出発地点の陸前高田市コミュニティホール前には20人近い人が集まっていた。今日は町歩きのプチウォーク。晴れているのにぱらっと小雨がぱらつく、変化しやすい春らしい空模様だったが、「大丈夫だぁべ」といざ出発。
「もし歩けなくなったら、キクチさんが背負ってくれるっていうからね」と80代のお母さんがチャーミングに笑う。「特別参加の畳屋さんもいるっけ安心だ」と60代のお母さんが付け加える隣で、男性参加者が苦笑している。「そんな何人も背負わなきゃなんなくなったら、こっちが倒れちまうべ」
忘れ物、忘れ物、と参加者の男性がコミュニティホールから借りたのぼり旗を担いで走ってくる。のぼり旗には「はまってけらいん、かだってけらいん」と記されている。「はまって」は加わって、「かだって」はおしゃべりしてという意味。みんなが参加して仲間になってお話しをしていこうという運動ののぼり旗で、陸前高田の町のあちこちに掲げられているものだが、のぼりを担いで歩いているのは初めて見た。
参加者の中には顔見知りの新聞記者の姿もあった。この日は仕事としてではなく、奥さんとまだ0歳の息子さんと一緒のプチツアー参加。まさに、はまってけらいん、かだってけらいん。
「はまってかだって」の旗を先頭に、一行はコミュニティホールのある高台から栃ヶ沢の坂道を下って歩いていく。目の前に広がる景色は、山を拓いて造られている新しい住宅地、かさ上げ工事が進む町。歩きながら「ばっけ(ふきのとう)見っけ」とか、「あ、チューリップが咲いてるよ! 今年初めてのチューリップだね」などなど、おしゃべりする声も弾む。
「第10回たがだの井戸端会議」の一環として開催されたこの日の町歩きの目的地は、大石観音堂。気仙三十三観音の三十番札所だ。観音様はコミュニティホールから坂を下りきったところから登り返した高台にある民家の奥に鎮座していた。この場所は津波に流されることがなかった「最前線」のひとつ。大きな蔵もある旧家で、大石集落の虎舞の際にはまず第一番に舞いにいく場所でもある。
大石の祭り組に参加させてもらっているのに、まさかこのお宅に観音様が鎮座されていたとは知らなかった。小さな説明パネルには、元々はお宅のさらに山手に観音堂があったのだが、長年の風雪で老朽化が進み、自宅で大切にお守りするようになっていると記されていた。
本来は秘仏ということらしいのだが、この日はお宅の縁側から御開帳。
千手と十一面を併せ持つありがたい観音様にお参りさせていただいた。
しかし、それにしても本来あった観音堂の建物はどうなっているのだろう。ここまで来れば探し出したくなるのが人情というもの。足に自信のある数人がお宅の裏の斜面をずんずん登り始めた。下から「お堂はありますか~」と声をかけると、先頭を登っていった人が大きく両手で丸を作ったので追いかけて登っていくと…
かなりの急坂で、登っていくにつれて踏み後も消え、杉の落ち葉が堆積する急斜面に久しぶりに緊張した。よじ登りながら振り返ると、高田の町のかさ上げ工事現場が一望できた。ようやく登り詰めた斜面の上の林の中には見事な梅の花が香しく咲き誇る。
そして梅の木のさらに上に半ば朽ちたような格好で観音堂が立っていた。
上の写真だけ見ると、深山幽谷に佇む廃寺といった感じだが、林の中とはいえこの場所はかさ上げ工事現場から歩いて5分ちょっと。町のすぐ近くにこんな味わい深い場所があるとは! 津波で景色は変してしまったが、震災前の高田の町は、この景色と一続きのものだったのかと思うと感慨無量。
とはいえ——。こんなところにこんな場所があったなんて驚きとか、高田に生まれ育ったのに知らなかった、ありがたい仏様を拝ませてもらってよかったという声も。
町にはたくさんの宝物があるのだということを教えられた。
でも、プチツアーはこれだけで終わらない。小雨降る中をコミュニティホールまで戻った後は、和室でお茶っこ。町歩きのツアーには参加しなかった人も集まって、2時間ほどもおしゃべりを楽しんだ。
「震災前の話だけど、家を建ててる時に砂利が足りなくなることがあったんだ。うちの爺様が、この辺はずっと昔に気仙川の川原だった場所だから掘ってみろというので掘ってみたら本当に砂利が出てきた。場所は市役所の近くだったから、いまの気仙川からはずいぶんと離れた場所なんだよ。業者の人たちはこんな所で砂利がとれるなんてと驚いていた。昔の人の話には真実があるんだねえ」
「高田の地名には昔ながらのものが少なくないけれど、ずっと昔に町が大きくなっていってた頃に新しい名前になった場所もあったんだよ。うちがあった所もそうで、新しい町名を決めることになった。雲雀がたくさんいた場所だから雲雀野でどうかって提案したんだが、投票で中央って地名になったんだ」
「釜石の方の話だけれど、いまの天皇陛下がお生まれになったのを記念して植えられた桜並木があるんだ。それは見事な桜だったんだが、ソメイヨシノは寿命があるんだってね。いまではもう倒れそうな老木ばかり。それにね、太平洋戦争の後に聞いたんだが、戦時中は皇太子様の桜だから枯らしちゃならぬ、立派に咲かせなければと、町の青年団の人たちはずいぶん苦労されたんだと。戦後になって、あの桜は迷惑だったと公言する人もあったんだよ。いまも桜を植えてる人たちがいるけれど、昔の人の話をよく聞いてからにしてほしいと思ったりもするんだ」
お茶っこのテーブルのあちこちで、いろいろな話が聞かれた。宝物はそんなおしゃべりの中にもあった。
そしてもうひとつ。顔なじみの記者さんの0歳の息子くん。物怖じすることなく、笑ったり手を振ったりする彼は、お茶っこの場のアイドルに。ここにも未来の宝があった。
変化していく高田の町を上空から撮影したドローンの映像を見たり、新しい地名(字の名前)の検討過程の報告を聞いたりもした。歩いて、参拝して、たくさん話して、たくさん笑った「第10回たがだの井戸端会議」。こんなふうに知人や友人のつながりが広がっていくこと自体、まちの宝になるのだと思う。
※「第10回たがだの井戸端会議」は、高田地区コミュニティ推進協議会、みんなでやりゃすぺサイコウ勉強会の企画で4月15日に開催された。
最終更新: