ごめんなさい。忘れていました。物心ついた子供の頃からこの場所はずっと平和記念公園で、原爆ドームまで広々と見渡せる場所だったから。
元安川と本川に囲まれたこの地域は昔から中島と呼ばれる広島の町の中心。被爆時には約6,500人の人々がこの町に住んでいたそうです。当時の住居を記した復元地図を見るとそこには、間口が狭くて奥行きがある町家風の建物が通りにそって並んでいたことが分かります。よく見ると映画館もあったようです。企業の事務所や理髪学校、医院も数軒ありました。イチョウの木、松の木、ザボンの木があった場所も復元された地図には刻まれています。
この場所は、いま目にすることができる姿とはまったく違う場所だったのです。
4年前、東北の被災地に行って、被災したお宅の、基礎しか残っていない敷地に入って写真を撮っていて、地元の方からきつく叱られたことを思い出しました。どんなに姿が変わっても、そこは自分の家。あるいは仲のよかった友達の家。幼なじみや近所の人たちと過ごしてきた場所。いくら被災して家も何もなくなったからといって、見ず知らずの人に足を踏み入れてほしくない。その真剣な怒りが、睨みつける瞳から伝わってきました。
今は芝生や街路樹に彩られた平和公園ですが、ここには人々が行き来した往来、民家、商店、そして人々の生活がたしかにあったのです。どこに何の木が生えていたかまで忘れることのできないほど、いとおしい日常があった場所なのです。
平和公園の中にはいくつか、中島町についての石碑が建てられています。犠牲になった人たちの名前が刻まれた碑もあります。被爆した直後の写真とともに、こんな文章が刻まれた石碑もありました。
中島地区(爆心地から100〜700メートル)
中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて市内有数の繁華街としてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日、爆心地から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で、建物の疎開作業のために動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。
(中島本町一帯の惨状 1945(昭和20)年9月 佐々木雄一郎氏撮影)
中島地区(爆心地から100〜700メートル)の碑文
ここ、歩かせてもらってもいいですか?
ごめんなさい、歩かせてくださいね。そうしないと、私たちはヒロシマからの道を進んで行くことができないのです。
ヒロシマからの道は、この被災地を通らせていただく先にのみ続いているのです。
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