【シリーズ・この人に聞く!第107回】イクメン料理研究家 コウケンテツさん

kodonara

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育児・家事を手伝うのではなく、妻とシェアする「イクメン」のシンボル。コウケンテツさんはまさに理想の夫であり父親像。朗らかな笑顔で、爽やかに、手際良くおいしそうな料理をうみだす姿は幅広い世代から羨望の的です。幼少期から青年期、そして料理の世界へ入るまでを紐解き、二児の父としての今を語って頂きました。

コウケンテツ

料理研究家。大阪府出身。旬の素材を生かした簡単でヘルシーなメニューを提案。テレビや雑誌、講演会など多方面で活躍中。一男一女のパパでもあり、自身の経験をもとに、親子の食育、男性の家事・育児参加、食を通してのコミュニケーションを広げる活動に力を入れている。著書は「コウケンテツのおやこ食堂」(白泉社)、「こどものまんぷくごはん」(家の光協会)「幸せの野菜ごはん」(文化出版局)、「弁当」(講談社)など多数。

 コウケンテツのホームページ
www.kohkentetsu.com  

世の中で一番大切なのは、ご飯を食べること。

――コウケンテツさんはイクメン料理研究家としてメディアでたくさん紹介されていますが「理想の夫」「素敵なお父さん」のまさにシンボル。料理の道を選んだのは、料理家のお母様(李映林さん)の影響ですか?

幼少期は喘息に悩まされ、母が食で細心の気遣いをしてくれた。

幼少期は喘息に悩まされ、母が食で細心の気遣いをしてくれた。

母の料理が僕の根源です。母が料理家になったのは、僕が社会に出て働き出してから。我が家の日曜朝は皆で料理する日で、ホットケーキ、クッキー、ホットドック、手まきサンド…皆で買い物に行って作る楽しい時間でした。僕は4人きょうだいの末っ子でしたから、母の眼もそれほど届かずうるさくなくて(笑)自由にのびのびと過ごしていましたね。きょうだい構成は一番上が8歳上の兄、次が姉、その次に兄、そして僕。

――とてもいい環境でしたね!ちょっと歳の離れた末っ子は皆に愛されてお育ちになられたのでは?

自分で思う以上に家族からたくさん愛情を注いでもらったおかげで、誰とでも打ち解ける子でした。近所の駄菓子屋のおばちゃん、パン屋のおっちゃんのところに、ひとりでテクテク歩いて遊びに行ってしまう…ほったらかされておいても全然大丈夫(笑)。僕は小さな頃、喘息もちで体が弱くて、小2から水泳、小3から野球を始めました。母が「何を食べさせたら元気になるか?」といつも僕を気遣って手料理を用意してくれました。

――健康そうな今からは想像もつきません。ひと昔前は「男子厨房に入らず」という風潮でしたが、コウケンテツさんのように手際よくいかなくても、今や料理もできる夫の支持が断然厚い。少年時代からずっと料理好きなのですか?

思春期の一時期、中学生の頃は料理するのが恥ずかしくなって離れましたが、高校生になってまた戻りました。スポーツをやっていたので栄養を考え、弁当も自分で作っていましたね。でも感覚的に、料理を人に披露するという概念がなかった。料理の仕事は基本的に裏方です。自分が作っているところを写真に撮られるのは思いも寄らなかったので、最初は抵抗があって「これ(自分の料理する姿)は、いらんやろ~」と思っていました(笑)。

――主にどこでお料理を学びました?料理の専門学校とか?

母の手料理からですね。何しろ喘息もちでしたから季節の変わり目に体調を崩し、すぐ気管支炎をおこして、こじらせると肺炎に。母は何を食べさせたら僕が元気になるか?を常に考えて、韓国から漢方を取り寄せて薬膳スープを作ってくれたり。その時は「なんでこんな苦いものを飲まなくちゃならんのだ?」と思いましたが、のちのちになって、そのありがたさに気づきました。

料理上手なテニスの王子様が下した大決断。

――お母様の手料理で強い体が少しずつでき上がってスポーツも得意になって、プロのテニスプレーヤーを目指していらしたとか。

大阪の人情味溢れる町で、4人きょうだいの末っ子として育った。

大阪の人情味溢れる町で、4人きょうだいの末っ子として育った。

中学時代はバスケットをしていて、高校でテニスを始めて、錦織圭君みたいなプロになることを夢見てとにかくトレーニングを積み重ねる日々でした。思いは人の10倍も20倍もありましたが、実力が足らず……15歳から始めたテニスでプロになるなんて無謀ですが、何とかしたいと策を練って、「食を一流のテニスプレーヤーと一緒のものにしよう!」と、図書館で蔵書を探し、ものすごく研究しました。我が家の基本方針が『世の中で一番大切なのは、ご飯を食べること』でしたから、多少の悪さをしても叱られませんでしたが、ご飯を食べないとすごく怒られた。いただきますからごちそうさままでに大事なことはすべて詰まっている、という考えでしたね。

――すごい!徹底的に「食」。プレイの技術を磨くとか、いい指導者につくとか以前に、食事に注目したのはユニークですね。

当時、アメリカの有名な栄養博士が、プロテニスプレーヤーに一年間食事プログラムを作っていた。おお、こんな食事をしているのか!と目から鱗で。真似して僕も同じものを作って食べるようにしました。良質な筋肉を作るためには高タンパク低カロリー。普段は鶏肉ささみが中心、大会数日前はエネルギー効率を高めるために、炭水化物中心の生活に変える。アメリカでは炭水化物といえばジャガイモやパスタで、僕は当時そんなのばかり食べていました。最初は母に頼んで作ってもらっていましたが、そのうち申し訳なくて、弁当も自分で作ろう…となって。

――テニスの王子様は弁当男子でしたか!親に何でもやってもらって当たり前と思う昨今の高校生に比べたら、その自立心すごいわぁ。

すべては『プロテニスプレーヤーになるため』で。朝弁当作って、練習行って、お金貯めて留学しようと思っていたのでパン屋でアルバイトもしていました。有名コーチのいる神戸のテニスクラブに通っていて、練習してから帰宅…という生活。そのうち弁当だけでなく、家で食べる料理も作ろうと、独学で栄養学と料理の勉強を始めました。テニスプレーヤーになろうと思っていたのに、どんどん料理の腕があがって、まさか20年後に料理の世界に入っているとは……(笑)。勉強するうちに知らない世界へどんどんのめりこんで。その時の勉強が今、役立っています。人間が死ぬ気で勉強したことは、ぐるぐると巡り巡って結局自分にかえってくるものです。

――自主的に動いて学ぶ知識はいつか役立ちますよね。ところでお弁当開くとお友達に「すごい!」って感嘆の声あがりませんでした?

自分で作っていることは伏せていましたから。それに2時間目くらいでお腹がすいちゃっていつも早弁。それでも足りず学食で何か食べて…。そんな生活をしていたのでテニスの練習が間に合わなくて……結局、テニスに没頭したくて学校を辞めました。今でこそ高校中退してもいろんな選択肢がありますが、外国籍でしたし、当時の中退は周囲を説得するのが大変でした。「これからどないすんねん?」と心配されて、高卒学歴がないと人生終わる…という風潮で。でも、僕の熱意は「テニスに人生賭けたい」で、両親、きょうだい、近所の人、中学の時の先生、毎日入れ替わり立ち替わりいろいろな人に「高校だけは卒業しろ」と言われましたが、数ヵ月かけて説得して、最後は僕の熱意が勝った。卒業しない代わりに大検は取れ…と言われたので、それは取りました。テニスをあきらめたら大学へ進学する…という約束で。

怪我で挫折、家族の支えにいつも感謝。

――目標を明確にもって突き進んだわけですね。もう~穏やかそうなコウケンテツさん、実はなんて熱い!!(笑)それからは?

家族仲良く、いつも料理を囲んでおいしいものを食べる体験があった。

家族仲良く、いつも料理を囲んでおいしいものを食べる体験があった。

テニスクラブのジュニアチームは18歳になるとクラブを出なければなりませんが、僕はまったく試合に勝てずコーチにも「辞めたほうがいい」と言われました。でも何とかしたい…とあきらめきれず、テニスのコーチをしながらプロを目指す道があることを知ってそれだ!と、クラブに残りました。でも気が焦ってしまい、オーバーワークでハードトレーニングをして椎間板ヘルニアになってしまった。今でこそ手術方法もいろいろありますが、当時は手術という選択肢はなくて。19から21歳の2年間ほとんど自宅で寝たきりの生活でリハビリを続けました。テニスは完全に断念せざるを得なかった。寝たきりになって僕は何もできなかったけれど、家族はいつも通り接してくれて、毎日支えてもらいました。

――それは大変でしたね。実力云々ではなく体を壊すと心も折れちゃいますもの。復活できてよかった。

元気になってからは夢を追うのは二の次で、とにかくお金を稼がなくては…とアルバイトを何種類もこなし一日20時間くらい働いた。パン屋、レストランの厨房、本屋、ビデオ店、配送業、警備員…夜の仕事以外はほとんどやりました。良い先生と出会えてヘルニアもよくなったので20代はひたすら労働。家族皆が頑張って少し家計も持ち直して、僕が23歳の時に母が「末っ子もやっと元気になって社会で働けるようになったので、今度は私が自分の夢を追いたい」と料理家になりました。休みの日は、母の仕事を手伝うようになった。料理が大好きでしたから、傍で母の仕事っぷりを見ているうちに「おもろい仕事やなぁ」と。荷物運搬係から洗い物部隊に入り、韓国料理の要であるタレ混ぜ係に昇格。タレを味見しながら「これはこう作るんか~」「これが隠し味なんか~」とイチイチ発見と感動。だんだん母も忙しくなって、東京から大阪へ出版社の方が来るようになりました。僕が30歳になった頃、某出版社の編集長から僕に「連載をしてみないか」と誘いがあって、僕の料理食べたことも無い方でしたが大抜擢をしてくださった。

――料理家になりたい!という欲より、土台に料理好きな自分がいて、それを理解してくれる方に恵まれた…理想的な展開ですね。

気がつけば常に料理があったので、巡り巡って本来の場所に戻ってきたような気がします。姉も料理家ですが、上の兄二人共、僕より皆料理がうまい。だからこの世界に入る時「おまえより俺のほうがうまいのに大丈夫か?」と心配されました(笑)。自分が考えたレシピが雑誌に掲載…それはお金のためだけに働いていた頃は考えられなかった充実感で一気にのめり込みました。僕はここまでいいタイミングで手を差し伸べてもらって、ありがとうございます!とそれに乗ってきたんです。

――コウケンテツさんのお人柄が仕事を創り、人との出会いを引き寄せていますね。では最後に子育てする同世代へ習い事をテーマに、メッセージをお願いします。

料理は脳にすごくいいし、親も一緒に楽しめる。習い事はお金も、送り迎えの労力も必要ですが、そんなの不要で毎日できるのが家庭料理。五感を使うでしょう?ハンバーグを作るにしてもひき肉、玉ねぎ、卵…と素材を集めて、切って混ぜてこねて成型して…イマジネーションをフル活用。うちは居住区の保育園待機児童が多すぎて1年間保育園どこも入れず、1歳と3歳の一番手の掛かる時期、僕はリアルにおんぶ紐に子どもを背負って、もう一人遊ばせながら料理と撮影をこなしていました。息子は僕の手際を見て、ミニカーで遊ぶと同時にフライパンでも遊ぶようになった。やらせないと30分大泣き。料理は5分、10分やらせれば満足してやめます。だからむしろ全工程に関わらせるのでなく、ピンポイントでいい。4歳になった息子は今や、自分で野菜炒めを作れるようになりました。子ども二人共まだ小さくてお休みしていますが、下の娘が4歳になる頃には、子どもの料理教室を再開して全国規模で開催したいですね。

編集後記

――ありがとうございました!お話のされかたも、サインで書いてくださる文字も、控えめでありながら味わい深いお人柄が端々に表れていました。爽やかな容姿からは想像もつかないほどご苦労をされていて、それが全部人間味を深くされたのですね。好きで続けて没頭してきた時間があったからこそ、挫折しても再び好きな分野で本領発揮のコウケンテツさん。高2息子のことで悩んでいることを話したら、ものすごく心強いお言葉と体験談を聞かせて頂いて、大笑いしながら感極まって思わずその場で泣いてしまいそうでしたよ。『食を通じて世界中の人と仲良く、文化を紹介する活動も取り組み続けたい』というコウケンテツさんの今後に益々期待が高まります。応援しています!!

取材・文/マザール あべみちこ

活動インフォメーション

おかずのクッキング|テレビ朝日
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www.tv-asahi.co.jp  

毎週土曜日 AM5:25~
1974年4月に放送開始。40年の歴史を持つ長寿番組!

たべごころ│RKB毎日放送
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毎週土曜日 PM5:00~
食に関わる人々の活動を通じて料理人の技術や思いを通し食を大切にする「こころ」を伝えます。

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