どこか懐かしく暖かく、心奪う音を奏でる。津軽三味線。海外での活動の積み重ね、さまざまなミュージシャンとコラボで次々とコンサートを成功されてきた吉田兄弟。原点である民謡のみならず、オリジナルの楽曲にも挑む新しい三味線スタイルを繰り広げる。若きお二人の仕事への想い、そして子ども時代についてお聞きしました。
吉田兄弟 (よしだきょうだい)
(兄)吉田良一郎:1977年7月26日生まれ
(弟)吉田健一 :1979年12月16日生まれ
北海道登別市出身。二人共、5歳の時に三味線を習い始める。92年から津軽三味線全国大会を皮切りに、その後全日本津軽三味線東京大会・青年じょんがら節部門準優勝(1998・良一郎)、津軽三味線コンクール全国大会一般男子の部優勝(1999・健一)など数々の賞を受賞。99年デビューアルバム「いぶき」リリース。2001年第15回ゴールドディスク大賞 純邦楽アルバム・オブ・ザ・イヤー受賞。海外でもYOSHIDA BROTHERSとしてコンサートツアーを精力的に行う。最新アルバムは「飛翔 三味線だけの世界Vol.1」(SONYレコード)。津軽三味線の魅力を世界に広めるステップとして好評を博す。3月からは吉田兄弟コンサートツアー2007「三味線だけの世界」を予定。
海外で絶賛されている和楽器。伴奏を超えた曲弾きの素晴らしさ
――日本人の伝統楽器を海外で伝えていらっしゃるのは感動します。北海道登別ご出身で、お兄さんが先に東京へ?
健一:兄貴が先に民謡の勉強がしたいということで、住み込みの仕事場(民謡の店 浅草「追分」)を見つけて上京。僕は東京へ来るつもりは全然なかった。北海道に残って「吉田兄弟」として三味線を弾いていこうと思っていたんです。一方で、場数が少ないということもあった。ただ、札幌のミュージシャンの方からセッションのオファーが増えて登別から札幌まで(距離にして100キロ、時間にして1時間半)車を飛ばして通ったり。フラメンコのカホン(ペルーの楽器)をやっている音楽家とのセッションをして、とても刺激を受けて、自分で曲をつくりたいなと考えるようになった。僕は、伴奏では兄貴に勝てないから、曲弾きで勝ちたいと思うようになったんですね。
良一郎:僕は高校時代、半分三味線の仕事をしていたので、ある程度稼ぎもあった。北海道も回っていたので大体、仕事の内容は把握できた。津軽三味線は、伴奏ができないと一人前でない、という暗黙の了解がある。そうであるなら、北海道では伴奏する機会が少ないので、東京へ行けば場数が確保できるだろう。たくさん歌い手もいるはずだから。という勝手なイメージがありました。三味線を弾きながらお金をもらえる場はないかと探していたら、浅草に民謡酒場「追分」を見つけた。問題は、練習場所の確保でしたから。聞けば、給与も出る、食事も付いて、練習もできる。本当にありがたかった。
健一:北海道では何時に練習しても大丈夫ですが、東京の住宅事情だと中々難しいものがありますからね。
――東京で活動されてからは、どんなことが大変でした?
良一郎:いっぱいありますけれど、民謡を覚えるのが大変でした。東北の民謡はある程度知っていたのですが、東京から西の民謡がまったくわからない。それに民謡酒場では、飛び入りで歌いたい民謡をお客さんが歌うので、即興で伴奏できないとダメなんです。譜面も見ないで演奏できないといけない。何度お客さんが「こんな三味線じゃ歌えない!」と怒ってステージを降りてしまったことか……。毎日一曲くらいのペースで民謡を覚えていかないと間に合わなかった。ただ、伴奏は上手くなっても、ソロ弾きが下手になっていった。1年1度の大会にも入賞できなくなってしまった。2年間はスランプでした。伴奏もソロ弾きもおかしくなった。どうすれば自分を表現できるんだろう?と。
健一:僕が高校卒業してから、「吉田兄弟としてCDをつくらないか?」と知り合いから誘われて、8月に録音、11月にリリースしました。僕がオリジナルで作った曲も入れて、出したファーストアルバムが「いぶき」というタイトルのものでした。トータル6曲、32分しかないアルバムで。
良一郎:レコーディングでは民謡ではありえないリズムでオリジナル曲を弾くのと、仕事場の追分では民謡の伴奏を演奏しなければならなくて、切り替えが大変でした。
――吉田兄弟のネーミングは、そのままですけれど。ネーミングとかお考えにならなかった?
良一郎:津軽三味線の大会に出るようになってから、僕も健一も入賞するので、地方新聞などには必ず「吉田兄弟入賞」とか載るんですね。で、色々な催しにお声が掛かるようになりまして、行ってみると「吉田兄弟コンサート」とか看板ができている(笑)。名前をわざわざ作らなくても、それで充分認知されるなら…という感じで。
――どの辺から、吉田兄弟としてブレイクを感じました?
健一:2000年頃から「茶髪に紋付ハカマ」というキャッチがメディアに出始めてからですね。最初は新聞、それから雑誌に、そしてテレビ、ラジオにかわり、インストアライブでも演奏するようになった。それでも、最初は年配のファンの方が多く御座を敷いて、後方に若い方が立っていた。それがメディアでの露出が増えてどんどん変化してきました。
吉田兄弟誕生となった手づくりの三味線
――三味線を習うお子さんて当時珍しかったのでは?と思いますが、いかがでしたか。
良一郎:三味線業界でも一番年下だったと思います。早くても6才くらい、9~10才から始めるのが普通のようですから。三味線は子供用がないんです。大人が使うのと同じものを使って演奏するので、津軽三味線を演奏するのは、まず無理。僕らは民謡三味線といって、細長い芸者さんが使うのと同じものを使っていました。
――習い始めたキッカケは何だったのでしょう。ご家庭の環境に音楽は身近にあったのでしょうか。
良一郎:父が決めたんです。家には何も楽器はありませんでした。友達はピアノやエレクトーンを習っているのに、なぜ?と思いましたが(笑)。とにかく習い事がしたかったんですね。だから、三味線がどんな音が出て、どんな形のものかまったくわからなくても、習い事ができる!というので、すごくうれしかった。ですが、三味線屋さんが近所にあるわけでなくて(笑)、父が手づくりでおもちゃの三味線を作ってくれたんです。洗面器2つ合わせて、ネックのさおには雪かき用のスコップの柄を差し込んで。弦を張るところつくって。「こういう楽器だよ」と与えてくれたので、それで遊ぶようになった。その後、近所に先生がいたので、そこへ通うようになりました。
健一:稽古場の送迎に付いていくようになって僕も三味線を知るようになって、兄と同じ5歳になって始めました。小学校にあがると、今度は友達なんかに「おまえら、爺婆のやる三味線なんか習っているのかよ!」などとからかわれて、奴らに見つからないように回り道して三味線教室まで通った覚えもあります(笑)。三味線だってカッコいいぜ。いつか見てろよ!みたいな気持ちもありました。
――タイプ的にやはり素直なお子さんでした?
健一:まぁ当時は(笑)。でも、家の中でずっと三味線を弾いているわけでもなく、外で遊ぶし、兄弟喧嘩もしましたし。小学校時代は特に、自分の友達と遊ぶよりも兄貴の友達なんかに混ぜてもらって遊んでいました。そっちのほうが魅力を感じて、金魚の糞状態(笑)。
良一郎:今みたいにゲーム遊びもない時代で、環境的に山・川・海に囲まれていて友達もたくさんいたので山の中で遊んでいましたね。
――お父さんの存在は威厳がおありだったのかしら?
良一郎:「勉強しろ」と言われたことは一度もなかったですね。その代わり、「いくらでも遊んでいいから、三味線をやる以上、一日一度は三味線に触れ」と。それは毎日言われましたね。父が帰宅する7時頃を見計らって、三味線を出して練習しているフリはずっとしていました(笑)。
健一:一人は見張り番、一人は楽器を出す役で(笑)。兄弟の共同作業でしたよ。
――お父様は音楽をなさっていた方なんですか?
健一:いえ、普通のサラリーマンでした。でも絵が好きで日展とかに出品して入選したり。若い頃、津軽三味線の魅力に取り付かれて一時期習っていたようですが、当時は道楽だという見られ方をして断念したようで。その夢を僕らに託したんですね。
良一郎:父はギターをやっていたんです。それで三味線と出合って、三本の弦でこんなに人を魅了するものが世の中にあるのか、と驚いたようです。
――今これだけご活躍なので、お父様も感動されているんじゃないですか?
健一:三味線で仕事が成り立つとは思っていなかったですから。僕らも30代後半から40代くらいになってCDでも出せればいいなと思っていたのが、意外なほど早くデビューできましたので。
一つのことを続けてみる勇気と親が一緒に取り組む大切さ
――お父様の存在が大きかったように思いますが、厳格な方でした?
良一郎:う~ん、結構反抗もしましたよ。色々と注文をしてくるので「弾けないくせに簡単に言わないでくれよ」というと「俺は弾けなくても、聞く耳は持っている」と自信たっぷりに答えていました。大会があればいつも付いて応援してくれる。僕は果たして、自分の息子に同じようにできるか?疑問です(笑)。
――三味線を知らない子どもたちも増えているのでは?
健一:大会はやたら多くなってますし、出場者数も増えています。でも、民謡を知らない世代なんですよね。奏でる曲に魂があるかというと、どうかな……2001年頃から和楽器の演奏家として、小学校を回ったことがあったんです。もちろん三味線を知らない方も多くて。学校によって差はありますが、三味線に触れる機会もあったり、英語の授業で僕らのことが紹介されたりしています。
――今の子どもたちにどんな力をつけてほしいと思いますか。
良一郎:選択肢が増えていますが、中々たった一つのことを大切に続ける勇気がないと思うんですね。一つを続ける先に何かがあることに気づいてほしい。継続は力なりです。子どもだけでなく、親も一緒に頑張ること。与えすぎないことって大事だと思います。
健一:僕らも5歳から三味線をずっと続けてきましたけれど、サッカーや陸上(長距離)とか普通に部活動もしていましたから。
良一郎:環境が人を学ばせるんでしょうね。人格形成に大きく関わっている。
――今後はどのような展開を予定されていますか。夢はもっていらっしゃいますか。
良一郎:三味線をもっと世界に広めて、まずはワールドミュージックの部門でグラミー賞を獲りたいです。
編集後記
――がんばってください!今日はありがとうございました。
あまり似ていらっしゃらないお二人。でも、こんなに仲良しの兄弟って昨今見かけません。ベタベタした関係でないけれど、考えていることや目標が同じせいか双子のようにツーカーで息もピッタリ。お兄さんの良一郎さんは3ヵ月前に赤ちゃんが誕生したばかり、弟の健一さんは4ヶ月前にご結婚したばかり。そんな新しい人生を歩き始めたばかりのお二人はとても輝いていました。こんなにお若くしてとても謙虚で、夢もあって大人な男!ますますファンになりました。これからのご活躍、ますます注目しています。
取材・文/マザール あべみちこ
活動インフォメーション
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