ケニアの女性環境保護活動家ワンガリ・マータイさんがノーベル平和賞を受賞した記念すべき日であり、また世界人権デーでもある日
12月10日は1948年の国連総会で世界人権宣言が採択された日です。第二次世界大戦中に連合国が中心となって企図した、新たな世界平和の為の枠組みである国際連合。そのたった3回目の総会で、人権こそが世界平和を実現する最大のテーマであることが示されたのです。
それから56年後、ケニア出身の女性ワンガリ・マータイさんがノーベル平和賞を受賞します。アフリカ出身の女性として初の快挙でした。彼女の受賞理由は「持続可能な開発、民主主義と平和に対する貢献」。圧政に屈することなく民主主義の実現に向けて努めたことと、世界の持続可能な開発、つまりは環境の破壊によって地球が人類の生存できな場所となることを回避し、さまざまな知恵を駆使することで、未来の子孫たちにこの地球環境を手渡して行くための活動が評価されての受賞だったのです。
現在、世界中での穀物生産の総量は、全人類がそれを消費しても余るほどの量に達しています。しかしその反面で、世界中に飢餓に苦しむ人がいる。
これは人権の問題であるとともに、未来に向けての環境の問題、持続可能な開発という考えが浸透していない、あるいはそれが経済や政治のシステムとして反映されていないことが大きな原因です。
ノーベル平和賞を受賞した後、マータイさんは日本を訪れ「MOTTAINAI(もったいない)」という言葉を知ります。そこにこめられた、ただ単に無駄とか不経済といった意味合いだけではない、自然の恵みに対する感謝の気持ちをマータイさんは感じ取り、それ以来、世界中に「MOTTAINAI」を普及する活動に精力的に取り組みます。
さらに晩年に再来日を果たした際に、風呂敷に感銘を受けたエピソードもあります。日本人でさえ忘れそうになっていた風呂敷の素晴らしさを、彼女は直感的に悟り、それをエコのひとつの象徴としてとらえていたのです。ただの1枚の布切れが、さまざまな形に変化して、あらゆる形のものを包み込む包装の役を果たす――。
彼女は日本文化を再発見し、日本人に代わって世界に広めてくれた恩人です。
しかも、日本という限られた世界観ではなく、地球的な目線、未来に向けての思想としてそれらを感じ取っていた…。
私たちには、彼女の精神を受け継いで、世界中の次の世代に伝えて行かねばならない縁(えにし)があるように感じるのです。
21世紀の人類、そして次の世紀や世代に向けて、人権と環境は、人類が持続的に発展してく上で最も重要な課題の2つです。12月10日という日が、この2つのテーマの両方を象徴する日となったことには、深い暗示があるようにも思うのです。
歴史の中の12月10日
▼1901年 第1回ノーベル賞授賞式
ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの遺言により始まったノーベル賞。物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、経済学賞、平和賞の6分野がある。
▼1901年 田中正造が足尾銅山の鉱毒について直訴
国会での足尾銅山鉱毒事件に関する質問も政府からは無視された田中正造は、衆議院議員の職を辞して明治天皇への直訴に踏み切る。国会での質問内容や直訴状の内容は、多くの国民に知られるところとなった。そこには反逆の意など微塵もなく、ただ苦しむ農民・住民たちを慈しみ、自らの罪を賭してプラスにつながる一歩をたぐり寄せようとした切実な思いが満ちていた。
鉱毒や公害を引き起こすのは時の政治経済システムに深く組み込まれた大企業である場合が多い。そのような状況では、零細な住民・農民の訴えは無視されるか、体よくあしらわれるばかりである。そのような横暴に立ち向かった田中正造の姿勢は、100年の時を超えて現在の私たちに強く語りかけてくる。いやむしろ、100年の時を経て、同様の苦しみを感じなければならない私たちは、彼の行動の前に恥じるほかない。
※ 文語の直訴状を現代語訳するとともに、別記事として掲載する予定です。
▼1941年 マレー沖海戦
太平洋戦争開戦3日目にして、イギリスが誇る新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが、日本海軍の陸上攻撃機によって撃沈される。行動中の戦艦が航空機によって沈められたのはこれが初めてだとされる。英国首相チャーチルは「あの艦が!」と絶句したという。
東アジアにおける拠点だったシンガポール在駐の東洋艦隊主力を失ったことで、イギリス海軍はセイロン島(現在のスリランカ)、アフリカ東岸のマダガスカルまで後退することになった。
▼1948年 世界人権宣言が国際連合で採択される
第3回国連総会で、正式名称「人権に関する世界宣言」が採択された。
▼1968年 3億円事件
東京都府中市の府中刑務所付近で、東芝府中工場従業員のボーナス約3億円が現金輸送車から奪われた事件。
当時として最高の被害額であったことに加え、白バイ警官に偽装した犯人が現金輸送車の車体下にもぐり込んで発煙筒を焚くというショッキングな犯行手口、犯人の1人とされるモンタージュ写真が事件のアイコンとして社会に浸透したこと(実際には類似の人物の写真に服装を組み合わせたものだったとされる)などから、社会的に大きな衝撃を長期間にわたって及ぼし続けた事件だった。
事件は1975年の同日、公訴時効が成立した。
この日が誕生日
◆1851年 メルヴィル・デューイ
アメリカの図書館学者。図書館分類法「デューイ十進分類法」の考案者。かつての図書館は書架が図書の分類を示していたので、書籍が増えたり書架を増築する際に書籍の配置換えが煩雑だった。デューイの時代のニューヨークでは、市民の図書館ニーズも高まっていたため、旧来の書架による分類は限界に近づいていた。書籍に書架とは一切無関係の分類番号を与えるという「十進分類法」は、図書館の大衆化にも貢献したと評価されている。
◆1882年 東郷茂徳
鹿児島県日置郡出身の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時の東條英機内閣、終戦時の鈴木貫太郎内閣の外務大臣。極東国際軍事裁判では禁錮20年の判決を受けた。
◆1935年 寺山修二
東京、あるいは青森生まれの劇作家、詩人、歌人、俳人、小説家、映画監督、脚本家、随筆家、評論家として厖大な作品を残し、多くの若者に根深い影響を及ぼした。演劇実験室「天井桟敷」主宰。「書を捨てよ、町へ出よう」。
◆1941年 坂本九
川崎市出身の歌手。本名は大島九(ひさし)、愛称はきゅーちゃん。「上を向いて歩こう(スキヤキ)」や「見上げてごらん夜の星を」など多くのヒット曲を残し、歌手としてのみならず司会者としても活躍した。1985年の日本航空123便墜落事故で死亡。
この日亡くなった人たち
・1867年 坂本龍馬
・1896年 アルフレッド・ノーベル
遺言によりノーベル賞を設立した実業家。
・1916年 大山巌
鹿児島出身の軍人。陸軍元帥。日清・日露戦争で日本軍の勝利に貢献。陸軍大臣、文部大臣などの閣僚も歴任した。西郷隆盛の従弟
・1982年 チャールズ・レニー・マッキントッシュ
スコットランド出身の建築家、デザイナー。アーツ・アンド・クラフツ運動の代表格のひとりで、グラスゴーの「ウィロー・ティールーム」の内装設計、「ヒルハウス」の設計などの仕事を手がけた。マッキントッシュの椅子といえば、建築を志す者にとって特別な存在意義を持っている。
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