ヒロシマからの道「13歳女学生の夏の制服」

iRyota25

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大下靖子(おおしたのぶこ)さんは県立広島第一高等女学校に通う1年生でした。その日は建物疎開作業のため、爆心地に近い土橋地区で被爆されたそうです。彼女の夏の制服が、平和記念資料館に寄贈されています。

靖子さんの遺品に添えられた説明文を引用します。

女学生の夏服とシュミーズ
大下定雄氏寄贈
爆心地から800m 土橋付近

県立広島第一高等女学校1年生の大下靖子さん(当時13歳)は、土橋地区の建物疎開作業に動員され、被爆しました。己斐(こい)までのがれていたところを救援隊に発見され、大竹の両親のもとに運ばれましたが、その日の深夜死亡しました。この夏服は自分で縫ったものです。

平和記念資料館のキャプション

多くの人々が靖子さんの遺品を見つめています。静寂の中、たくさんの瞳が彼女の人生を思い描いています。女学校1年生ということは、その年の3月に小学校を卒業したばかりです。県立女学校では例年、夏服は自分で縫うことになっていたそうです。彼女は自分の制服を縫いながらどんな未来を思い描いていたのでしょう。

彼女と同じ1年6組の生徒たちは、その全員が被爆によって亡くなったそうです。もしも存命なら83歳か84歳。原爆投下ががなかったら、彼女たちはどんな人生を送られたのでしょうか。

胸元に光るバッジには「県女」と記されています。バッジだけが輝いていることが却って痛々しく感じられます。

広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアムには、靖子さんや県立広島第一高等女学校の生徒たちの生活についての資料が掲載されていますから、ぜひご覧頂きたいと思います。

 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
www.pcf.city.hiroshima.jp  

可哀想ですか? でも可哀想だとは思わないようにしたいのです。なぜなら、可哀想と思うのは離れたところから他人事として感じることだから。平和記念資料館の入口に刻まれていた言葉に立ってしか、一歩を踏み出すことは出来ないと考えるからです。

戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。

ローマ法王平和アピール碑

靖子さんを殺したのは人間です。その気持ちを強く持ち続けてヒロシマからの道を歩いて行きたいと思います。

 広島平和記念資料館
www.pcf.city.hiroshima.jp  
 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
www.pcf.city.hiroshima.jp  
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