1999年に17歳でアルバムデビューし、溢れる感性とギターテクニックで世界を驚かせたギタリスト木村大さん。5歳から本格的にギターを習い始め、小学1年生で全国コンテスト1位となりその名を知られることに。その後も着実に実力をつけ1996年、世界最高水準といわれる東京国際ギターコンクールにおいて史上最年少の14歳で優勝。4人きょうだい全員がお父上に師事し、3番目の大さんがプロのギタリストの道へ。ひとつの道を極めた生粋のサラブレッドに、これまでとこれからを伺いました。
木村 大(きむら だい)
1982年、茨城県土浦市に生まれる。5歳より父、義輝に師事、ギターと音楽理論を学ぶ。小学1年で第13回GLC全国学生ギターコンクール小学校低学年の部優勝。その後、数々のコンクールで全て優勝する。1996年、ギターのコンクールでは世界最高水準と言われる第39回東京国際ギターコンクールで見事14歳で優勝。1996年、97年2回にわたり茨城県知事賞受賞。この年バルセロナ音楽祭に招待されヨーロッパデビュー。17歳でソニーよりCDデビュー。以後3年にわたり全国リサイタルツアーやオーケストラとの共演、アルバム「カデンツァー17」「駿馬」「アランフェス」を発売。デビューアルバムが異例の大ヒットを記録し、この間『トップランナー』『情熱大陸』等テレビ・ラジオに多数出演。雑誌、新聞にも登場。日本のクラシック音楽界に旋風を起こす。2001年2月、第11回新日鐵音楽賞フレッシュアーティスト賞を受賞。2002年4月より英国王立音楽院に留学、帰国第一弾として2004年3月、NHK交響楽団と3夜連続共演。アルバムに「DAI」「木村大ベスト・セレクション」「ロンドン・エッセイ」「ONE」など多数。最新作は2016年1月発売「ECHO」。
イクメンのお父さんが師匠。
――4人のごきょうだいが全員ギターをお父様に指導してもらっていたという、いわばギターの英才教育を受けてこられたのですよね?よくぞまっすぐに道を進まれた!という感慨があります。今日は続けてこられた理由などもぜひお聞かせください。生まれた頃からギターのある環境だったのですね?
おもちゃのギターは3歳頃から触っていましたが、5歳から本格的に毎日40分から1時間練習をしてきました。日常的な毎日やること。例えば歯磨きやお風呂に入るといったことと同列に練習があった。7歳上の姉、4歳上の兄も一緒でした。父はギター教室を開いていてレッスン室がありまして、いつもこの場所で練習。初めはドレミファソラシドから、キラキラ星…というオーソドックスな練習でしたね。
――きょうだいの中で大さんが頭角を現したのはなぜですか?
小学1年生の時に「全国コンクールに出してみたら?」と父の知人に勧められて、特に欲もなく出場したら優勝しました。父は優勝のために練習したことは一切なかったのですが、そこから本気モードに火がついた(笑)。それ以来、ギターが純粋に好きとは言えなくなりました。ちょうど父は年齢的に40代前半で知力も体力も充実した時期。僕がエネルギーを注ぐ対象としてバッチリでした。時間を徹底させられ、放課後の遊びより練習優先…という日常が休みなく続きました。
――反抗心なく従えたのはスゴイですね。練習が嫌だと思ったことはありませんでした?
その頃はなかったですね。ギターが好きというよりも、父のことが大好きでしたから。ギターをやめたら父と会話ができなくなるのでは…というのが怖かったし、他のきょうだいのことを好きになってしまうのでは…という不安もあった。一生懸命にやると父に褒められるのがうれしかった。うちの場合はギターを教えてもらうのが、親子でキャッチボールをすることと同じようなコミュニケーションでした。
――お父様のことを心から大好きでいらしたのですね。お母様ではなくなぜお父様を?
幼少の頃、父はギター教室の講師として収入はあまりよくなかったのですが、母も仕事をしていたので母が父親的な存在でした。父は家事育児を一切引きうけるイクメンで、お母さんみたいなお父さん。僕にとってはパーフェクトな父で、母はそんな父の夢を支えていた。親子というよりも師弟関係で、小学3年生頃からは大人並みの練習。父は僕が弾けるまで弾かされる怖い存在で、僕は震えながらギター弾いていました(笑)。これは他のきょうだいも皆同じでした。
0か100か、一流になるための教え。
――お話し伺っていると生粋のサラブレッド!反抗的にならなかったのはお父様の指導力ですか?
反発したのは20歳を過ぎてからですね。今まで自分が与えられてきたものが、本当にこれでいいのか?むしろ今自分がやりたいことは何なのか?ということを検証したくなった。クラシックという伝統を守るのと、自分が新たに思い描いている世界観をはみ出しながら構築していくこと。探求とか挑戦になるんですが、僕の中で欲求が出てきた時に、王道を教えてくれる父に対して、もっとこうした方が良いという意見をしたくなったのが初めてでした。
――それでもギターの師匠としてお父様をリスペクトされた点に、天才と言われる所以があるのでは?
家では従順にしていましたが、外では結構やんちゃなガキ大将でした。サッカーも大好きで続けていたので、音楽とスポーツをやっていれば、勉強はできなくても大目に見てくれ何でも許してくれました。全部ができなくっていいという父で、僕が好きなことをやっていれば褒めてくれたので、最高の理解者でした。レッスンの時は怖くても、終われば父に戻っていて、そのバランス感覚は絶妙でした。特に、音楽を言葉で表現するのがうまかった。例えば、演奏表記にある『憂鬱』という意味も、大人にならないとわからないとは言わず、子どもにもよくわかるように、その感情を解き明かしてくれた。何事も否定をしないで提案をしてアイデアを出してくれました。
――たくさん取材してきていますが、お父様をそんなふうに表現される方って初めてかもしれません。大さんのギターはお友達にも知られた存在でした?
小学校でコンクール優勝してから、何歳までにこれをしてどうする…という目標を細かく決められたんですね。それは一つも狂わなかった。小学校の頃って将来の夢を必ず作文にしますが、僕は毎年ギタリストになると書いてきました。高校3年生の17歳でメジャーデビューしてアルバムも発売。『クラシックギター』という響きが何だか当時は気恥ずかしくて周りの友達には僕が何をしているか話さなかったので、バイオリンとかエレキギターをやっているらしい…と誤解されていたようです(笑)。
――学校のクラブ活動なども所属せず、放課後はギターのために時間を使ってきたわけですよね?
練習のために、中学生の頃から父が学校送迎をしてくれました。それは全然恥ずかしいことではなく、むしろ練習に体力温存できたし、やるべきことに集中できたのでありがたかった。中学校に上がる頃、幼稚園からずっと続けてきたサッカーか、ギターかどちらか選ばなくてはならず、どっちを選んでもいいと父に言われた時、僕はギターを選んだ。そうしたからには練習しなければならないですし、周りの子と同じにしていたらダメなんだという意識がありました。プロのギタリストになるために、なかば使命感で独自の道を歩いてきました。父は流されやすい僕の性格をよく見極めていたのだと思います。
自分にしか出せない音を紡いでいく。
――これまでのお話し伺ってきて、その素直さはどうしたら培えるものなのでしょう?
ただ好きで続けているだけでなく、結果が出ることが一つの励みになっていました。僕はコンクールで2位以下になったことがないので、誰かの背中を見たことがない。僕自身が演奏しなくてはならなかったし、自分で結果を出さないとならなかった。その時々のコンディション、技術をコンクール目指して持っていくのは、ストイックにならないとできません。スポーツと同じで勝ち負けがはっきりするコンクールがプレッシャーで、もうあの頃には戻りたくないという苦しい時期でした。ただ、やるべきことからは逃げられないという覚悟があったので、父の指導に素直に従うことができたのかもしれません。父との信頼関係は揺らいだことはありませんでしたから。
――お父様との関係がとても濃かった一方で、お母様や他のごきょうだいとはどのような関係でしたか?
母は、友達に言うようなこともたくさん話せる相手。一番ワガママを言えたので、今は頭が上がりません。7歳上の姉は「私も早くギターをやりたかったけれど、お父さんが大(だい)に集中していたから割り込んでいけなかった!」と言っています。彼女は高校生になってから本格的にギターを始め、朝5時起床でずっとギター漬けの努力家。ギターが家族の共通言語だったので、うちは『歴史のない歌舞伎座』みたいなものです。
――ご家族から離れて、イギリス留学をされて変化があったのでは?
20歳から3年間イギリス留学をしました。その費用は10代から貯めてきた自分のお金を使ったのです。父から初めて離れて違うイギリス人の先生についたのですが、あまりの違いに愕然。歴史ある学校ですから技術も素晴らしく厳格な先生でしたが、実は1年しか通わずに卒業していません。途中から語学学校へ通って、お金が尽きるまでいようとイギリスに滞在。なかなか父にも言いだせずに、帰国する1週間前くらいにようやく伝えました。ドイツに住む姉も卒業したほうがいい…と説得しに来たのですが、僕には卒業の意味合いがわからなかった。
――自分なりの基準が既にできあがっていたのは素晴らしいですね。音楽活動で大切にされたいことは?
僕はクラシックギターの伝統を守っていく、という規格からは元々外れていたのかもしれません。小澤征爾(おざわせいじ)さんは「オペラとシンフォニーを体験せよ」と言葉にしていますが、とても共感するしギターにも同じことが言えます。つまり日常を描くこと、神に近づくこと。両立してクロスしてこそオリジナルの世界観がうまれるのだと思っています。それを探し続けて演奏しています。僕が演奏するインストゥルメンタルは言葉の表現以上に難しく、とてもハードルが高い。誰が聞いても僕のギターだとわかるような、木村大にしか出せない音を創っていきたい。死ぬまでに一曲でもいいから残したいです。今、少しずつ近づいていっているように思います。
編集後記
――ありがとうございました!お父上のことを心からリスペクトされ、まっすぐにギターにエネルギーを注いでこられた大さん。お父様、そして支えてこられたお母様、4人きょうだい(9歳下の弟さん)も含め木村家全員に取材をしたくなるほど楽しいお話でした。昭和の懐かしい家族観を背景に、ユニークな教育を徹底できたのは、大さんの実力だけでなくやはり愛情深いお父様の采配では?と思います。バックグラウンドを知って大さんがギターで奏でる音色が、ますます暖かなものとして聴こえてきそうです。これからも応援しています!ありがとうございました。
取材・文/マザール あべみちこ
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