8万6000人以上の死者を出したパキスタン大地震と首都圏大震災

Rinoue125R

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家屋の多くが倒壊した丘の上の集落、バラコット
家屋の多くが倒壊した丘の上の集落、バラコット

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2005年10月8日、パキスタンとインドの国境地帯カシミールで、マグニチュード7.6のパキスタン大地震(カシミール地震)が発生しました。

この地震による死者は少なくとも8万6000人、負傷者6万9000人以上という極めて激甚な地震災害に発展しました(USGS:アメリカ地質調査所による)。

この被害はここ100年間の間では、唐山地震(1976年・中国河北省)、スマトラ島沖地震(2004年)、海原地震(1920年・中国遼寧省)、ハイチ地震(2010年)、そして関東大震災(1923年)に次ぐ大規模なものです。

被害状況は筆舌に尽くし難いものだったようです。USGSの資料によると、カシミール地方のMuzaffarabadエリアでは複数の村が完全に壊滅、Uriでは町の80%が破壊されたといいます。

 【参考ページ】Earthquake Information for 2005
earthquake.usgs.gov  

世界でも有数の地震多発エリア

この地域は大きな意味でヒマラヤ山脈の縁に当たる部分です。インド亜大陸がインド洋を北上して5000万年ほど前にユーラシアプレートと衝突、その後も両方のプレートが強く押し合うことで、こんにちでもインドプレートはユーラシアプレートの下に浅い角度で沈み込み続けているとされます。年間約4センチというプレートの動きがヒマラヤ山脈やカラコルム山脈、パミール高原など「世界の屋根」と呼ばれる地形を造り出したと考えられているのです。

そのような場所ですから、この地方では古くから大規模な地震が繰り返し発生してきました。にも関わらず、地震によって多くの人々の命が失われることになったのです。

地震の規模に対して被害が拡大した原因としては、ブロック造りの家屋や建築物が多かったことと、ラマダン期間だったため多くの住民が崩壊した屋内にいたことなどが指摘されています。

耐震建築はなぜ造られなかったのか

地震で壊れたイスラマバードのアパート、ボイス・オブ・アメリカによる

地震で壊れたイスラマバードのアパート、ボイス・オブ・アメリカによる

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遠い中央アジアの国で発生した大地震。日本では考えられないくらい多くの犠牲者が出たことは気の毒だけど、地震が多発する場所なのだから、もう少し耐震強度の高い建築物にすることはできなかったのだろうか。8万人以上という想像もできない人的被害のニュースに接して、そんなふうに思ったものです。

でも、現地で地震に備える住宅にできなかった背景にはどんな事情があったのでしょうか。国境紛争地域であることが影響しているのかもしれません。経済的な問題や、あるいは住宅に対する伝統的な考え方といった事情もあったかもしれません。しかし、考えようとしても、現地には行ったこともないし情報も限られているので、あいまいなイメージしか抱けません。

しかし、同じく地震多発地域である日本ではどうかと考えてみると、カシミールでの破滅的な地震災害が決して他人事ではないことがわかってきます。

多くの人命が失われる激甚な自然災害を、私たちは繰り返し経験してきました。関東大震災の火災による被害、阪神淡路大震災での建物の倒壊などの教訓から、火災への備えや耐震基準の見直しなど、災害による被害を減ずるための対策が実施されています。しかしそれでも、災害時に多くの人々の避難場所になる行政の庁舎や小中学校の耐震化率は、静岡県でさえ100%に達していないのです(1978年に法律まで制定され東海地震が心配されるようになって33年が経過した2011年時点)。

 ★静岡県耐震改修促進計画の資料編
www.pref.shizuoka.jp  

もっと言うなら、関東大震災のはるか以前の江戸時代から、「火事と喧嘩」が華と呼ばれるほど数多くの大火に見舞われてきた江戸の町では、大火の後の町の再建時に火除けの空き地としての広小路が意図的に造られることはあっても、家の構造や町並みは旧来のままのものでした。

第二次世界大戦の末期、数次にわたる大空襲で町の多くが焼失した後の東京も、人々は焼け跡のバラック小屋から発展した、木造家屋が密集する災害に弱い町として復興を進めたではありませんか。今でも東京の下町や山の手の古い町では、当時の区画そのままの家並がそのまま残っています。野良猫1匹通れるほどの隙間で背中合わせのように建てられた住宅地が、ある意味、東京の原風景だと思うのです。

約半世紀に及んだ、例外的に地震災害が少ない期間に当たったことも一因して、東京は激甚な災害に見舞われることはなく、50年前のオリンピックや四半世紀前のバブル期に横行した再開発によって、ようやく終戦後の町並みのある程度の部分は整理されることになりましたが、それとて防災のためではなかったのです。

表通りだけを歩いていると、東京の町は江戸の昔や戦前の姿を想像することすら困難なほど、モダンな建物が立ち並んでいますが、それは表側の顔に過ぎません。「開発」の波にさらされることがなかった多くの場所には、防災に弱い戦前戦後の町並みが今も残っています。そんなところに大規模な自然災害が襲いかかってきたら。

今すぐ町全体を防災化せよ、なんて訴えているわけではありません。過去にひどい目にあって、その反省の上に再建されたはずのものであっても、なかなか前に進まないのが防災というものなのかもしません。一朝一夕には解決できない複雑な事情があるのでしょう。防災や減災対策を進めるのと同じくらい重要なことのひとつに、自分たちの生活空間を過信しないことがあると思います。多くの弱点をもつ環境に暮らしていることを忘れないことです。

ブロック造りの建物が町全体で倒潰して、信じられないほど多くの犠牲者を出してしまったカシミールの大地震。その被害は決して対岸の火事ではない――。この地震で失われた多くの人々の命が、そう訴えているように感じます。

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