあるようです。保存に反対された遺族もいらっしゃるそうです。
荒浜新1、2丁目の約300世帯でつくる荒浜新町町内会の大橋公雄会長(67)は地震直後、住民に近くの荒浜小に避難するよう自転車で呼び掛けて回った。住民の反応は鈍かったという。
荒浜は高さ6.2メートルの防潮堤で守られている。高さ2.5メートルの離岸堤も備える。1978年の宮城県沖地震や昨年2月末のチリ大地震津波でも、被害はなかった。
「荒浜に津波は来ない」。体験からそう信じる住民が少なくなかった。荒浜小に避難した住民の中にも、しばらくして自宅に戻る人が現れた。
この地域では200人近くの方が津波に飲まれ犠牲になりました。荒浜小学校の周辺一帯には多くの民家がありました。現在、辺りを見回す限り建物は何もなく、学校以外はすべて津波で流されてしまったことが分かります。
人間には精神の安定を保つために、正常性バイアスがもともと本能的に備わっています。災害が起こるかもしれない、交通事故に合うかもしれない、通り魔に刺されるかもしれないと常に注意していたら精神を正常に保てません。津波はここまでは来ないと信じた住民の判断もある意味自然なものかもしれません。
災害から自分の命を守るうえで、最大の敵は正常性バイアスかもしれません。正常性バイアスに対抗する手段は「津波てんでんこ」のような教えを防災教育として周知徹底するしかないと思います。
実際にこの教えにより避難した釜石市の児童・生徒約3,000人が、生存率99.8%という驚異的な数字を残し、「釜石の奇跡」と呼ばれ世間を驚かせました。
荒浜小学校滞在中はあっという間に時間が経ってしまい、4Fの展示をすべて見る間もなく出発する時間になってしまいました。再度こちらを訪れる機会があれば案内の依頼をしたいと思います。
その後、レンタカーを返し仙台駅で昼食を採り無事帰宅しました。
ツアーを通して感じたこと・学んだこと
まずは小さな子供2人を連れてのツアーが、計画通りに進められたことにホッとしました。半年前にツアーに参加したときより2人とも確実に成長しているように感じました。息子は語り部さんに津波のことを色々と質問していました。家族で来れて本当によかったです。
今回は福島第一原発20km圏内を実際に訪れ、放射線量の高さと、荒れ果てた街並みを目の当たりにしました。自分が思っていたよりも、ずっとずっと復興が進んでいないことが分かりました。
原爆が投下された広島市では人口が元に戻るのに13年近くかかったようです。今回事故から6年半経った浪江町を見て思ったことは、この町の復興には原爆を投下された広島よりずっと長い年月がかかるだろうということです。
また南三陸を中心とした地域の復興の状況も、一部を除いてほとんど進んでいないように感じました。語り部さんのお話にもあったように、復興が格差を広げているのが現状だと思います。こうした問題をどう解消していくかが、本当の意味での復興の鍵になると思いました。
私の住む静岡では、東日本大震災クラスの巨大地震が今起こってもまったく不思議ではありません。ツアーを通して、地震・津波・原発事故について学んだことを防災に活かし、東日本大震災での教訓が無駄にならないよう、災害に備えていこうと思います。
ツアー費用
~交通費~
・新幹線 87,280円
掛川駅 ⇄ 仙台駅
@14,550円×2=29,100円(自分)
@17,890円×2=35,780円(妻)
@ 5,600円×4=22,400円(子供)
・電車 2,290円
仙台駅 → 相馬駅
970円(自分)
原ノ町駅 → 仙台駅
1,320円(自分)
・レンタカー 17,604円(免責保証1,944円含)
ガソリン 3,100円
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合計 20,704円
・高速代 1,570円
910円(東北自動車道:仙台宮城IC~東北自動車道:古川IC)
660円(三陸自動車道:鳴瀬奥松島IC~仙台東部道路:仙台港IC)
~宿泊費~
・1日目 東横INN仙台駅西口中央(朝食付)8,066円
・2日目 ホテル観洋(夕食・朝食付、入湯税80円含)31,940円
・3日目 ニュー泊崎荘(朝食付)22,960円
~食事代~
・1日目昼食 3,100円
・1日目夕食 2,800円
・2日目昼食 2,592円
・3日目昼食 1,998円
・3日目夕食 2,920円
・4日目昼食 3,700円
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17,110円
~その他~
・福島原発20km圏内ツアー
ガイド料 5,000円
お車代 5,000円
ガイドブック 500円
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合計 10,500円
・大川小学校現地ガイド 8,640円
・ホテル観洋 震災を風化させないための語り部バス
@500円(大人)×2人=1,000円
@250円(子供)×2人= 500円
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合計 1,500円
・南三陸まちあるき語り部
@3,500円×2人(大人のみ有料)+傷害保険828円=7,828円
・「南三陸の記憶」常設写真館入館 300円
・お土産等 20,000円
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■合計
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交通費 111,844円
宿泊費 62,966円
食事代 17,110円
その他 48,768円
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240,688円
最終更新:
cha_chan
jinaさんコメントありがとうございます!
息子は植物(食べられるもの)が大好きで、テレビ番組は「鉄腕DASH」の他に「趣味の園芸」「やまと尼寺 精進日記」なども大好きです(笑)
2人ともずっと今のままでいてくれたらいいな、と思ってしまいます。
子供の寝顔ほど可愛いものはありませんよね!自分も子供達の寝顔にいつも癒されています。
jina
息子さんが「ダッシュウ島だ」と連呼するYOUTUBEが最高におもしろい!!!!!
何度も笑いました。
娘さんの寝顔のお写真も最高にかわいくて幸せな気持ちになりました。
幸せなファミリーから幸せをいっぱいいただき、幸せな気分を満喫できました(^^)