【遺構と記憶】神戸の壁のベンチ

iRyota25

公開:

1 なるほど
3,268 VIEW
0 コメント

現代アートなのかと思ったら、それは震災遺構だった。

設置されているのは、神戸市中央区の海辺に震災後に新たに作られた街、HAT神戸にある「人と防災未来センター」の前。プレートにはこう記されている。

「神戸の壁」ベンチ

1927年に建てられた新長田・若松市場の防火壁が阪神・淡路大震災で残り、「神戸の壁」として保存されることとなった。
この壁の基礎を造形した一部が神戸の壁保存委員会代表の三原泰治氏から「人と防災未来センター」に提供され、これを活用して、ベンチを製作した。

「神戸の壁」ベンチの説明プレート

2回の大火を乗り越え、焼け跡に立っていた防火壁

新長田の若松市場は新長田駅の南側にあった。昭和2年に建てられた防火壁は、昭和20年の神戸大空襲と平成7年の阪神淡路大震災という2つの大火災を乗り越えて、大震災後の長田の街に立っていた。「神戸の壁」保存運動の中心人物であり現代アート作家の三原泰治氏が、この壁の所有者を探し出したのは、壁が解体される数日前のことだった。所有者は解体延期に同意してくれた。

大震災の年の年末、三宮では「ルミナリエ」が始まった。魂と追悼、街の復興を祈念する催しだった。神戸の壁では、ルミナリエ終了日から壁のライトアップを開始した。神戸の壁前の広場は、市民の集いやアーチストの発表の場となった。そこは震災を受け継ぐ場所でもあった。

しかし、市街地再開発工事の開始が1998年1月に決定。現地での保存や震災記念公園への移設、他の町や市への委譲が検討されたが、受け入れを申し入れた淡路島の津名町に移設されることになった。解体されこの世から消えてしまうことは免れたものの、現地での保存を切望していた人々の気持ちはいかばかりだったことか。

壁の移設工事は1999年3月に始まった。津名町移設のため壁が撤去された後、三原氏は壁の基礎部分を掘り出して切断、「神戸の壁ベンチ」を制作した。人と防災未来センターに設置されているのは、4つあるベンチのうちの1つである。

「神戸の壁ベンチ」については「阪神大震災から10年 未来の被災者へのメッセージ」に三原氏が寄せた一文にその経緯が記されている。

 「阪神大震災から10年 未来の被災者へのメッセージ」10-030
www.npo.co.jp  

神戸の壁は2009年、淡路市小倉の北淡震災記念公園に再移設され、野島断層保存館などとともに阪神淡路大震災の記憶を後世に伝えている。

 神戸の壁 | ほくだん
www.nojima-danso.co.jp  

移設の約70年前に造られ、震災後は4年間にわたって神戸の人たちとともにあった壁は淡路島に移っていった。それでも神戸の人たちは、土から掘り起こされたコンクリート基礎をベンチとしてよみがえらせた。

震災遺構である「神戸の壁ベンチ」は同時に、記憶をつないでいくことについて私たちに問いかけ続ける現代アートでもあったのだ。

震災遺構を街のシンボルにするということ

コンクリート基礎から4つ制作されたベンチの残り3つは新長田にある。駅前から続く歴史ある商店街を再開発ビルによってリニューアルした「アスタくにづか」、その一・二番館の地下通路にひっそりと置かれている。

地下通路に置かれた「神戸の壁ベンチ」
地下通路に置かれた「神戸の壁ベンチ」

ひっそりと。まさにこの言葉がぴったりだ。ベンチが設置された地下通路の先には、通路の両側のショーウィンドウに新長田の町の歴史や防災情報の充実した展示もある。神戸の壁についての詳しい解説もある。

アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」解説
アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」解説

しかし、雨の日であっても人通りは少ない。濡れずに駅まで行ける地下通路であるにも関わらずだ。新長田駅を出ると鉄人28号への案内表示はそこかしこにあるが、神戸の壁ベンチへの案内はない。

冷遇。そんな言葉が思い浮かぶ。

神戸の壁が震災遺構としての要件を満たしていたことは間違いない。壁がまだ新長田に立っていた頃から人々が集う場所であったこと、記憶を伝える活動がさまざまに繰り広げられていたこと、そして淡路島から移設のオファーがあったことがそれを物語っている。

それでも神戸の壁は新長田の町に残されなかった。

震災の遺構とは、災害の記憶を後世に伝えるものだ。伝承していくためには多くの人に来てもらわなければならない。たくさんの人がそこを訪れるということは、遺構がまちのシンボルになることを意味する。

神戸の壁が新長田に残されることなく、遺構をモニュメント化したアートであるベンチでさえ地下通路のすみに追いやられていることは、神戸の壁が新しい新長田のまちのシンボルとして選ばれなかったことを示しているのかもしれない。少なくとも、結果としてはそういうことになりそうだ。

それでも神戸の壁をコアに、震災を語り継ぐ活動はいまも続けられている。

アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」のショーケース
アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」のショーケース

ショーケースに展示された1枚のペーパー。「形・物で伝承」と記された文章は、活動の宣言文とも読めるものだ。

今後「神戸の壁」が震災の語り部として生きるとともに、文化、平和のシンボルとなって、神戸と淡路島から発信し続けます。

2005年12月

リメンバー神戸プロジェクト 神戸の壁保存実行委員会
代表 三原泰治

アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」ショーケースに展示されたメッセージ

歌をとおして、言葉をとおして、アートやさまざまな活動をとおして。神戸のまちに残されたベンチは、伝えたいと切望する気持ちの象徴なのだ。

アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」ショーケースの中のメッセージ
アスタくにづか地下通路の「神戸の壁ベンチ」ショーケースの中のメッセージ

震災遺構とは何なのか。壊すのか、残すのかだけではない、もう一歩踏み込んだ意味を、新長田の町から消えた神戸の壁は語りかけている。

神戸の壁に関連する新聞記事のリンク

 神戸新聞NEXT|淡路|「神戸の壁」テーマの歌詩を紹介 淡路でパネル展示
www.kobe-np.co.jp  
 神戸新聞NEXT|社会|震災の記憶継ぐ「神戸の壁」ライトアップ 淡路
www.kobe-np.co.jp  
 (3)爪痕消え去った神戸 「見て訴えるものがないと風化する これでよかったのか…」 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
www.yomiuri.co.jp  

最終更新:

コメント(0

あなたもコメントしてみませんか?

すでにアカウントをお持ちの方はログイン