3人きょうだいの末っ子として育ち、3歳でスケート靴を履きリンクで滑っていた織田信成さん。2010年にご結婚され、23歳にして一児の父となりました。世界を舞台にフィギュアスケート選手として活躍する織田さんが、転機となった経験とは?小中学生時代の苦悩、そこから学び得たことなどをお話しいただきました。
織田 信成(おだ のぶなり)
1987年3月25日生まれ。身長164cm、体重52kg。現在、関西大学文学部4年次生。
コーチは母の織田 憲子さんとリー・バーケル氏。2010年に結婚し、一児をもうける。
スケートやめて普通の人に戻りたいと考えた小学生時代
――昨年2010年は織田選手にとって、公私共に充実した一年でしたね。織田選手がスケートを始められたきっかけは何でしたか?
2010年はオリンピックもあり、結婚もあり、すごく充実していました。自分としてはいい年でした。母がスケートのコーチでしたので、物心つく3歳頃には必然的にスケート靴を履いて近所のアイスリンクを滑っていました。ですから習っていたというよりも、育つ環境にスケートがありました。7歳上の姉はフィギュアスケート、3歳上の兄はアイスホッケーをしていました。
――今23歳ということで、かれこれ20年もスケート歴がおありなんですね。
小学校へあがってからは放課後、友達と一緒に遊べずにスケートの練習ばかりでした。試合があれば学校を早退。「スケートのせいで友達と遊べへん!」と思っていたので、幼い頃は『スケートをやめて普通の人になりたい』と思っていました。小学校2年生くらいまではスケートでしたが、中学2年生くらいまではいつやめようかと悶々としながら続けていたので。
――「普通の女の子に戻りたい!」と言って芸能界を引退したのは70年代の某アイドルグループでしたが……90年代の小学生が、そう考えられたわけですね。でも練習を積み重ねて大会に出れば、いい結果が出て評価もされましたよね。
今振り返ってみるとそうなんですが、その当時は毎日の積み重ねが結果につながるとは考えられずに『遊びたい!』という気持ちが先行していましたね。
――いつ頃からやる気スイッチが入りましたか?やっぱりスケートしかない!と。
中学3年生の時に初めて海外の大会へ出場して優勝し、それがきっかけでもっと国際的な試合に出てみたいと思うようになりました。すごく刺激をもらって、自分からもっとうまくなっていろんな大会に出たいという気持ちが芽生え始めました。
スケートがあってこその自分を意識した中学2年生
――中学時代も、放課後はもちろんスケートの練習で?
そうです。ひどかったです。練習プラス反抗期でしたから。全然練習しなかったこともあるし。ほとんどリンクに行っては母とケンカしたり、ずっとそんな感じでした。僕が反抗するたび、母はもう激怒しかなかった。『絶対に辞めるな。こんなところで辞めてしまったら絶対いい人間にはならへん』と、いつも言われました。
――すごいですね、お母様も偉い。お母様はお姉さんお兄さんもいらした中で末っ子の信成さんにエネルギーを注がれたのは、やはり一番素直でいらした?
生き残りが僕しかいなかった(笑)。僕にはスケートをやめさせたくなかったでしょうし、ちょっとは期待してくれたのかな。きょうだい3人ともよくいえば素直で、悪く言えばワガママ。ただ3人とも好奇心旺盛で向上心はあった……と母は言っています。
――反抗期があって練習へまた戻られたというのは、どんな経緯がおありで?
中2の時、階段から落ちて腕を怪我して手術をして、1年くらい大会に出場できない時期がありました。その時に『これで友達とやっと遊べる!』と念願叶って、友達遊びを実現したのですが、全然楽しくなくって。いつも考えるのはスケートのことばかり。僕にはスケートがなかったら楽しくない。スケートが必要なんだと痛感しました。スケートがあってこその自分、を意識した中2が転機ですね。中3でスケートにカムバックした時は、やる気もメラメラとあってうまくなるぞ!という気持ちでした。その年に世界的な大会でベルギーへ遠征に行かせてもらって優勝。とても単純なもので、もっと練習すればもっと大会に出られるかもしれないと。そんなに甘くは無かったんですけれど(笑)。
――ひと山越えられたんですね。その後、高校に進まれてもモチベーションを保ちつつ同じようにスケート漬けの日々で?
地元の高校へ進み、放課後はスケートの練習でした。高3の時に世界ジュニアで優勝し、注目してもらえるきっかけになりました。
――10月に長男・信太朗くんが誕生されて、生活的に変わりましたか?
がらっと変わりました。おむつ替えてミルク上げて……人を育てるのって、すごく大
変なことなんだなと。今生後2ヵ月が過ぎて表情豊かになってきました。どちらかとい
えば奥さん似。将来どうなってほしいとか僕は何も期待していないです。何でもいい
ので自由に好きなことをやってほしいと奥さんとも話します。元気にスクスク育って
くれればそれでもう家族みんなが幸せ。あまりプレッシャーを与えるとよくありません
ので(笑)。
忍耐力をもち、いかにあきらめないか
――織田選手がスケートを続けていく中で一番大変だったことは何でしたか?
忍耐力ですね。いかにあきらめないか。どれだけ希望をもって頑張れるか。僕の場合はずっと下手でしたから。中3で出場した大会で優勝したのはモチベーション的に転機となりましたが、技術的な意味では自分に対する自信は今でもありません。これくらいの技術はできるという感覚はありますが、それが自信につながっているかというとどうかな。自分がここで成し遂げたいという気持ちがないと。そういう意味では、まだまだです。
――世界レベルの選手でさえ、そうなんですね。一日にどれくらい練習されていらっしゃるんですか。
10時から3時くらいまで氷の上の練習。その後7時までジムに行ってトレーニングをすることもあります。練習することで自分が磨けている、どんどんよくなっているというか、そんな気がするので基本的にはすごく楽しんでいます。
――楽しめるってことがいい演技、いい滑りにつながっているんですね。
そうですね。楽しんで滑らないと、採点する人にも気持ちが入っていないと見られます。表現も点数化されるので。気合いを出していかないと。本番では練習以上に伝えること表現できるように、緊張感に勝っていかないといけない。練習を積んで大会に臨んでも、その練習した力が試合で出せないと悔しいし、情けない。何のために練習してきたんだろう、ということになりますから。常に悔しさは持っています。
――コーチやお母様、周りのスタッフからはどんな言葉を掛けられて試合へ出場されるんですか?
『練習通りに』ですね。いつも掛けられる言葉は『スケートを楽しんで』『きみだけの時間だから、好きなように滑ってきなさい』と。
――観ている方もすごい力が入っちゃうんですよ。ああ!ここで転ぶか…みたいな。皆、そういう悔しさを乗り越えてきているんですね。
その壁を乗り越えると、さらに新しい違う自分が待っていると思いながら常にやらないと。悲しい気持ちで練習していると本当に悲しくなってしまうもの。この厳しい練習乗り越えたら、違う自分に会えると思って。僕も母にスケートを勧められて、小さい頃からいろんなプレッシャーの中で育ってきて本当に辛かったけれど、今の自分よりもさらにいい自分に出会うには、そういう経験も大事です。これから育つ子どもたちには辛いこと、大変なことであきらめずに、それを乗り越えてほしいですね。
編集後記
――ありがとうございました! 氷の上で練習されているのを至近距離で拝見して興奮しちゃいました。普通のところで飛ぶのでさえ苦労するのに、氷の上でどうしてあんなふうに飛べるんでしょう。ブラウン管で拝見するスケート選手・織田信成さんはとても大きく見えますが、実物はとてもかわいらしい妖精のようでした。反抗期の葛藤があって、改めてスケートが自分にとって大切なものだったと気付かれた過程は、どのスポーツにも共通するものかもしれませんが、特にスケートは家族の支援が大きいもの。天才の後ろに、偉大な母あり。お母様のぶれない生き方が、織田選手の今につながっているのでしょう。3月の大会も楽しみにしています!
取材・文/マザール あべみちこ
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