ビーチバレー界に彗星の如く現れたのが2002年。それまではインドアのバレーボール選手としてVリーグ3連覇達成。オリンピック出場を夢に、ビーチバレーへ転向されました。インドアとアウトドアのバレーボールの違いとは?7月に初めてのお子さんが誕生する喜びに包まれてこれからの子育ての意気込みも語っていただきました。
朝日 健太郎(あさひ けんたろう)
1975年、熊本県生まれ。
2002年、インドア全日本代表からビーチバレーに転向。 2004年にはTOKYOオープンにて悲願の初優勝を遂げる。2005年2月、見事にジャパンツアー年間優勝を果たした。白鳥勝浩(湘南ベルマーレ所属) とペア結成後、国内大会9連覇。日本代表としてアジア大会に選出される。2007年国内ツアーでは史上初の5大会完全制覇を遂げる。さらに2007年7月、マルセイユ大会では、準決勝進出。2008年北京オリンピックに日本人男子として12年振りに出場し、歴史的な五輪初勝利を上げ、9位に輝く。2009年7月に第一子が誕生予定。
小学6年生で170cmの大きな少年はスポーツが苦手?!
――これまで初対面の方に「おおきいですねぇ!」と言われ続けてこられたと思いますが、本当に改めてご挨拶すると見上げてしまうほど大きな方ですね。小さい頃から背が高くていらした?
――スポーツが苦手だったのは意外ですね。背が高いことだけでアドバンテージが取れる感じがしますので。今、ビーチバレーでご活躍ですので。背が高いのはご両親が大きいのでしょうか。
父は173センチ、母は165センチ。二人の父親、僕にとっては両方の祖父にあたる人が180センチくらいある大柄な人でした。隔世遺伝ですかね。幼少の頃は、この高い身長との付き合いがすべてでした。服もサイズがないし、上履きなんてなくて。痛いからかかとを踏んでいると怒られるし。痛いのにあえて履く。がまんというのをそこで覚えました。
――スポーツが苦手だったというのは、何か習い事をされてそう思われたのですか。
背が高すぎて操りきれないんです、自分を。飛んだり、跳ねたり、走ったり、回ったりというのがまったくできなくて。体育の成績なんて2とか3でしたね。泥だらけになって、擦り傷つくって帰ってくるというよりも、家の中でプラモデルをつくっているほうが好きという内向的な子どもでした。今でこそビーチバレーの選手となって大雑把な人間になりましたけれど(笑)。
――おとなしくて育てやすいお子さんだった。習い事はどんなものをされていらした?
両親から「勉強しなさい」と言われたことはありません。手が掛からない子なんだと自覚していたかも(笑)。高い所から飛び降りて骨折したとか絶対しない少年でしたから。習い事ではお習字は通っていましたね。スイミングクラブはあの独特なコミュニティに交わる素質がなかったので半年くらいで辞めました。サッカーは動きが鈍くて評価されていませんでした。小学校時代はクラスの先頭にはおらず、常に2列目、3列目にいるような子でした。
ビーチバレーでもう一度チャレンジしたい
――中学校の部活動でバレーボールを選択されたのは、何かきっかけがおありでした?
熊本では部活動にスポーツを選択するのが普通のことで。バレーが好きで始めていないのです。スポーツをやりたくて、たまたまバレーだったというだけで。違う競技だったらこんなに長く続けられないですよね。バレーボールは保守的な僕にとって合っているスポーツでしたから。サッカータイプ、野球タイプ、ラグビータイプ、とスポーツによって性格が分かれます。バレーボールはネットを挟んで闘うし、相手に点を取られても、内に内にと闘志を燃やす穏やかな性格の人が多い。サッカーやラグビー、バスケットなどは相手とぶつかるスポーツは、負けず嫌いでこんちくしょう!という気合いがないと闘えません。
――和を大切にされるインドアのバレーボールから、アウトドアのビーチバレーになって気持ちも変わりましたか。
6人制のインドアバレーボール時代はキレイ好きでしたね。泥んこまみれになるわけでないし、ちょっと汗かくとTシャツも洗濯するし、ソックスなんかも丸めて脱がずにビシッと干しておく几帳面さ。それがアウトドアのビーチバレーになると泥まみれ、砂まみれ(笑)。コンビを組む相手との関係でオッケーなら、それでいいわけです。
――そもそもビーチバレーに転向された理由は?
「オリンピックに出たい」という夢があってビーチバレーに転向しましたが、僕は4年周期で物事を捉えています。小中高大学と人としてステップアップしてくる。実業団になってからは全日本へという目標。でもそれが叶うと次の目標が見当たらなかった。煮えきらずパフォーマンスも伸び悩んだ時期がありました。早くその目標を設定して、切り替えたかった。ビーチバレーをやりたかったというよりも、ビーチバレーを通じてもう一度物事にチャレンジをしたかったのです。
――ビーチバレーを選択されて、一番大きな変化というのはどんなことでしたか。
僕はビーチバレーをやるタイプの人間ではないんです。安定志向だし、闘うことを好まないし、大きなチャレンジを今までしてこなかった。着実な歩みとか、太い安定した橋をずっと渡っていたような。だからこそ一度はやってみたいという気持ちがあった。実業団で6人制バレーをやっている時は、会社からお給料をもらって何の不安もなくプレーに徹することができた。でも、ビーチバレーは何の保障もなく、これで食っていけるのかという経済的な不安はありました。体力的な面ではなく、経済的なチャレンジという面が大きかったですね。収入面はゼロからではなく、むしろマイナスからのスタート。でも、どうにかなるだろうと。そこで初めて「やんちゃ」になれた。
砂の上で遊ぶのは子どもたちの能力を刺激する
――いろいろ不安要素もおありでしたのに、なぜビーチバレーを続けられたのでしょう。
すぐに結果を出せるような競技ではないので、3年間はとにかく頑張ろうと。そのやみくもさがよかったのかな。後ろも振り返らず、先のことも案じず、ただ足元だけを見てあきらめなかったことでしょうか。6人制バレーから転向したことで、僕は6人制に対して負い目もあった。6人制のバレーでもう一度チャレンジする選択もあったのでしょうが、僕はまったく別の世界へ目を向けた。僕が窮屈に感じた6人制で頑張り続けている人もいる。それぞれがどこで自分をいかせるかを見極めているのでしょうね。
――バレーボールという共通のスポーツでありながら、インドアとアウトドアの違いは勝敗に影響があるものですか。
ビーチバレーはその日の天候や風向きにも左右されます。もちろん練習量も大切ですが、練習量が多いからといって勝てるわけでもない。砂浜でやるスポーツですから故障は少ないですね。なので、選手としての寿命がインドアよりも長いかな。ビーチバレーは自分自身をコントロールする「セルフマネジメント力」を求められるスポーツ。練習メニューをどうやっていくか、試合の戦術をどう捉えるか、すべての決定権は自分にあって、コーチと一緒に作り上げていくもの。6人制の場合はコーチの方針に従って、チームの和を守ることを要求されるわけです。
――堅実に積み重ねる力とか、自分をコントロールできる力というのは、小さい頃から培ってこられた能力でしょうか。
親にそれなりに反抗したこともありましたが、どちらかというと手のかからない子だったと思います。例えば、テストでいい点を取るためには勉強しないとならない。勉強するには机に向かう時間が必要。……そんなふうに連動して物事を考えて、今自分には何を求められているのか受けとめる。もちろん子ども時代はそんなふうには思っていませんでしたが、やんちゃをしない分、冷静でした。
――これから生まれてくるご自身のお子さん、そして今育ちつつある子どもたちには、どんなふうに育ってほしいと思われますか?
僕みたいのと反対でいいです。あれもこれもダメと制約せずに、自然に触れてほしい。生後1週間で砂に埋めます(笑)。海の中に1歳未満で放り投げてもいいと思っています。そういうことから何かを感じ取ってほしい。自分なりにビジョンを描いても、うまくいくこともあればいかないこともある、それも経験です。そのズレをどういうふうに修正していくかを考えることは、得意な方かも。これから生まれてくる我が子の子育てに全力投球してみたいですね。
僕はビーチバレーをするまで、砂遊びなんて泥遊びと変わらないものだと思っていましたが、砂の上というのは子どもたちの五感を刺激するもの。裸足になってみて、砂で何かを作ってみたり、温かさやざらつきを知ったり、興味をそそられる要素がたくさんあります。かつビーチバレーをする砂浜はとても安全。大人でさえ砂浜にいることで気持ちが大らかになります。小さなお子さんだけでなく、小学生も砂浜に来てほしいですね。僕が相手になったら、砂浜に投げ飛ばします(笑)。そこで伝えたいのは、「砂浜は痛くない」ってことと「大人ってすごい」ということ。見て楽しむ砂浜ではなく、足を踏み入れて楽しんでほしい。ぜひ砂浜に遊びにきてください。
編集後記
――ありがとうございました!ひときわ背が高いので、どこにいてもきっと目立つ存在でいらしたのだろうなぁ。考えていらっしゃることがどこまでも謙虚なのは、日々勝負している人だけがもつ「自己を見つめる力」なのでしょうか。バレーボールとビーチバレーのスポーツの特性、その違いは本当におもしろいではありませんか!こんなふうに青春を賭け、人生を賭け、燃えるものがある幸せ。それを成すものにしかわからない充実感があるのでしょうね。これから誕生するベイビーのために、これからも益々のご活躍を!
取材・文/マザール あべみちこ
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