96年に世界第2位の高峰K2(8611m)に無酸素単独登頂。山梨県の山中湖畔で子ども対象の野外活動をはじめ、高校や大学の富士山での体験活動にも取り組まれてもいます。その活動の原点は「感動を提供したい」という思い。山の自然から学ぶことは多いと語る戸高雅史さんへ子どもがいきいきする時間についてお聞きしてみました。
戸高雅史(とだか まさふみ)
1961年大分県生まれ。
登山家・FOS主宰。淑徳大学兼任講師。福岡教育大学探検部OB。
大学院数学教育修了と同時に登山ひとすじの人生に転じる。87年マッキンリーに単独で登って以来、「ひとり」をキーワードに、あくまでもシンプルさにこだわり高所登山に挑む。ヒマラヤ8000m峰四座を無酸素で登頂。
現在は登山を中心とした野外学校FOS(Feel Our Soul)を主宰し、子供たちに自然と向き合う姿勢を説く。
96年7月29日、K2峰(8611m)無酸素単独登頂。
音楽と歴史小説を愛した学生時代
――ご出身が大分県ということで、もともと自然環境に恵まれた地域で暮らされていたのですね。子ども時代は野山を駆け巡るようなワンパク少年でしたか。
大分県と宮崎県の県境で、山々に囲まれた町の小さな商店をしている家庭で育ちました。まだ山へ登るなんてことは思いもしなかった頃から、西の山に沈む夕日が美しくて、いつも眺めていた記憶があります。一人でぼんやりした時間を過ごすことが多かった。15歳で高校へ通うため実家を離れて下宿生活。当時はそういう仲間がたくさんいたのですが、初日はさすがに寂しくて涙で枕を濡らしました。その頃は自然というキーワードではなく、フォークソングの音楽を愛して、歴史小説を片っぱしから読破。エネルギーがあるのに、ぶつけどころが何かわからない。ただ、男だったら夢を成し遂げて生きたいという熱い思いがある時代でした。
――割と小さな頃からスポーツ万能だったような印象がありますが、そういうことでもなく。山へ惹かれるようになったのはいつからなのでしょう。
18歳に転機がありました。高校卒業後は教職につこうと福岡教育大へ進学。たまたま下宿先に「探検部」の先輩が住んでいた。洞窟探検や鍾乳洞、川下りや登山というアウトドアスポーツをするクラブでした。そこで、自分にとって未知なるものへ挑戦することに目覚めたんですね。体験を大切にする世界で、18歳になってもう一度3歳にかえったような気になりました。泥だらけになって水浸しになっていろんな体験をすることで、自信を取り戻して何でもできるような気持になって。小中高と目立ったタイプでもなかった僕が、何か枠を外して生きることに気づいた。
どこへ向かって生きるべきか悩んだ時は、本から答えが欲しくて、図書館にこもって本ばかり読んでいたこともあります。見つかったような気がしても、それが朝になるとあやふやになっている。さんざん読み漁った後にわかったことは、「僕のような人間は、動かないと見えてこないんだ」ということでした。
――ヒマラヤを目指すことになったのは、もっと後で?
探検部の先輩から、新田次郎の「孤高の人」という本を読んでみたらと渡され、その内容に感銘を受けて。ある登山家について書かれた本なのですが、一つひとつのシーン、冬の北アルプスの情景の描き方がスーっと胸に入ってきた。それで大学時代はまず九州中の山を制覇してから、大学のクラブ活動だけでは飽き足らず社会人の山岳会にも入部し、23歳の大学院2年目の時に山岳会の仲間11名でヒマラヤのアンナプルナⅡ峰(7937m)を目指しました。
――いかがでしたか?初のヒマラヤ登山は?
打ちのめされました。雪崩に2度ほど遭ったり、死を間近に感じた瞬間が何度かありました。こんな危険にさらされて頂上に立って何の意味があるんだろう。こんな山登りではなく、生徒たちと楽しい山登りをしようと決めたんですね。それから半年間くらいは静かに暮らしていたのですが、窓の外に見える山を見るたびにため息が出てしまう(笑)。このまま山をあきらめていいんだろうかと。甘くない世界だというのはわかっていましたから、自分がそこに行く人間としてふさわしいのかどうか確かめたかった。そうしないと納得できなかったんです。大学院を卒業した年に、アラスカのマッキンリーという山へ一人で向かいました。25歳の時でした。
限界を超えたところで訪れる自分との出会い
――世界有数の山へ登るには覚悟が必要だったのではないですか。
そうですね。親類一同を集めて、今回の山を最後にするという「誓約書」を書かされました。仕事を捨てて海外の山へ登りに行くというのは正気の沙汰ではないと思われました。実はアラスカへ行く決意をして、向こうへ着いたら山道具一式が届かなくて。毎日届いてないか確かめに空港へ行ったのですが、結局来なくて。さぁ、どうしようという時に、お世話になっていた方から「ここへ来た目的は登るためだろう。装備が足りないならお金を貸してあげるから登りなさい」と。それで買い直して登れることになりました。
――もしかしたら神様から、これ以上行ってはいけないという啓示かもしれないとは思われませんでしたか。
いろいろ考え悩みました。けれどその当時はどうしても登って確かめたかったんでしょうね。まだフリーターなんて言葉がなかった頃でしたし、定職にも就かず山へ登るなんて世間に理解されなかった。登山はほんの一握りの人しか成功できない、ほとんど評価されない。でも、最終的に自分の中から湧きあがってくるものは消せなかった。「何か」は自分でも掴みきれていないものでした。二者択一で進まなければならない中で、周りの目より自分の気持ちに従ったのです。
――心の声に従って山へ行かれたわけですね。
はい。でも山へ行くために一番最初に何をしたかというと、コンロの使い方を理解するための翻訳(笑)。辞書とにらめっこしているうちに何だか笑いがこみ上げてきました。登り始めた山は3日目くらいまで後ろから引かれているような怖さがあって引き返す口実を探していた。それを超えると、ちょっとした風の変化も楽しくなってきた。19日目にアラスカのマッキンリー6192mの頂上へたどり着けました。頂上真近になってからは小さな子のように泣きじゃくりながら登って、この世界でやっていこうと決めた瞬間でした。3日目くらいまでは、山の中にいながら山の中にいない、自分に膜を作っていたと思います。そのヴェールがはがれてやっと自然と一体になれたんです。
――マッキンリーから戻られてからは、登山家として生きていこうと?どのような心境の変化がありましたか。
それまでは高校の数学教師として生活の糧としていましたが、教えるのなら子どもたちに自然環境との関わり方とか、冒険教育に関わりたいと。アメリカにはOut bound schoolという人生の船出を準備するという若者向けの学校があります。日本でもそういう学校を創りたいと考えて、マッキンリーから降りてすぐにミネソタにあるOut bound schoolの扉を叩き3ヵ月ほど体験入学。それから日本へ戻って塾の講師や高校の教師をしながら生徒と共に自然体験活動を楽しんでいました。自分が身につけた冒険教育を実践したわけです。特に生徒たちへ伝えたかったのは、限界を超えたところで訪れる自分との出会い。枠を外すのは難しいことです。若い時は肉体的な限界を超えるのも必要かなと。寝ずに100キロを歩く体験も生徒たちとしました。どんなふうに歩くかは各々の自由にして。80キロを超えたあたりから皆限界を感じ始める。過酷なチャレンジではなくて、自分と向き合う時間。それを求めているのだと思います。一年目13名で始めた100キロウォークの試みが、他校にもどんどん広まって多い時で400名くらい参加して13年続きました。
枠を外すと子どもの中から色んな力が溢れてくる
――登山のチームでリーダーとかアタッカーの役目をされる機会がおありだったと思いますが、どんな資質が必要なのでしょう。
――経済的な面では、何を収入源とされていらしたのでしょうか。
登山のガイドをする一方で、ありがたいことに後援会ができて登山費用を捻出するにはそれほど苦労しなくなりました。35歳で結婚して、その頃から世界的に評価されるような登山ができるようになった。縦走した翌年にK2を単独登頂。その後チョモランマへの登山を経て、ヒマラヤを離れました。結婚して5年は夫婦が単位でヒマラヤを目指していたのですが、大きな流れが変わる時期でした。ヒマラヤを離れて子どもを授かることができました。見える世界がどんどん変わってきた。出産にも立ち会いました。ヒマラヤと同じ「命がやってくる」感じがしました。それで、この先しばらくは仕事よりも子どもを中心として生きていこうと。自分一代で何かを成し遂げようとしていたのが無くなって、子どもにバトンを渡そうという気になった。大切なバトンをどんなふうに渡すべきか、いろいろ考えましたね。
――子どもを授かると生きる姿勢が変わりますね。最初のお子さん誕生から、3年間はどのように過ごされましたか。
北海道から屋久島までさまざまな土地で人や自然と触れ合う旅をしました。1カ月ごとくらいに移動しながら、その土地で仕事をつくって収入を得て。ヒマラヤでは宇宙を感じてきましたが、子どもが生まれてから水や緑を感じたくなった。呼ばれるような感覚で行きました。3歳になってからは、今住んでいるここを定住地にしました。
――本当に水と緑に囲まれた環境ですよね。ところでこの夏7月、8月にも野外学校の予定がございますね?現在主宰されている野外学校では主にどんな活動をされていますか。
自由に焚火をしたり、自然の中で自分がしたいことを見つけていく。もともと野外学校は高校生や大学生など青年を対象にしていました。学校の名前はFeel our soulといって内なる魂を感じようというもの。それが小さな子どもとお母さんへ向けたキャンプとか、家族で楽しむものに変わってきました。この世の中で生きていくには、ある一定の枠というのは必要です。けれど、僕らはその枠に収まりきれない。社会、宇宙、自然の中に生命体として存在している。自発的に湧きでてくる何かというのがあるはずです。自ずから然ると書いて「自然」といいます。例えば山は、山になる何らかの力があってそこに成り立っている。人間にもひとり一人その力が備わっている。ですから、「~すべき」「~なければならない」という枠から外すと、子どもたちの中から色んな力が溢れてきます。それが落ち着いてくると、自分が生きる道が見えてきますよ。
編集後記
――ありがとうございました!たくさんの山を登って培われてきた生命力を感じました。戸高さん自身がひとつの山のような存在感。私も親子で山へよく登ってきましたが、家の中では生意気な口をきく息子も、山にくるといきいきしています。体力の限界を超えたところで、見えてくる自分。つかめる何か。富士山の麓で過ごすキャンプから、大事なものを手渡されるように思います。それはきっと塾や学校では教えてもらえないもの。親子でどこかへ旅行するよりも、子どもにとって価値ある時間を過ごせるはずです。
取材・文/マザール あべみちこ
活動インフォメーション
FOS夏キャンプ2009 in 富士山
日程: 2009年7月24日(金曜日)~27日(月曜日)の3泊4日
対象: 親子や小・中学生(小学校高学年以上は子どものみの参加も可)
内容: 富士山のふもとの森でのキャンプ、ハイキングや沢遊び。焚き火や楽器・歌でのセッションなど。
ひとりひとりの内からの感覚を大切にし、主体的(自発的)に過ごす四日間。
きっと、大人も子どももこころからの笑顔が溢れてくることでしょう。
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