1杯のコーヒーの温かさ。それはコーヒーだけの温かさではなかった
神戸を目指したのは、東日本大震災から2年となる日、「がんばろう!石巻」の看板で行なわれた慰霊行事で出会った人たちのことが忘れられなかったから。
「コーヒーでホッと一息。神戸からお届けします。」とポスターが貼られた仮設のテントで無料のホットコーヒーが振る舞われていた。がんばろう看板の黒澤さんは、神戸の人たちだからこそのやさしさだと言った。同じ寒い季節に家を失い、家族を亡くした経験があるからこそ、1杯のコーヒーの温かさがありがたいと。
テントのポールに飛散防止用のウェイトが3つ重ねられているのが分かりますか?
がんばろう!石巻が設置されている門脇・南浜地区は海のすぐそば。猛烈に風が強い場所。慰霊祭に参列する人たちに万が一がないように、念には念を入れて設置されたたことを3枚重ねのウェイトが物語る。(ウェイト1個だけでも相当な重さがある)
コーヒーの温かさだけではないあたたかさ。寒風吹きすさぶ石巻で教えられた神戸の人たちのきもちを探しに西へ向かった。
高揚と悔恨の1〜2日目
大阪在住の若手パフォーマーの人と合流する予定だったのだが、どうにもスケジュールが合わず中止に。その代わりではないのだが、タカシマヤに行けば「きっと知り合いに会えるよ」と教えられて出向いたのが、大阪タカシマヤで開催中の大東北博の最終日。たしかに、知り合いの知り合いに出会い、関西と東北の絆を実感する午後になった。
(内容を追加して更新します)
「出会う、の巻」なんてタイトルの記事を書いているところからも、ずいぶんはしゃいでいたのが分かる。
その後、新快速に乗って神戸の三宮へ。御本家を見ておきたいと思っていた「希望の灯り」へゆく。灯りに記された、
「…たった一秒先が予知出来ない人間の限界…」
という言葉に、そうだよなと思った。
翌日、2日目は「人と防災未来センター」を訪ねることから始めた。まずはお勉強というわけだ。視察ツアーとしては定番のコースみたいなもの。
その定番コースで思いっきりぶん殴られた。殴られたというのは尋常ではないが、根っこを揺さぶられる衝撃だった。
「…たった一秒先が予知出来ない人間の限界…」
ここはそのことを教えてくれる場所だった。
1、2時間さらっと見て回ってお勉強して、それから新長田へ行って、なんてプログラムは吹っ飛んだ。まる1日いても足りないほどだった。順路の途中から、もう一度立ち返って見直したいという思いにかられたが、ところどころに順路を逆行することを諌める表示もあったので、次の機会にもっとしっかりと心に期す。
気づけば昼ご飯を食べないままだった。元町に移動して南京町で遅めのランチをとる。町は…やはり賑わいの中にある。
元町から三宮あたりを歩いていて、神戸市役所の「備えとう?」に行き当たる。
さらに歩いて、メリケン波止場の「神戸港震災メモリアルパーク」へ行く。
予定していた新長田へはたどり着けなかったが、たくさん揺さぶられる2日目だった。
新長田へ。喫茶店を訪ねる旅
2日間で気分はまるでジェットコースター。アップ&ダウンを繰り返していた。3日目は早朝から歩いて新長田へ向かう。途中、新開地近くの旧・三菱銀行前を通りかかる。この銀行は震災当日、パンケーククラッシュと呼ばれる、途中階が潰れるような崩壊をして、全国的に有名になったところ。21年前、西宮駅で輪行バッグから自転車を取り出して神戸の町を走った時、ここまでは来て写真を撮った場所。
周辺の瓦礫がなくなって道が広がっていることや、ビル自体が階数を減らして再建されたせいもあるのか、記憶と現実が一致しない不思議な感覚だった。
「銀行さんは撤去や再建が早かったからね。大切なお金を扱うからというより、被害自体をなかったことにしたかったやないかなあ、信用とかいろいろあるでしょ」
震災の翌年かその次の年、聞いた話を思い出した。
そこからほんのお散歩程度の距離を歩くと長田区だ。ただし、目的地は新長田駅周辺だったから、道を南に折れてまた西に折れてとジグザグに進んでいく。途中、ケミカルシューズの工場(こうば)が残る地域も通った。古い神社や昭和の香りのする住宅や路地も残っていたくらいだから震災の影響はそれほど大きくなかったのかもしれない。しかし、なぜか工場はどこも震災後に立て替えられた建物だった。どの工場にも、壁や窓に従業員募集の張り紙が張り出されていた。
ケミカルシューズというのは、オール革靴以外の一般的な靴のすべてを指す呼び名で、アッパーが革でも靴底がゴムや合成樹脂というものも含め、スポーツシューズや通勤靴、合皮の革靴まで含んでそう呼ばれているということを今回の神戸旅行で知った。その上、神戸にはオール革靴のみを扱うお店も少なくないということも。
大阪の「食い倒れ」は有名だが、京都は「着倒れ」、そして神戸は「履き倒れ」というのだそうだ。ノーシューズ・ノーライフ。ファッションの都、神戸にあって履物は極めて重要な位置を占めていた。その工場が神戸市西部の長田区に集中していたというわけだ。
化学繊維や樹脂が火に弱いのは言うまでもない。だからこそ、阪神淡路大震災での火災被害が甚大だったという解説もいろいろな場所で耳にした。
さて、そろそろ新長田駅も近づいてきた。特徴的な新開発ビルの姿も視界からはみ出すほどに近づく。しかし、それでも町の賑わいは感じられない。このあたりは三宮や元町とはまったく違う。震災前には神戸の西の新都心として再開発する計画もあったという、賑わいの中心地というべき土地柄だったのに。
商店街に入っての印象は3カ月前と大きく変わりなかった。駅前周辺の複合ビルには全国ブランドの商店が入居している。駅に面したいくつかの商業ビルの先、具体的にいうと、地元商店が入っている再開発エリアのうち新長田駅に近い「一番街」と呼ばれるエリアでは、三宮や元町の20分の1程度ではあるものの町に活気や賑わいが感じられる。
しかし、国道を渡って「大正筋」に入るとひと気がどんどん減っていく。シャターをおろした店舗も多い。「都合により休業」なんて張り紙が出されている場所もある。さらに進んで大正筋に交差する「六間道」まで行くと、シャッターが下りている店と開いてる店の割合が8.5対1.5くらいになる。
ほんの3カ月前に訪れていたものの、この現実には悄然とならざるを得なかった。神戸で復興を遂げているのは三宮や元町のような中心商業エリアだけなのではないかと。
寂れに寂れた雰囲気の商店街で店を開けていた喫茶店に入った。目的はもちろん、東北の被災地にコーヒーのサービスに出掛けている人たちの消息を尋ねること。
10時過ぎの店内にお客さんはいなかった。震災当時どころか高度成長期の町の喫茶店の成れの果てといった雰囲気だった。別に悪い印象ということではない。年配のマスターとママさんがいらっしゃいと迎えてくれる。メニューも豊富だし、しかも値段は20年前の水準。そして、注文をとって、注文の品を出すと、あとは夫婦でテレビのワイドショーに見入っているっていう感じ。70年代のATG映画の世界がそのまま年をとったような空間。
ワイドショーの感想をぶつけ合うご夫婦の会話に割り込ませてもらって、少しおしゃべりはしたものの、「どこからおいでたの?」くらいなもんで、それほど盛り上がるでもなく……。
それでも震災の話を切り出すと、特別なスイッチが入ったような感じでお二人が話しはじめた。
「うちはお店をやっているから、建物に時々は手を入れていたんです。それが良かったんでしょうね。地震で倒壊するということはなかった。でも同じ筋でもひどく傾いてしまったところもありましたよ。とくに酷かったのは1本北側の通りです。その辺までは火災でもやられてしまいましたしね」
「震災の日は朝の5時過ぎから店を開けていたから、お客さんもいたし大変だったんです。私らの店も、所どころ痛んでいるんですよ。ほら、その壁と柱の間の隙間とか、震災でできたものです。でも倒れることもなく、その後すぐに営業を再開することも出来ました」
「最初の数日は避難所のお世話にもなったけど、お店は大丈夫だったから、水道が開通してからは開くことにしたんです。そしたらありがたがってもらえてね。避難所っていってもプライバシーがないから、おしゃべりするのにも気兼ねせなあかんでしょ。ここにくれば、昔と同じようにおしゃべりできる。居場所っていうんですか、喫茶店って大切な場所だったんだと今にして思います」
震災以前と変わらない場所としての「意義」が喫茶店にはあったということらしい。その意義は震災から21年が経過した今も続いているのか、現在でも早朝から店を開けているとか。お客さんはほとんどが常連さんみたいだ。
――と、そんなことを考える間もないくらい、お二人、とくにママさんの話は止まらない。どこの家の何々さんがどうされたとか、火災に遭わなかったお店や本町筋みたいな商店街が、震災直後の人々の生活や気持ちをいかに支えていたかとか。いつまでもいつまでも話は続いた。
しかし、3月11日の東北でコーヒーのおふるまいをしてくれた人たちに関しては、
「それは聞かんな。う〜ん、ごめんね、分かりまへんのや」
しかし、その代わりに、「遠いところからわざわざ来てくれてありがとうね。また来ることがあったらぜひ寄って下さいね」と優しい言葉をかけてくれるのだった。
次に入ったお店もその次に入った店も同様だった。お店に立っているのはかなり年配の方。そして震災当日は、すでに店を開けていたか、開ける準備中だったかという状況。阪神地方では、出勤前に喫茶店でモーニングサービスを食してから電車で会社に向かうというスタイルが、1995年当時でも一般的だったらしい。あの日の神戸の町には昭和の時間が流れていた、そんなふうに考えてみると町の様子が具体的に思い描けるような気がした。
入ったお店に共通するもうひとつは、「うちはギリギリ大丈夫だったのよ」という話だ。阪神淡路大震災の被害状況はきわめて局地的で、粉々になって崩壊している家の隣がほとんど無傷だったりもした。建物そのものの強度もあるだろうが、それ以上に、場所によって揺れの大きさにかなりの偏りがあったと分析されている。
東京など他の地域では個人営業の喫茶店はほとんど見られなくなったが、神戸に比較的たくさんの喫茶店があるのは、モーニングサービスなど喫茶店文化が根付いていたこと、そして震災を乗り越えた店主たちが廃業することなく、たとえ細々であっても仕事を続けてきたことが大きいということらしい。
どの店に入っても、震災を乗り越えたご高齢の経営者と震災を免れた建物という組み合わせがほとんどだった。
たまたま震災の被害が少なくて生き残った喫茶店は、店主が元気でいる限り今日でも営業を続けているということだろうか。昭和の時間のその流れの中で。ちなみに今年2016年は、昭和でいうと「昭和91年」だ。
コーヒーなどの飲み物ばかりで、いい加減お腹がたぽたぽになってきた頃、新長田の西隣の鷹取駅に向かう途中でコーヒーの焙煎店の店頭に「店内でお飲みいただけます」との看板を見つけた。
中に入ると、「実はね、去年まで隣の喫茶店もやっていたんですが、先日閉めましてね。焙煎の仕事一本でやっていくことにしたんです。でもせっかくいらっしたんですから、狭いところですがどうぞ」と焙煎工場の事務所で深煎りの美味しいコーヒーを頂きながら話を聞かせてもらった。
「長田はケミカルシューズが地場産業で、とくに線路の北側は工場(こうば)ばっかりだったんです。でもどの工場も手狭で、応接室とか会議室なんかなかったので、お客さんが来たり、会合を開く時には近所の喫茶店を使っていた。それが土地の文化だったんです。だから喫茶店もずいぶんたくさんありましたよ」
神戸といえばコーヒーというイメージが強いのは、大手のコーヒーメーカーの本社があるからということだけではなく、地元の生活と密接につながっていたからなのだ。東京や全国各地(名古屋圏を除く)で喫茶店が衰退していく中、いまでも神戸に多くの喫茶店が存続しているのは、地域の人々の生活の一部となっていたからなのだ。
「でもね、震災から後はダメですよ。ウチのお客さん、つまり喫茶店の数は激減しましたし、最初の頃はね、ウチも新長田の仮設商店街にお店も出して、地元の人たちにお応えするんだと頑張ってましたが、とても立ち行かない。だから焙煎と卸しに商売を絞ることにしたんです。それが今年のこと」
21年がんばってきて、その上での方向修正。
「まあ、時代というものなんでしょうからね」
もちろん震災が大きなきっかけだったのは確かだが、それだけではない。町は変わっていく。変わらずに残ったところにも、21年という時間の経過がのしかかっている。
コーヒー豆の卸という仕事柄、東北にコーヒーを届けている人の消息が分かるのではないかと密かに期待もしていたのだが、「いや、聞きませんね。喫茶店関係のことならたいてい話は入ってくるんですけどね」ということだった。
「向かいにね教会があるんです。外国の方もよくいらっしゃるんですが、東北の支援に力を入れられているから、そこで聞けば何か分かるかもしれませんよ」
神戸の喫茶店文化について、お客の目線とは角度から教えてもらえた。自家焙煎のコーヒーは香しくてとても美味しかった。お隣の直営喫茶店が存続していればさぞかし…とも思ったが、その先を考えることにはブレーキをかけた。
アドバイスされた鷹取教会の門をくぐった。教会の敷地内には震災後の活動を展示した部屋もあって、そこには石巻や大槌での新台湾壁画団の活動を紹介する資料もあった。神戸と東北が確かにつながっているエビデンスともいえるものだったが、残念ながら担当者が不在ということで詳しい話は聞けずじまいだった。
ここに「つながり」があると知りながら、それを深めることができないことに、なんとも行き場のないものを感じた、(教会には後日またお邪魔する)
ただ、コーヒー焙煎店で話を聞きながら思ったことがあった。それは、喫茶店巡りを続けてたとえ「その人」に行き会うことができたとして、その人が「はい、私です」と言ってくれるだろうかという疑問だ。おそらく、「分かりまへんな」と微笑しながら応えるに違いない。石巻で名前を伏せている人が神戸で名乗り出てくれるとは思えない。
もうひとつ現実的な「無理」も感じていた。たしかに神戸には今でもたくさんの喫茶店があるが、その多くは昔ながらの店を高齢のマスターやママさんが守っているというスタイルだ。人数は減っているにしても常連客のために今でも早朝から店を開けるような喫茶店だ。そんな喫茶店の店主たちが果たして東北に行って活動できるだろうか。
新しく建て替えられた家々が並ぶ鷹取の町、そして駅前商店街を見て回って、この日はホテルに戻ることにした。帰りの電車から鉄人の後ろ姿見える。パンチするように伸ばした腕が、何か目に見えないものに抗っているように見えた。
神戸は復興したのか? 東北に復興はあるのか?
翌日も徒歩で新長田へ向かう。ルートは海沿いを選んだ。まずはウオーターフロントの再開発地「ハーバーランド」に向かう。ハーバーランドは神戸港沿岸の再開発のうち西側の核として建設された場所で、大きなショッピングモールと公園を複合した施設。観覧車がまわるデッキの上からは、ポートタワーや海洋博物館などメリケンパークが一望できる。
開店して間もない時間だったにも関わらず、ハーバーランドにはたくさんの人が訪れていた。観覧車の側にあるアンパンマンランドにはこども連れの家族が続々と入場していく。
これから再開発が進められていく東北のことをダブらせて想像してみた。かさ上げされた土地に建設される商業施設に、果たしてこんな賑わいがやってくる日があるのだろうか。自問への答えは否定的なものだった。
たとえば陸前高田では新しい商業エリアのショッピングセンターの側に図書館を持って来るらしい。それもアメリカ生まれのコーヒーショップを併設するタイプの図書館になるという噂だ。買い物だけではなく、町なかに人がいてくれる時間を増やすのが狙いだというけれど、その目玉はスタバ(かどうかは分からないが)。
神戸に造られた新しい町のような復興を求めるには、町としての基本的な条件に差がありすぎる。目指すべきものは、少なくともハーバーランド的なものではないだろう。
では、どんなものなのだろう――。
ハーバーランドから海沿いの道を歩いて新長田を目指した。歩きながら考えた。でも答えを見つけるのは難しい。沿岸部には川崎重工や三菱重工の大きな工場(こうじょう)や卸市場が並ぶ。ところどころに震災の被害を免れた下町の町並みが残る。店内で飲み食いできる駄菓子屋さんもある。「この辺は本当に下町ですからね。でもご近所はお年寄りばかりになってきたけれど」。そんな話も聞いた。
ハーバーランドのような華やかな場所が成り立つのは、神戸にたくさんの人々が暮らしてられるからだ。ただ、ジンコウコウセイは変化していっている。キツイ話だがたとえば20年後、お昼前に駄菓子屋の店頭を眺めながら散歩していた人がいるかどうか。重工会社でばりばり仕事している人たちがリタイアした後、居場所があるのかどうか。
東北だけの問題ではないといつも思っていたが、神戸でもそれは当然の問題として存在していた。意識している人がいることも後に知った。ただ、全国的に知られることがなかったというだけのこと。
新長田では喫茶店巡りを続けた。震災の話になるとスイッチが入ったようになって、21年前のことを話してくれるという状況はどの店も同じだった。
「火事はね、店の前のこの通りで止まったの。恐かったのよ、火の手が早くてね。商店街の中の電線を火がサーッと走って、どんどん燃え広がっていった」
「うちは新長田の駅北とここと2軒で喫茶店をやってたんだけど、どちらも6時開店。私はこっちの店の準備、夫は駅北の店で準備中に地震が来た。こっちは大丈夫だったけど、夫の方は店が倒壊したところに火の手が襲ってきて、近所の人にやっとのことで引っ張り出された。ただ足に大怪我していて、病院に行ってもなかなか手当をしてもらえなかった」
21年――。時間が流れても記憶が消えることはない。ちょっとしたきっかけ、たとえば震災のことを質問されるとかすれば、話が止まらなくなる。
喫茶店を訪ねて話を聞いてまわるその度に、「東北と同じだ」と感じていた。阪神淡路の震災の方が前に起きたことなのだから、実に逆立ちした感想なのではあるが。
その日も喫茶店を巡り、震災の話を聞き、東北のことを尋ね、「いやあ分かりまへんな」との答えをいただき、さらに「ホントは私たちも駆けつけたいのだけど、いっぱいいっぱいですから」とか、「行けなくて申し訳ないと思っているんですよ。3月11日に長田からコーヒーをね、そうか、そんな人がいるんですか。ありがたいなあ」といった声も聞かせてもらった。
そんな4日目の昼下がり、新長田の駅北で入った喫茶店、そこはまだ若い女性がやっている店だったのだが、石巻のコーヒーの話をすると、「聞いたことあるわ」と返事が返ってきた。ぱっと光が灯った感じだった。居合わせたお客さんも、「そうそう、たしかね」と情報を下さった。
「たしかね、シューズプラザの3階だかにいる人か、それか町づくり会社の誰だかが関わっているって聞いたことがあるわよ」
シューズプラザは長田の町で造られた靴の販売を行なうだけでなく、全国のバイヤーとメーカーをつなぐビジネスマッチング機能も併せ持つ施設。さらにテナントとしてNPO団体も入居している。情報をもらった喫茶店のすぐ近くだったので駆け足で訪ねてみたのだが、オフィスが入居しているフロアはすべて普通の事務所で、すべてドアが閉ざされている。
そのうちの1軒にノックしてドアを開けて事情を話す。
「いやあ、そんな話は聞いたことがないですなあ」
それでも、対応してくれた男性はオフィスから出てきて、「ご覧の通りこのフロアは靴のバイヤーさんとかデザイナーさんとかの事務所ばかりなんです。上の階に入っているNPOさんなら知ってるかも」と、NPOのオフィスまで案内してくれて、そこでもやはり「ここではそんな話は聞きませんね」ということになり、一緒に頭を捻って、「やはり、まちづくり会社で尋ねてみられるのがいいかもしれませんね」という話になった。
さらに1階まで見送ってくれ、「お力になれなくてすんません。お気をつけて」とまで言って下さる。神戸の人のあたたかさに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
駅北からガードをくぐって、一番街、大正筋と続くアーケード街に戻りまちづくり会社を訪ねる。再開発ビルの中にあるオフィスのインターフォンで要件を説明すると、やがて打ち合わせブースに通されて、担当者を呼びますからと伝えられた。
しばらくしてブースにやってきた「担当者」とは、新長田まちづくり会社の宍田社長だった。
宍田社長はこちらの説明を聞いた後、何度もうなづきながらこう言った。
「本当に、そういう方が長田にいて下さるのはありがたいことです。私自身も駆けつけたいという気持ちは強いですけど、地元がまだこんな状態ですからね、行きたくても行けないというのが正直なところなんですよ」
そして続けて、
「可能性があるのは2人ですね」と、石巻や東北でコーヒーなどのおふるまいをしているグループの候補を2つあげてくれた。それぞれの人たちがどんな活動をしているのかも詳しく教えてくれた。
「ただ、私も知らないんです。間違いなくそのお二方のどちらかだとは思いますが、実際に3月11日にコーヒーを届けに東北に行ったのが誰なのかはね」
その言葉を聞いて悟った。そもそも自分は、3月11日にあたたかいコーヒーを東北まで届けてくれた人たちを見つけ出せたとして、その人たちに何を話すつもりだったのか。
ありがとうございます――?
考えてみれば、それはおかしな話だ。21年を過ぎた神戸、そして5年を過ぎた東北。そんな時期に神戸を訪ねて私がその人たちに言いたかったのは、ごく個人的な「ごめんなさい」だったのではないか。21年前、ずっと続けなければと思い、周囲の人たちにも宣言したにもかかわらず、3年目の後、「神戸の件はもうそろそろにしようか」と編集部の人に告げられたのを受け入れて、その後は個人としてすら訪ねようとしてこなかった。そのことを、神戸の誰かに許してもらいたかっただけなのではないか。
名も告げず、尋ねても答えてはくれず、それでも東北を訪ね続ける温かい神戸のコーヒーの人たちに、どのツラさげて会えるというのか。
いちおう、照れ隠しのような気持ちで、「神戸に来れば、きっと東北を訪ねてきた喫茶店経営者の有志みたいな方に出会えると思ったんですけどね」と言うと、
「それはありえないですね。あなたも町の喫茶店を回られてお分かりでしょう」
そうですね、としか答えられなかった。宍田さんが教えてくれたお二方は、どちらも喫茶店関係ではなく、公に近いところでボランティア的な活動している人たちだった。たとえ訪ねていっても「分かりませんな」とシラを切られることも予想できた。いや、そんなことより何よりも、宍田さんが最初に言った「行きたくても行けないというのが正直なところなんですよ」という言葉の方がヅシンときた。
温かいコーヒーで何かを伝えてくれたのは誰、ではなく、おそらくすべての人たち。それが答えだった。阪神淡路大震災で酷い目にあった人たちの多くが、いままさに同じ状況に置かれている東北の人たちに心を寄せている。
しばらく沈黙が続いた後、「せっかくお会いしたんですから、何かもう少し話しますか」と宍田さんは言ってくれた。
自分はその言葉に、まるで取材記者みたいに乗っかって切り返した。
「新長田の復興はうまく行かなかったのではないかという声が多く聞かれますが」と。個人としての自分は意気消沈しているのに、どうしてこんな言葉が口に出来るのか不思議だった。
でも宍田さんもそう問われるのを待っていたのかもしれない。あの報道には参りましたよと頭をかくような仕草を見せながら、新長田の現状について話してくれた。
マスコミが新長田の復興事業は失敗だといっせいに叩いたのには困り果てた。とくにNHKの報道が痛かった。
新長田の再開発は決して失敗はしていない。
シャッターを下ろしているお店はあっても、空き店舗ではない。それぞれの事情があって開けていないだけ。
その一方で、従来のやり方では難しいと肚を括って、専門店としての強みを出すことに真剣に取り組んでいる商店も少なくない。
商店主の年齢の問題ではなく、この土地ならではの新しい商売のやり方にチャレンジしようという動きは確かに高まっている。
三宮や元町のようなスタイルでやっていこうとしても難しい。新長田には新長田だからこそのやり方がある。
下町芸術祭もまちを元気づけるきっかけになっている。鉄人28号ももちろんそうだ。あのモニュメントが出来たことで、広場を会場としたイベントがたくさん行なわれるようになった。
復興の過程では新らたな課題が次々と明らかになっていく。ひとつステップを乗越えたと思えば、そこで新たな課題がいくつも発生する。それを解決していくことでまたもうひとつステップを上れる。するとまた新たな課題が出て来る。復興とはそういうものではないか。
久しぶりに取材者のような口ぶりで話を伺いながら思ったこと。それは21年という時間だ。
三宮や元町辺りの賑わいを外から眺めている目線では、神戸の復興はとうの昔に成し遂げられたかのように思えていた。しかし現実はそうではない。神戸の町の中心地とは異なる事情はあるものの、21年経ってた今もまだ、新長田は復興の途上にある。それどころか、何を指して復興と呼べるのかさえ明確ではない状況なのかもしれない。
「本当なら東北に駆けつけたいとが、地元がまだこんな状態ですから、行きたくても行けない」と、まちづくり会社の社長さんが言うのが21年後の新長田の実際なのだ。
人にはそれぞれ意見や考えがある。だから何かひとつのことを評価するにしても、賛否はもちろん多種多様な意見が噴出する。ましてや震災復興を経験した人などいなかったわけだ。問題なくスムーズに事が運ぶわけがない。
さらに言うなら、復興などというものは、なにか「これが復興です」というような目に見える何かがあって、それがある日まるまると十全な形で、ポンと出現するようなものではない。
宍田さんの言うように、ステップをひとつのぼればそこに新たな課題が現れて、その解決に力を注ぐうちに、別の問題がまた現れる。その繰り返しの中で少しずつ進めていくのが復興ということがらの実体なのかもしれない。課題が現れるたびにマスコミに叩かれる。叩かれてもやっていくしかない。長年ずっと町に関わってやってきた宍田さんの人生は、柔和な表情からは想像できないくらい厳しいものだったのかもしれない。
21年。もう一度、その時間を思う。
もう少し自分の中で問題を整理した上で、改めて宍田さんには会いにいきたいと思う。しかし、問題を整理するということ自体が、とても困難なこと。復興とは答えのない道なのかもしれない。
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