落語界一の高身長、林家木りんさんの身長はなんと192cm。頭ふたつ分くらい違う風貌はまさにキリンさんのようで目を奪われます。初の著書「師匠!」(文芸春秋社)を今春刊行予定。生まれも育ちも浅草で、相撲部屋がご実家というユニークな家庭環境。林家木久扇師匠との馴れ初めをはじめ、落語界を担う若きプリンス木りんさんに噺家に大切なことをお聞きしました。
林家 木りん(はやしや きりん)
1989年東京浅草生まれ。2009年林家木久扇に入門、2013年二つ目昇進。父は元大関・清國勝雄。身長192cm。趣味は相撲、野球、読書、競馬、空港見学、日本史、マラソン(ランニングアドバイザーの資格を持つ)。
野球少年が落語に衝撃を受けて。
――すごく背が高くて立ち上がってご挨拶すると思わず見上げてしまいますが、小さな頃から背丈はお高かったのですか?
小学6年生の時は162~3cmでしたが、中学でぐんぐん伸びて中学3年生の時は182~3cm。3年間で20cm伸びた。体が大きいのは遺伝でしょうね。ちゃんこ鍋を食べたり、アミノサプリや牛乳はよく飲んでいた記憶があります。幼少期から小学1年生までは目立ちたがりで恥ずかしいということがなかったのですが、小学2年生頃から高校2年生頃まで、恥ずかしいから目立ちたくない!という気持ちが強い子でした。
――192cmもおありで何か背丈をいかしたスポーツをされていてもおかしくないと思いますが、小学生の頃はどんなお子さんでした?
算数と理科が好きでした。国語の漢字テストは苦手でいつも赤ばかり。小テストでは何とか合格できても、大きなテストになると漢字が書けませんでした。あと苦手なのは跳び箱。小4まで飛べませんでした。足も遅かったので駆けっこも苦手でしたけれど、小5から目覚めてスポーツができるようになりました。両親はやさしくて、特に母はしっかり者。僕はひとりっ子でしたが、よくモノを落とす子だったので叱られてばかりでした。
――落語家を目指されたきっかけは?TVのご長寿番組「笑点」でもおなじみの木久扇師匠ですが、素顔はあのままで?
落語は好きではなく、むしろバカにしていたくらいでした。高校生の時に「芸術鑑賞会」という学校行事があって、落語を鑑賞する機会がありました。その時見たのが、後の僕の師匠、林家木久扇でした。これが予想を遥かに超えて、落語のおもしろさを初めて知りました。師匠はほぼ、あのままです。おもしろければいい!という。素顔はしっかりしている面もプラスアルファされています。その時の体験が心にあったのは確かでしたが、まだ高校生の頃は落語家になろうとは思っていませんでした。
――高校生の頃、地元浅草でモデルにスカウトされたという経歴もお持ちのようですが。
今よりずいぶん痩せていたのでモデルのお仕事をアルバイト感覚でしたが少しだけ。僕は中学受験をして私立中高一貫校に通っていて中学は野球部3年間。高校でも地元の野球チームに所属してポジションはピッチャーでした。うまかったというより、肩が強かった。勉強は、中学時代ビリから数えたほうが早いくらいでしたが、高校2年生の時、26歳の美人の先生が担任となって、先生にどうしたら好かれるだろう?と考えて、とりあえず先生が教えてくれる日本史を必死に勉強して、モチベーションがあがってそれ以外の成績もみるみるうちに上がりました。そういう人との出会いは、いつも恵まれています。
木久扇ラーメン販売が入門試験となって。
――ずっと野球一筋でこられて、大学生になってからまたさらに出会いがおありだったとか?
僕が大学2年生の時に「笑いが一番」というNHKの番組があって、たまたま観ていたら落語家協会会長の柳亭市馬(りゅうてい・いちば)師匠が出演されていて10分落語というコーナーで相撲行司の声を真似ていました。「へー、落語ってこんなモノマネもするんだ!」と、古典落語というものを話すイメージがあったものですから驚きました。実家は相撲部屋なので身近なネタでしたし、こういうので笑ってくださるものなんだな、と。
――相撲も落語も日本の伝統芸ですが、何がきっかけで入門なさることに?
そもそも父と、木久扇師匠が昔からの友人でした。ある日、木久扇師匠を浅草でお見掛けした時に、今しかない!と思って「落語家になるにはどうすればいいでしょうか?」と唐突でしたがお声掛けしました。すると師匠から「では作文用紙3枚にその思いを書いて、事務所に送ってください」と言われました。作文用紙3枚って、つまり1200文字ですね。
――どんなことを1200字に綴られたのですか?
正直、そんなに書くことはありませんでした。だって入門したいだけでしたから。笑わせたいけれど、お笑い芸人になりたいとは思っていませんでしたが、落語のことも詳しくはよくわからずにいましたので、とにかく師匠を褒めまくりました。師匠のようになりたい!と。重複している言葉もたくさんあったと思います。でも、それですぐ入門できたわけではなく、そこから半年くらいはまったく返信なく過ぎました。
――それでもあきらめずに待ち続けてこられて、どういう展開になったのですか?
2009年の正月1月1日の早朝に公衆電話から僕のケータイに一本の電話が掛かってきました。誰だろう?と思って出たら「もしもし僕です」と。え?ボクって誰だろうと最初わからずにいたのですが、声が木久扇師匠なので「木久扇師匠ですか?」と聞くと「そう僕、僕」と。で、今から浅草演芸ホールに来られるか?と。行きます!とふたつ返事で行くと、木久扇ラーメンが山積みされていて「これ売ってくれる?」と。嫌とは言えず(笑)、一生懸命に正月3日間木久扇ラーメンを売りました。それが、入門試験でした。
話術とネタ、キャラや見た目も大切。
――師匠によって入門試験は違うと思いますが、ラーメン販売でテストされたのはユニークでしたね!それからどんな生活になったのですか?
普通では考えられませんよね(笑)。とりあえず入門できて、半年から一年近くは見習い期間となります。その時に「木りん」という名前は頂きました。見習いは師匠の家に毎朝通って掃除、師匠の身の回りのお世話。楽屋入りをして着物を畳む練習、太鼓の練習、お茶の出し方、気の使い方など一通り学びます。それが済むと前座へ。僕が入門したのは二十歳の時でした。
――それは厳しいしきたりがありそうですが、ご実家が相撲部屋をされていらしたからちょっと似ている点もあったのでは?
そうですね。相撲部屋ではお弟子さんたちがいろいろされるのを見ていただけでしたが、今度は自分がする番となったので何となく自然に立ち居振る舞いができたのはありがたかったです。見習い半年と、前座4年間を経て、2013年24歳で二つ目昇進となりました。二つ目になると仕事の時だけ師匠のもとへ通い、あとはすべて自分でやります。僕は自信家ではなくて、控えめなタイプ。ただ、会社員になる自分は、思い描けなかった。毎日違う時間帯で生活をしたいと思っていましたが、無いものねだりで、今そういう生活になってみるとレギュラーがほしい!と思うわけです。
――見習い、前座、二つ目と順風満帆にこられたように思いますが、そこには見えない努力もおありだったわけですね。
噺家という仕事は難しくて、どんなに話が上手でも笑わせられないこともある。笑いに必要なのは、話術とネタだけでなくキャラクター。それと高座に上がった時の雰囲気とか見た目でしょうか。僕は師匠木久扇があのような方なので、自由にできた。もしも古典落語を大切にされている師匠なら、何かのフォーマットに従わなければならなかったかもしれません。確かにそれは基礎で必要なことではありますが、僕にとっては木久扇だったからこそよかったと思えることがたくさんあります。
――そういう出会いがあってこそのプロの道ですね。では最後に2018年、どんなことを目指していかれますか?
師匠は、噺家ではありますが商人の才もある方。とにかく売れなさい、という考え方。落語家として務める一方で、テレビに出たり、高座以外のところでもいろいろ挑戦をしたいと思っています。初の書籍もその一環で刊行されます。
僕にとっての見習いと前座の4年半は、本来なら3年半で経験すべきところでしたが、諸事情があって1年延びてしまい、でも最後の1年でたくさんのことを学べました。将来自分が親になったら、子どもは伸び伸び育てたいとは思いますが、自分に期待を込めたように期待を込め過ぎちゃうかもしれません(笑)。近い将来ではまだありそうにはないですけれどね。
編集後記
――ありがとうございました!落語家の師匠にこのコンテンツでも何人かインタビューさせて頂いて参りましたが、一番若手の噺家として今回木りんさんに登場して頂きました。柔らかい物腰にもかかわらず、芯の強さを感じるのは相撲力士だったお父様のもとで日本の伝統文化を常に意識してこられた家庭環境と、野球というストイックなスポーツをずっとされてきたことも深く関係しているように思いました。まだ30歳前というお若さが楽しみな落語家さんです。応援しています!
2017年12月取材・文/マザール あべみちこ
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このページは株式会社ジェーピーツーワンが運営する「子供の習い事.net 『シリーズこの人に聞く!第145回』」から転載しています。
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