【シリーズ・この人に聞く!第106回】東北支援に力を注ぐ シンガーソングライター 木村真紀さん

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日々の生活の中からうまれた歌をピアノで奏でながら透明感あふれる声で唄う木村真紀さん。3.11後は被災された東北支援にも力を注ぎ、復興応援CDも制作。祈りを込めたやさしい歌声で多くの人を魅了しています。3人のお子さんを育ててこられた経験談をはじめ、ご自身の幼少期から音楽の道へ進まれたきっかけ…など、朗らかな声で唄うようにお話しされる真紀さんに肩の力がぬけるアドバイスをたくさん頂きました。

木村 真紀(きむら まき)

シンガーソングライター。大学在学中からスタジオミュージシャンとして活動。CM、ゲーム、アニメ音楽などの作曲編曲ヴォーカルを手がける。結婚出産後、日々の生活の中から生まれた歌を集めアルバム『涙』『愛ってなあに?』『小さな贈りもの』をリリース。時にせつなく、時にやさしく心にしみる歌たちは、ママたちをはじめ、幅広い世代から支持を得ている。最近は『響き合いプロジェクト』を立ち上げ、東北支援に心を注いでいる。石巻の北上中学校でのレコーディングを果たし、復興応援CD『祈り・わたしはひまわり』とアルバム『ピュアプレイズ』を同時リリース。
<作品>
もののけ姫『えぼしたたらうた』ゲーム『アヌビス』の主題歌、 NHK『おかあさんといっしょ』の『ばわわぷ体操』他多数

 木村真紀(きむらまき) オフィシャルサイト
www.kimuramaki.com  
 木村 真紀 | Facebook
www.facebook.com  

自由に弾きたい!神童ゆえの苦悩。

――真紀さんの音楽は10年以上前からお噂はかねがね伺っておりましたが何かと機会を逸してきて、ようやく巡り合うことができてうれしいです。今日は幼少期のお話から現在の音楽活動まで歴史をお聞かせください。小さな頃は何かなりたい職業がありましたか?

4歳からピアノを始め、5歳でソナチネを弾き神童とされた。

4歳からピアノを始め、5歳でソナチネを弾き神童とされた。

小学生の頃は、アテンションプリーズ~♪スチュワーデス(キャビンアテンダント)になりたくて家の中でもよくなりきって遊んでいました。父が航空会社に勤めていたのでよく羽田にくっ付いて行っていたんです。歌は大好きで、家の中では大きな声で唄っていましたが、当時「スター誕生!」というオーディション番組が流行っていたけれど、自分でそういう所へ応募できるような子ではなかったから家の中だけで弾き語りをしていました(笑)。

――当時から音楽の才能が溢れていらしたんですね。ごきょうだいは、いらしたのですか?

うんと年の離れた兄と姉と兄がいます。20歳も違うまんなかの兄がチェリストで東京都音楽楽団に所属していて演奏者でした。その兄が大学生の頃に私が産まれて、私にピアノをバカにされたといまだに言います。小さな私は兄がピアノを弾いているのを聞いて「まだそんなの弾いてるの~?」と言ったらしくて、「もう二度とピアノなんか弾かない!」と思ったんだそうです。

――かわいい。そういう環境で、一人娘のように大事にされたのでは?

大人の中で育った。ピアノって音大生は免税で買えますので、兄が音大生の頃にグランドピアノを母が買ったんですね。グランドピアノの横に大きな文字で『○免』(免税マーク)と刻印があって、大きくなるまでピアノには全部そのマークが入っているものだと思っていました。そのピアノが家に来て、私の記憶にはありませんが母には「あなたがピアノ習いたいって言ったから…」と、習い始めたのが4歳です。ピアノ講師をしていた母ですが、親子は無理!と思ったのか、通ったのは母の先生のところでした。

――生活の中にピアノがありましたよね。着々と練習されて上達したのでは?

5歳でソナチネを弾き、皆の期待を一心に集めていました。でも小学校時代はピアノ部屋に毎日8時から9時、1時間閉じ込められて大嫌いになった。いかにさぼるか、どうすれば辞めさせてもらえるか、ばかり考えていました。指導してくださっていたのは音大講師もなさっているとても立派な先生でしたが、遊びのない雰囲気が私はつまらなかった。その頃「鳩子の海」という朝ドラが流行っていて小学生でしたが曲をコピーして弾いていました。そういうのが楽しかったんですね。ピアノを辞めたいというと、家族として認めてもらえないのではないか?…と幼いなりに感じていたので、なかなか言えませんでした。小5でやっと辞めさせてもらえましたが、その時まだ「ソナチネ」を習っていて…(笑)。暗黒の5年間ですね。言われる通りに演奏するのが嫌いでしたから、辞めてからはただ自分の好きな音楽のためにピアノを弾けるようになって自由になりました。

レッスンは嫌でもピアノは好き。

――自由に弾きたい!という欲求わかります。中学生以降は音楽にどう関わっていらしたんですか?

3人の子どものうち最もバトルした真ん中の娘。今は幼稚園教諭として活躍。

3人の子どものうち最もバトルした真ん中の娘。今は幼稚園教諭として活躍。

中学では不良の溜まり場と言われたフォークソング部に所属し、ギターを弾いて女の子バンドを組んだりして。勉強が嫌いな私に「あなたは音大に行くのが一番楽だと思うけどね」と母に言われまして。耳だけはとても良かったので、それなら作曲科というところを受けたらどう?と知人から勧められ…にわか勉強をして、東京音大作曲科へ進みました。憧れていた「ジャズ研」に入って毎日楽しくて。大学時代からCMソングを歌い始めて、卒業後もそのまま音楽活動へと続きました。

――大好きな音楽一色の青春ですね!子どもの頃、習っていたのはピアノだけですか?

ピアノだけでしたね。他のものは習わせてもらえなかったのです。「ピアノもろくろく続けられないような人は他のことはダメ…」というのが常套句で。私はスケートとかバレエも習いたかったのですが。いつもそう言われるので「なんてピアノって嫌なものなんだろう!」と思うようになってしまいました。

――お母様は厳しかったのですね。それでもピアノから離れなかった。

既にオーケストラで演奏活動していた兄が、「そんなに練習しないならピアノに鍵をかけて触らせないようにすればいい」と母に助言しているのを聞いて、これは大変!お稽古は嫌いだけどピアノは大好きなので…余計辞めるに辞められず。当時からやらされて弾くより、自由に弾きたかったんです。

――真紀さんのお子さんには、やはりピアノを習わせましたか。

子ども3人の中で「ピアノを習いたい」と長女に言われたのは、私が習い始めた年齢の4歳でした。私は自分がその年齢で始めたのが早すぎたと思っていたので「小学生になってからにしよう」と先延ばしに。それで小学校入学してから習い始めた時、いつも傍で私が弾いているように簡単に自由に弾けないことで、ひどく傷ついてしまった。その時に「習いたいと言った時が習うタイミングなんだなぁ」と思いました。私は自分と比較してそうしてしまったけれど、あの子にとっては4歳こそがその時だった…と後悔しました。結局小学4年で辞めてしまいました。とはいえ、その娘も今は幼稚園教諭となり、必要に迫られて時々練習しています。少しでも習っておいてよかった…のではないでしょうか。

子どもの行動を恥じずに見守って。

――ピアノ講師でいらした真紀さんのお母様は、ピアノを続けられるようにうまく指導されてきたのでは?

女同士は取っ組み合い、男どもとは徹底議論…が木村家スタイル?!

女同士は取っ組み合い、男どもとは徹底議論…が木村家スタイル?!

母は私という子をよく見ていたと思います。母に昔あんなこともこんなこともさせられた…と恨み骨髄な面もありますが、それがなかったら今の私はないわけでして。イヤイヤでも習っていたから指も動くように鍛えられた。母には子どもの力が見えていたのでしょう。私は子どもたちが小さな頃、自分が生きるのに精一杯で子どものことがよく見えていなかった。未熟な母でした。

――男の子、女の子、それぞれ育ててこられて、どんな点が違いましたか?

うちは長男、次男とも口が立つので言葉で戦えるのですが、娘は口べたで黙り込んでしまう。これではお互いストレスがたまるばかりなので、ある時から肉弾戦に切り替えました。彼女は幼稚園の頃からお相撲が得意で(笑)ふたりで取っ組みあうほうが、お互いすっきりしました。女同士は取っ組み合い、男どもとは徹底議論…が我が家のスタイル…かしら(笑)。あんまり参考になりませんね(苦笑)。下のふたりが中学時代に一時期不登校になったのですが、その時も娘とはかなり取っ組み合いの喧嘩をしましたね。
学校へ行かなくなったきっかけは友達関係のささいなことでしたが、「行かないのではなく、行かれなかった」。その頃我が家は大揺れで、愛情不足が原因だったのかなぁ…と。でも学校へ行かなくてもお母さんは私を見放さない…とわかってからは、足りなかったことを埋めるように親子関係も変わりました。家庭教師をつけて休んでいた分の学力も取り戻し、お友達や先生のサポートもあって、また再び学校へ通えるようになりました。高校へ行っても順調というよりも、薄紙一枚ずつ強くなっていった感じです。今思えば、あれは私たちにとって必要な経験だったと確信しています。

――先輩ママとして、真紀さんから心が軽くなるようなアドバイスを頂けますか。

みなさん真面目すぎるんじゃないかな。「○○するのは親の責任だ」といろんな場所で言われるし、子どもの心配な要素をつぶさに見ちゃう。そもそも子どもって大人の目に曝されない秘密基地みたいなところで育ってきたと思うけれど、今は子どもが親の成績表みたいなかんじになっちゃってる。恥なんて浴びるように生きたら楽チン。「ごめんなさい」と親が代わりにあやまっちゃえばすむところでも「私が謝ると、この子が悪いことになる。だから謝れません」という若いお母さんもいて……うーーーん……大変そう。
長女が不登校になってバトルの真っただ中にあった時「私はあなたが学校へ行かないことを恥ずかしいと思うのは辞める。中卒でないままどんなことして生きていけるか私はわからないけれど、あなたがそうする自信があるならこれからその生き方を見せてほしい」と内心はハラハラしていましたが…覚悟を決めて本気で宣言しました。コンサートでも不登校児だった娘のことをオープンにしていました。私は彼女にピアノは指導できませんでしたが、ギターは教えてあげられたので(私も苦労して覚えたし、たいしてうまくなかったので)、彼女は「夜空のムコウ」をギターで弾き語りできるようになって…それが好評で学園祭で全校生徒前に唄った経験、スポットライトを浴びた快感をきっかけに自信がつき、少~しずつ変化したのね。一足飛びに変わるのでなく、少しずつゆっくり、親の思いより一歩遅れて成長するものなのだと思います。

――何でもスピードを求められちゃいますけれど、時間を掛けることって大切ですね。最後に、これからの活動はどんな方向へ?

あまり先の展望を考えず、流れのままにやっていきたいなと思っていて、出会いの一つひとつにスパークしながら自分はどこに向かっていけるのかな?というのを楽しみにしていきたい。被災地での音楽支援活動は仮設住宅が一つもなくなるまで定期的に通って続けます。

編集後記

――ありがとうございました!歌声と同じキレイな声で話される内容に魅了されました。インタビューは好きな仕事のひとつですが、心の琴線に触れると取材中にもかかわらずドバドバと涙が溢れてしまいます。子どもを認めるというシンプルな考えを親の立場になるとつい忘れ、自分が良いと思う通りにしようとしますが、もがき苦しんで子どもが自分で自信を復活できる日を待つことが、実は親としてもっとも大切な仕事ではないかと。素敵なお話をたくさんお聞かせ頂きながら、我が家の悩みにアドバイスを頂けた感じでした。ようやく出会えたご縁に感謝です!

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