【地元探訪】北条水軍と安宅船について

sKenji

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安宅船(※イメージ)
安宅船(※イメージ)

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先日、ぽたるページでご紹介した静岡県沼津市の長浜城。城跡を訪れた際に知った北条水軍とその安宅船(あたけぶね)が興味深かったので、長浜城跡に設置されていた説明板の解説を元にご紹介します。

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安宅船について

安宅船は戦国時代に伊勢から瀬戸内海で使われ始めた大型の軍船です。戦国時代後半になると東国の大名の間でも使われるようになったそうです。紀伊の安宅氏が最初に造ったことからこの名がついたとも言われています。

船体は大きいものでは50m以上もあります。装甲板による強固な防御に加え、大筒(※大砲)などの強力な火力により、それまであった他の軍船を圧倒したそうです。矢や鉄砲を放つ小窓や櫓(やぐら)などもあったことから、後世の人に「海上の城」とも呼ばれています。

帆柱をしまった安宅船(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

帆柱をしまった安宅船(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

安宅船の動力は風の力を利用した帆と人力の艪(ろ)の2つがありました。順風時には帆を使用して走りましたが、帆走は速度や進行方向の細かな制御が困難であったために、入港や海戦時には帆柱をしまって、艪を使ったとのことです。

取り外しができた舵(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

取り外しができた舵(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

船には大きな舵が取り付けられています。舵は吊り下げ式になっており、河口の港など水深の浅い所を航行する際、海底に接触しないように取り外すこともできました。

安宅船の構造(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

安宅船の構造(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

安宅船の構造は下から「水密区画」、「船倉」、「甲板」となっていました。水密区画は一部に穴が空いても全体に浸水しない構造になっています。北条氏(※後北条氏)初代・早雲から5代・氏直までの逸話を集めた「北条5代記」によると、船倉には艪の漕ぎ手が50人おり、甲板には兵士が50人乗りこんでいたそうです。

安宅船の狭間と船首(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

安宅船の狭間と船首(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

安宅船の側面には狭間(さま)と呼ばれる小さな窓があり、ここから矢や鉄砲を放つことができました。また、船首には大筒が置かれており全方向の相手に対処することができたそうです。

安宅船は当時の小型船に比べて横幅があったためスピードは遅かったものの、安定性が高く、矢や鉄砲をより正確に放つことができたようです。

側面の楯板(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

側面の楯板(出典:長浜城跡に設置されている説明板)

安宅船は楯板(たていた)と呼ばれる椋(むく)の木で造られた厚い装甲板に覆われており、遠くから鉄砲を撃たれても簡単に貫通しないようになっています。

楯板は下端が蝶番で留められており開閉することができました。そのため接近戦では楯板を開いて橋代わりにし、敵の船に乗り込んでいたと考えられているそうです。

長浜城跡にある安宅船の原寸大模型

長浜城跡で驚いたのが安宅船の大きさを表示した原寸大模型です。船体全てを再現したものではなく、水平方向にスライスした状態のものですが、安宅船の大きさがよくわかります。

同時代、西洋には帆船などの大型船がありましたが、日本にも考えていた以上に大きな船があったことを実際に目で見て実感することができました。長浜城跡を訪れたならば、ぜひ見ておきたい模型です。

長浜城跡に設置されている安宅船の原寸大模型。大きさはおよそ25m×6m。近くの道路を走る自動車と比べるとその大きさがわかります
長浜城跡に設置されている安宅船の原寸大模型。大きさはおよそ25m×6m。近くの道路を走る自動車と比べるとその大きさがわかります

北条水軍。そして武田水軍との駿河湾海戦について

長浜城に配置されていた北条水軍には10艘もの安宅船があったと言われています。戦国時代、北条氏(※後北条氏)と領国を接し、対峙していた武田氏の水軍(※海賊衆)が所有していた安宅船は船大将・小浜景隆が持つ1艘のみだったそうです。

ちなみに当時、大型の安宅船の他に中型の関船(せきぶね)と小型の小早船(こばやぶね)があり、全部で3種類の軍船がありました。安定性が重視された安宅船は船速が遅かったため、周りには速くて小回りの利く小早船が配置されていました。

その北条水軍は1580年の春、武田水軍と駿河湾で海戦を交えています。戦いは最初、武田水軍が長浜城付近に攻め込んで始まりました。しかし、北条水軍の安宅船による反撃にあい、現在の沼津市にある狩野川河口付近まで退却し、そこで日没まで戦いが繰り広げられたと記録に残っています。

海戦は北条水軍の安宅船10艘、武田水軍の関船5艘で争われましたが、勝敗についてはそれぞれの記録が異なる内容を記しているためにわかりません。

長浜城跡の価値について

北条水軍や安宅船の詳細について、今回、長浜城跡を訪れて初めて知りました。歴史はそれなりに好きで国内海外を問わず興味を持っていましたが、戦国時代、東国にあった水軍についてはほとんど関心を持っていませんでした。

今回、北条氏の水軍城跡を訪れたことにより、わずかではありますが今まで知らなかった歴史の一面を知ることができたように思います。

長浜城跡。天守閣などが残っているわけでもなく、一見しただけでは物足りなさも感じるかもしれません。しかし、戦国時代のイメージが広がった価値の高い史跡でした。

長浜城跡

目の前の湾に安宅船などの北条水軍が停泊していた

Text & Photo(※出典元記載画像を除く):sKenji

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