2016年5月10日、アメリカのバラク・オバマ大統領が、現職のアメリカ大統領として初めて被爆地ヒロシマを訪れることになったというニュースが世界を駆け巡りました。
ニュースでは「広島平和公園を訪問」と伝えられるだけで、具体的な訪問スケジュールは明らかにされていませんが、ヒロシマを訪問することを決めたオバマ氏には是非とも原爆ドームを訪れてほしいと思います。なぜなら建設されて101年になる原爆ドームは、戦争の歴史と平和へのねがいが幾重にも積み重ねられた未来への遺産だからです。
原爆ドームに刻まれた原爆以前の戦争の歴史
原爆ドームがかつて「広島県物産陳列館」や「広島県産業奨励館」と呼ばれる建物だったことはよく知られています。
日清戦争の際、広島には大本営が置かれました(大本営は陸海軍を指揮下に置く最高戦争指導機関で、明治天皇も帝国議会も戦争中は広島に移りました)。10年後の日露戦争に続いていく時代、広島では軍需産業が発達し、地元経済は活況を呈します。その広島の産業の力を広くアピールし、「国内での激しい市場競争に耐える製品の開発、品質向上、販路拡大等を図るための拠点(広島市のホームページより)」として企図・建設されたのが広島県物産陳列館です。
チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計による広島県物産陳列館は、一部鉄骨を使った3階建てで、屋上には銅製の大きなドームを載せていました。木造でせいぜい2階建ての家屋がほとんどだった広島の町に登場したヨーロッパ風の建物は、たちまち広島名所のひとつになったということです。
館内の2階3階部分が陳列室として使われており、「県内の物産、他府県からの参考品の収集・陳列、商工業に関する調査及び相談、取引の紹介に関する図書・新聞・雑誌の閲覧、図案調製(広島市のホームページによる)」など幅広い業務が行われました。いわば、幕張メッセや東京ビッグサイトのような大型展示場に行政による産業振興機能を合体させたような施設だったのです。
広島県物産陳列館が完成したのは1915年(大正4年)。その前年には第一次世界大戦が勃発していました。連合軍に加わった日本は、ドイツに宣戦を布告。当時ドイツが中国から租借していたチンタオ(青島)の要塞を攻撃し占領しています。その半年後にオープンしたのが広島県物産陳列館です。単純に同じ時代の出来事ということではありません。市民に親しまれたこの建物は、その後ドイツ人捕虜たちと具体的な関わりを持つことになるのです。
チンタオでの戦闘で捕虜となったドイツ人は全国各地の収容所に入れられていました。広島湾に浮かぶ似島(にのしま)にも捕虜収容所が開設されます。戦争終結の翌1919年、この収容所から捕虜たちを集めて「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」が開催されます。捕虜の中にいたドイツ人職人たちの技術を紹介するのが目的だったのでしょう。展覧会に参加した捕虜の中には、若き日のカール・ユーハイム(洋菓子店ユーハイムの創始者)もいました。彼は民間人であるにも関わらず日本軍の捕虜にされていましたが、展覧会で彼が焼いたバウムクーヘンは、日本で初めて焼かれたものという逸話が残されています。
ドイツで「菓子の王」と呼ばれるバウムクーヘンは、材料の調整や焼き上げるために高い技術を必要とするもの。普通のケーキを焼くオーブンのように密閉式ではなく、軸にとろとろの生地を掛けて直火で焼きながら、木目の模様を付けていくヨーロッパでも極めて特殊なケーキです。
東日本大震災の後、陸前高田市で菓子店の再建のためにバウムクーヘンづくりに取り組んだおかし工房「木村屋」さんで、その作り方を見せて貰ったことがありますが、職人さんが着きっきりで繰り返し繰り返し木目の層を焼き上げて行くのに驚かされました。木村屋さんではバウムクーヘン用の特別なオーブンを使っていましたが、ほぼ百年前の広島で、しかも捕虜だったカールがこのお菓子を焼き上げるのは想像を超えた大変なことだったはずです。
カールは展覧会のために3日間かけてバウムクーヘンを作ったと伝えられています。軍人でもないのに捕虜にされ、5年間も勾留され続けたカールは、どんな思いでバウムクーヘンを焼いたのでしょう。彼が焼いた菓子の王に、広島の人たちはどんな反応を見せたのでしょう。美しい木目のような層のあるケーキを焼き上げたカールの瞳が、達成感と充足感で輝いていたことは想像に難くありません。詳しい事情は伝えられていませんが、釈放されたカールは日本に残ることを決意します。
そのことだけとっても、広島県物産陳列館で母国ドイツの菓子の王を焼き上げ、日本人たちに食べてもらったことが、彼の人生の中で大きな出来事だったと思うのです。
同じ時期、別の収容所では後にハム・ソーセージの製造会社を立ち上げるアウグスト・ローマイヤーも在留を決意します。ドイツ人捕虜で日本在留を希望した人は少なくなかったようです。徳島県にあった板東俘虜収容所では、ドイツ人捕虜たちが地域住民と交流し、日本で最初にベートーヴェンの交響曲第9番が演奏されたことでも知られています。
捕虜として5年にわたって抑留したこと自体、人道的なことではありませんが、日本人と交流し、日本に残った人たちがいたことは記憶にとどめておくべきことだと思います。第二次世界大戦での捕虜の扱いとはあまりにも違っているからです。
第一次大戦から第二次大戦までの20年ほどの間に、日本人にどんな変化があったのかを探る糸口が、後に原爆ドームとなる広島県物産陳列館の歴史に刻まれているのです。
広島県物産陳列館で人生の転機を迎えた彼のその後
日本で初めてバウムクーヘンを焼き上げたカール・ユーハイムは釈放後東京に移住し、さらに横浜で菓子店を開いたところで関東大震災に遭遇します。日本での再出発を遂げたすべてのものを失ったカールは妻を連れて神戸に移住。妻と二人三脚で菓子製造と喫茶店を再建します。カールが作る洋菓子は外国人居留者の多い神戸で人気を博し、やがて百貨店にも菓子を出荷するほどになります。
民間人なのに捕虜として捕われ、広島でバウムクーヘンを焼き、東京・横浜に移住して日本での生活の基盤を作った矢先に大震災で神戸に避難。苦難にめげることなく菓子を通じてドイツの食文化を日本に伝えたカールの人生は、戦前に日本に移住した人々の中でも特筆すべきほどドラマチックなものです。多くの苦難を乗り越えて成功を収めた人…と言いたいところなのですが、伝えられている彼の肖像写真の表情は必ずしも活気に満ちあふれたようなものではないのです。
神戸に店を開き、成功を収めた後カールは精神を病み、1945年8月14日、日本が第二次世界大戦に敗れる前日に、神戸摩耶山中のホテルで最愛の妻に見とられて逝去しました。
1915年 広島県物産陳列館完成
1918年 第一次世界大戦終結
1919年 シベリア出兵
1920年 ドイツ人捕虜の多くを釈放
1923年 関東大震災(日本に残留したドイツ人の多くも被災)
1931年 満州事変
1936年 二・二六事件
1937年 日中戦争
1939年 第二次世界大戦
1941年 太平洋戦争
1945年 原爆投下
広島県物産陳列館が誕生した年に中国チンタオで捕えられ、捕虜としてその場に関わったカール・ユーハイムという人物は、まるで第二次世界大戦に向けて変化して行った日本の在り方に思い悩み、敗戦の前日に亡くなったのではないか。歴史の流れと彼の個人としての人生に、何か符合したり呼応するものがあったのではないかと感じざるを得ないのです。
原爆投下までとその後の広島県物産陳列館
広島県物産陳列館は、1933年には広島県産業奨励館と名前を変えながら戦争の時代の経済振興の拠点であり続けました。しかし1944年には戦争の激化により館業務は廃止され、内務省(地方行財政、警察、国土・都市計画などを所掌した戦前の巨大な省庁)などの官公庁や統制組合(昭和初期から戦時中に国家の指導で統制された産業の組合組織)の事務所として使用されることに。そして終戦の年の1945年8月6日午前8時15分を迎えます。
相生橋を目標に投下された原子爆弾は、広島県産業奨励館の南東約160メートル、上空約600mで爆発しました。建物は爆風と熱線で大破。建物の中にいた人たちは全員が即死したそうです。
しかし、ほぼ垂直方向から爆風と熱線を浴びたため、ドーム部分を中心とした建物の中央部分は残りました。
広島市のホームページは広島県産業奨励館の戦後を次のように説明しています。
戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。
当時、原爆ドームについては、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。
散発的に出ていたこの存廃論議は、市街地が復興し、被爆建物が次第に姿を消していく中で、次第に本格化し、原爆投下をどう考えるか、被爆体験や肉親などの惨事をどう伝えるか、核兵器をめぐる世界の情勢をどう考えるか等の議論と重なりをみせていきました。
原爆ドームは、昭和28年(1953年)、広島県から広島市に譲与され、ほぼ被爆後の原形のまま保存されていましたが、年月とともに、周辺には雑草が生い茂り、建物も壁には亀裂が走るなどの傷みが進行し、小規模な崩壊・落下が続いて危険な状態となりました。そのため、昭和37年(1962年)以降は周囲に金網がはられて内側への立ち入りが禁止されました。
保存を求める声が高まる中で、広島市は昭和40年(1965年)7月から広島大学工学部建築学教室に依頼して原爆ドームの強度調査を行いました。翌昭和41年(1966年)7月、広島市議会が原爆ドームの保存を要望する決議を行い、これを踏まえ、広島市は保存工事のための募金運動を開始、国の内外から6,619万7,816円の寄附金等の浄財が寄せられました。そして、昭和42年(1967年)、第1回保存工事が行われました。
「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」死を覚悟した少女が語った言葉
原爆ドームと呼ばれるようになったこの建物について、原爆による惨禍を伝えるために保存するという意見と、危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので撤去するという意見が対立する中、保存への声が高まっていく大きな力となったのは、16歳で亡くなった高校生、楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記だったと言われます。
楮山ヒロ子さんの日記
保存運動のきっかけとなったのは楮山ヒロ子さんの日記でした。
ヒロ子さん(当時1歳)は、平塚町の自宅で被爆。15年後の1960年4月5日に白血病で亡くなりました。残された日記の1959年8月6日のページには、
「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が十四年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。(中略)あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」(要旨)
と記されています。
提供:楮山国人・キミ子
楮山ヒロ子さんが残した日記に心を打たれ、いち早く保存運動を始めたのは、ヒロ子さんと同世代のこどもたちの団体「広島折鶴の会」だったそうです。12歳で亡くなった佐々木禎子さんと同級生たちを描いた映画「千羽鶴」の制作をきっかけに作られた団体です。
折鶴の会のこどもたちが原爆ドーム保存のための署名と募金の活動を始めたのはヒロ子さんが亡くなった1960年。これは広島市が保存活動を始める6年前のことでした。
原爆ドームが、見たくない戦争の痕跡から、未来に伝えていくべき「遺構」へと歩み出したのは、原爆投下時、物心もつかない1、2歳だったこどもたちが成長し、世界平和のために上げた叫び、そして祈りだったのです。
1996年、ユネスコの世界遺産に登録。原爆ドームは、人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証であり、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルです。
そして、もうひとつ強調しておきたいのは、広島県物産陳列館として生まれ101年を経た原爆ドームの歴史の最初の30年間が、日本の戦争遂行と密接に関わっていたということです。戦争と経済はクルマの両輪のようなものです。陸軍で軍都と呼ばれた広島市、海軍の根拠地だった呉市がある広島の産業は軍需と切っても切り離せません。日清戦争で大本営が置かれたことからも分かるように、広島は中国大陸で戦争を遂行する上で極めて重要な一大拠点、つまり広島の経済的発展は日本軍の活動を支えるという意味でも重要だったのです。
原爆が投下される前の広島の町に、人々の平和な暮らしがあったのは間違いないでしょう。しかし平和に暮らす人々の生活の隅々に、戦争との関わりがあったことは忘れてはならないのです。ヒロシマ、ナガサキばかりでなく、第三の原爆が落とされたかもしれないコクラ、大空襲によって焼け野原になった東京、名古屋、大阪、神戸……。
いかなるものであれ大量殺戮を肯定的にとらえようという思いは毛頭ありません。しかし、私たちが「過ちは繰返さない」と誓う時の「過ち」とは、私たち国民が犯した過ちでもあるということを、注意深く考えていく必要があると思います。
原爆ドームへの道
原爆ドームは長い歴史の中で幾度も輝きの瞬間の舞台にもなってきました。ドイツ人捕虜のカール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを焼いた瞬間もそうだったことでしょう。亡くなった少女の日記に感銘を受けた同世代の若者たちが保存運動を立ち上げた時もそう。海外からの訪問者を含め、多くの人々がこの場所を訪れ、「過ちを繰返えしてきた歴史」を思い、心に誓ってきたそれぞれの瞬間も間違いなくそうです。先月、アメリカのケリー国務長官が予定を変更して原爆ドームを訪れたこともそうでしょう。
今月27日、現職のアメリカ大統領バラク・オバマ氏がヒロシマを訪れる時間が、原爆ドームの、そしてヒロシマの新しい輝きとして付け加えられることを期待します。
アメリカ大統領が原爆ドームにやってくるまでの長い長い道のりが「ヒロシマからの道」に真っ直ぐにつながっていることを、平和をねがう人類の一員として信じたいと思います。
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