どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
「風の又三郎」の舞台は種山ヶ原という高原なのだそうです。種山ヶ原は岩手県南部の海岸地方と内陸地方の間にある北上山地の一部です。東日本大震災で町が壊滅的な被害を受けた陸前高田や大船渡などから、つてを頼って内陸部に避難していったたくさんの人たちの中にも、種山ヶ原のとても峠とは思えないような伸びやかな山並みを車窓から目にして、賢治のことを思った人があったかもわかりません。
種山ヶ原を越えていく道路が下り坂に転ずるあたりに、道の駅種山ヶ原ぽらんがあります。そこには立派な辛夷の木があって、そのすぐ脇には宮沢賢治の「種山ヶ原」の詩碑が建てられているのです。
少し読み取りにくい文字をたどって読んでいくうちに、宮沢賢治の「詩」のイメージが一変しました。
種山ヶ原
一九二五、七、一九、
宮沢賢治
まっ青に朝日が融けて
この山上の野原には
濃艶な紫いろの
アイリスの花がいちめん
靴はもう露でぐしゃぐしゃ
図板のけいも青く流れる
ところがどうもわたくしは
みちをちがへてゐるらしい
ここには谷がある筈なのに
こんなうつくしい広っぱが
ぎらぎら光って出てきてゐる
山鳥のプロペラアが
三べんもつゞけて立った
さっきの霧のかかった尾根は
たしかに地図のこの尾根だ
溶け残ったパラフヰンの霧が
底によどんでゐた、谷は、
たしかに地図のこの谷なのに
こゝでは尾根が消えてゐる
どこからか葡萄のかほりがながれてくる
あゝ栗の花
向ふの青い草地のはてに
月光いろに盛りあがる
幾百本の年経た栗の梢から
風にとかされきれいなかげらうになって
いくすじもいくすじも
こゝらを東へ通ってゐるのだ
種山ヶ原の詩碑
数々の童話を残した宮沢賢治ですが、しかし彼の詩は難解なものが多く、「春と修羅」なんてまるで前衛芸術そのもの。
だけど「靴はもう露でぐしゃぐしゃ」の一行で、私はこの詩が大好きになりました。この詩で描かれている人(間違いなく賢治自身でしょう)は、道に迷ってしまっている。道に迷っているのに種山ヶ原のうつくしさにうっとりしている。
ここには谷がある筈なのに
こんなうつくしい広っぱが
ぎらぎら光って出てきてゐる
種山ヶ原の詩碑
この広っぱのような山が、いかに賢治に愛されていたのかが、素晴らしく伝わってくるでしょ。
そして、種山ヶ原で迷ってしまうという体験は、逃げ出した馬を負ううちに迷ってしまった嘉助が気を失って、ガラスのマントを着た又三郎が空に飛び立つ幻を目にしたという「風の又三郎」のあのシーンに繋がっているのも間違いないでしょう。
東北の海辺の町で過ごしていると、知り合いになった人の奥さんが内陸部の町の出身ということがとてもよくあるのです。岩手では古くから内陸と海岸部を結ぶ街道が数多くありました。そんな人や物の行き来の結節点としては、河童や座敷童が住むという遠野が有名ですね。内陸の花巻や北上と、釜石や宮古を繋ぐ物流の中継拠点として栄えてきました。住田町の世田米地区も同様で、陸前高田や大船渡と内陸の水沢、江刺への道の結び目。物が動くということは、それといっしょに人と人とのつながりが深められていくということ。車で走り抜けると少し味気ないけれど、この山道を、舗装道路はおろか砂利道すらなかった時代からたくさんの人が行き来してきたのです。あるときは嫁ぐ道として。またあるときは賢治が歩く道として。そしてまた、賢治の物語の登場人物たちが活躍する場所として。
都会の人にはあまり知られていないかもしれないけれど、種山ヶ原はいいところ。海から行っても内陸部からでもちょっと遠くて不便ですが(そりゃそうです。海の集落と内陸の町を隔てる山に連なる高原なのですから)、機会があればぜひ一度お越しください。野生動物も植物も、そして賢治が大好きだった鉱物、さらに夜の星空も、ありとあらゆる自然の美しいもの、厳しいものが結晶したような高原ですから。
道の駅種山ヶ原ぽらん
盛街道(国道397号線)の奥州市水沢エリアと気仙郡住田町の中間です
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