3月11日の朝を迎えてからのざわざわした気持ちが収まらない。陸前高田のまちで行われる灯火を見て回る前に、個人的にキャンドルを灯した。
それから3カ所の灯火の会場を駆け足で回った。お手伝いしますからと伝えていたのに、ほとんど見るだけで終わった所もあって心苦しかった。こちらで知り合った地元の人、ボランティアでの関わりがきっかけで移り住んで活動している人、たくさんの人に出会った。久しぶりに会った人もあった。たくさん話ををした人、話しをすることができなかった人、さまざまだったが、たくさんの人に会った。
翌日、鎮魂のための連凧揚げに参加して、ざわついていた気持ちが少しだけ落ち着いたような気がした。この場所で亡くなられた人たちをわたしは知らない。会ったこともない人がほとんどだろう。それでも、いまここで生きている人たちを通じてつながっていると、少しだけそう思ってもいいのではないかと感じたからだ。
そして灯火のことを考えた。ひとつひとつの灯は、空に舞った連凧と同じくひとりひとりの命に通じるもの。そしてその人たちのことを思って、いまを生きている人たちのひとりひとりにも通じる。
3.11に灯されるあかり。その意味するものは、これからのこの町に灯される明かりでもあると思う。
3月12日、満月が空に輝く時間になって陸前高田の町を歩いた。車で走っていると、工事現場の点灯表示や、反射板、対向車の明かりもあるから通行が困難なほど暗いと感じることはない。
しかし、歩いてみると思い描いていた以上に町は暗かった。まず、新しく住宅が建ち並び始めた高台2と呼ばれる造成地で写真を撮ろうとして挫折した。遠くから見ても明るく見える復興住宅は、通路や非常階段に設置された共益部分の照明が明るいだけで、家々の窓の明かりは写真を撮るには暗すぎた。津波とほぼ同じ高さだった奈々切の跨線橋の上からながめる陸前高田の町は、かさ上げの土の山々の連なりを、満月が照らすばかりだった。
ともしびを灯すことは大切だ。しかし、明かりを灯すことがこれからもっと大切になる。こうこうと電気をつけようという意味でないのはいうまでもない。このまちで生活している人たちの明かりこそ、空の上の人たちも望んでいるように思う。
まちは人と人のつながりでできているのだから。
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